ベンはケンよりのツヨシ

加賀倉 創作【コールドスリープ中】

ベンはケンよりのツヨシ

 今日は、昨日あった学校の体育祭の振替休日で、珍しく平日休みだ。


 高校生たちの跳ぶ大縄を回す大役は、なかなかハードだった。


 僕は、その持ち前の筋肉とタッパの高さを活かして、教え子たちの負担が軽くなるよう、ビュンビュンと縄を振り回した結果、僕が担任を務めるクラス、三年八組が、優勝を勝ち取った。


 その上前日に、生徒から英語弁論大会用の原稿の添削を急遽頼まれて、徹夜明けだったが、これも敏腕英語教師と周りから呼ばれる、僕の務めなのだろう。


 僕は正直、あまり高校の英語教師という職業が好きではない。


 その理由は例えば、この教師という仕事に、毎晩遅くまで、べらぼうな長さの残業が伴うから、ではない。


 正確には、英語教師をやっている自分が嫌いだ、と言った方が正しいだろうか。


 僕は、小学、中学、高校とアメリカで過ごし、それら以外の期間は日本で育ったバイリンガルだ。


 日本に戻ってからは、英語ができると周囲からは褒められたが、英語を習得するのに、大して努力をしたとは思っていないし、実際にもしていない。


 環境や機会に恵まれただけなのに、大きな面を引っ提げて生徒たちに英語とは何たるか能書のうがきを垂れる僕の姿は、醜悪そのものであるとさえ思う。


 まぁでも、一旦そのことは忘れよう。


 やるべきことが、あるからだ。

 

 今僕は、妻と一緒に、朝からテーブルの上で分厚い六法全書ろっぽうぜんしょを広げ、眺めている。


 〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 戸籍法第百七条のニ

 正当な事由じゆうによって名を変更しようとする者は、家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出なければならない。


 〜〜〜〜〜〜〜〜


 僕は、そのページをじっと見る。


「正当な事由ってなんだろう?」

 僕はぼそっと呟く。


「うーん、わからないわ。調べてみましょ」

 と、妻。


「そうだね」

 

 僕はスマホを取り出し、検索エンジンを開いた。


「改名、正当な事由とは」

 普段より、僕のフリックするスピードは速い。


 検索結果は百二十万件。


 画面をスクロールすると、知恵袋に、似たような疑問を持っている人がいたので、そこをタップした。


 〜〜〜〜〜〜〜〜


 正当な事由とは、名を変更しないとその人の社会生活において重大な支障を来たすことを指します。単なる個人の趣味や、感情、信仰上の理由では不十分となるのがほとんどです。


 〜〜〜〜〜〜〜〜


「医者から診断書は出てるから、それを持っていけば改名を認めてもらえるかな? 」

 と、僕。

 

「きっといけるわよ」

 と、僕の肩を、ポンと叩く妻。


「だよね。それで、具体的にはどんな手順になるんだろうか」


 僕は検索窓をタップする。

 

「改名、手続きっと」


 一番上に出てきたサイトを開くと、こんなことが書かれていた。


 〜〜〜〜〜〜〜〜

 

 戸籍に記載された名を変更するには、家庭裁判所の許可を得てから、市区町村役場に届出が必要。本籍地あるいは、住所地の役場に届出してください。届出にあたっては、戸籍謄本こせきとうほんなどの提出を求められることがあります。


 〜〜〜〜〜〜〜〜

 

「なるほど。じゃあ午後には診断書を持って、まずは家庭裁判所。それから市役所に行って戸籍謄本をもらって、そのまま手続きかな」


「ええ、そうしましょう。今日中に全部済むといいわね、先生は平日の休みは貴重だもの」


「うん」


 スマホの画面が、時間経過でスリープモードになる。


 暗くなったスマホの画面に、僕の胸像きょうぞうが、映る。


 広い肩幅に、筋肉質でゴツゴツとした体。


 発達したあご


 顎先からほほにかけてと、鼻の下に目立つ青髭あおひげは、真っ黒な画面でもよく見える。


 太い眉に不釣り合いな、一重瞼ひとえまぶたと、薄い睫毛まつげ


 この姿は、嫌いだ。


 胸が、痛い。

 

 だから、来週、僕は、生まれ変わる。


 

 ***



 午後。

 

 晴わたる空の下、僕は市役所の前を、妻と手を繋ぎ、鼻歌を歌いながら歩いている。


 裁判所から市役所までの道中、小雨に降られたが、そんなことはどうだっていい。何なら今、空には大きい虹がかかっている。清々しい気分だ。


「何よ、鼻歌なんか歌っちゃって。珍しいわね」


「いやぁ。だってあんなにすっかり許可が下りるとは、思わなかったから」


「そうね。あなたが嬉しそうで私も嬉しいわ。フンフフンフフン♪」

 妻も鼻歌を歌い始め、メロディを僕に被せてくる。

 

 一ヶ月前、僕の選択を、あっさり受け入れてくれた妻。その受け入れる早さといったら、さっきの家庭裁判所の係も顔負けだった。


 市役所の入り口を抜けると、「各種変更届」と大きく看板の掲げられたブースに入り、箱型の機械から「七番」と書かれた整理券をもぎる。


 ソファに座って必要な書類を出し、しばらく待とうとしたが、空いていたのか、僕の番号はすぐに呼ばれた。


 〈七番でお待ちのお客様、一番窓口へどうぞ〉

 

 受付の女性の声は、ウグイス嬢のアナウンスのような、やけに綺麗な声だった。


「歩いて疲れただろうから、座って待ってて」


「はぁい」

 

 僕はソファに妻を残し、少し早歩きで向かう。


「あ、僕です」


 僕は整理券を、受付の女性、もとい、宝塚歌劇団の男役のように凛々りりしい顔立ちの係員に、見せつけた。


「どうぞ椅子ににおかけください。そちらは提出書類ですか?」


「あ、はい」

 と、僕は食い気味に返事をして、書類を勢いよく突き渡した。


「えー、小林ベン様、ですね。今日はどんなご用件で?」


「改名です。さっき、家庭裁判所で許可はもらってきました。ほら、これです」


 僕は書類の束から、改名許可証を抜き取って、彼女に見せつけた。


「改名ですね、かしこまりました。必要な書類が揃っているか、確認いたしますね」

 彼女はにっこりと、自然な笑顔で、そう言った。


 僕はこの人が担当で、幸運だな、と感じた。彼女に、何か僕と似たものを感じたのだ。


「はい、お願いします!」


 彼女は、慣れた手つきで、書類の束をめくる。


「あ……」


 彼女の紙を捲る手が、一瞬止まった。


「どうかしました?」

 

「来週、手術なんですね」

 と、彼女はぼそっと言った。


「あぁ、そうなんです」


 そう。来週僕には、生まれ変わるための、大きな手術が控えている。


「すみません、個人情報なのに。つい、診断書が目に留まったもので」


 僕は、特に不快に思わなかった。彼女の好印象を打ち消すほどのことではない。

 

「全然、気にしませんよ」


「そうですか。いずれにせよ、出過ぎた真似を、失礼いたしました」

 

 彼女は、書類の確認を続けた。


 一周して、もう一度捲り直す。そして、また一周。


 何か足りないようだった。

 

「お客様、戸籍謄本はお持ちでしょうか?」


 しまった。つい浮かれて、戸籍謄本をとる前にこちらに来てしまった。

 

「あ! すみません。先にとるつもりが、忘れていました」

 と、愛想笑いをしながら、一旦席を立とうとする僕。


「待ってください」

 

 僕が腰を浮かすよりも速く、彼女は僕の手を掴んだ。


 どういうことだ?

 

「ええっと、何でしょう? あっちに行って並び直さないと、ですよね?」

 と、確認する僕。


「いえ、このまま座って、待っていてください。私が向こうへ行って、戸籍謄本、出してきますから」


 何ということだ。最近の役所はこんなに親切なのか。それとも、僕の境遇に同情したか?


「え、でも……いいんですか?」


「はい。今日はいていますので、誰も文句は言いませんよ」


 なるほど。今日は、なんて運がいいんだ。


「そうですか、わかりました。では、お願いします」


「では、この書類、一旦お預かりしますね。合わせて改名手続きも、パパッとしてきちゃいます」

 と、彼女は微笑み白い歯を光らせながら、舞台役者の決め台詞ぜりふのようにそう言うと、書類を持ってバックヤードへ入った。


 

__数分後__



「お待たせいたしました」


 彼女は想像以上に早く戻ってきた。さっきまで空欄まみれだった書類には、お手本のような綺麗な字が並んでいる。

 

「こちらの書類の署名欄に、改名後の氏名で、サインしていただくと、手続きは完了になります。では、こちらのボールペンでご記入ください」


 署名欄にボールペンの先を乗せる。その瞬間、僕は奇妙な違和感を覚えた。

 

 僕は来週、新しい姿に生まれ変わる手術を控えている。


 その前に、名前を変えるのは、何か違う気がした。


 赤ん坊は、この世に生を受けて、産声をあげて、名前を授かる。


 もちろん世の中の親は、出産のずいぶん前から、生まれてくる子の名前を考える。


 だが、生まれる前から、授かる予定の名前を、自分でボールペンで書く胎児はいるだろうか。


 詭弁きべんかもしれないが、僕には、それが何となく、腑に落ちなかった。


 新しく生まれてから、新しい名前を授かりたい。


 僕は、そう思った。


 ボールペンを、テーブルの上に、置いた。

 

「やっぱり改名は手術の後にしてもいいですか?」


「あぁ、構いませんよ」


 彼女は、やけにすんなりと承諾した。


「本当にすみません、途中まで手続きしてもらったのに」


「これくらい、お安いご用です」


「やっぱり、生まれ変わった姿で、後日改めて改名しに来たいんです」

 

「そうですか。お客様のお気持ちは痛いほど、よくわかりますよ。どうぞお客様のお好きなように、なさってください」


 僕は一旦書類を引き取って、カバンにしまおうとする。


 それを見たのか、妻は不思議そうな顔をして僕に歩み寄ってくる。


「ちょっとあなた、どうしてサインしないの?」


 そう言われて、当然だ。わざわざこんなことに付き合わせて、半日を無駄にしようとしているのだから。


「手術の後にすることにしたんだ」

 

「えっ、手術の後? また平日に仕事を休んで来るのは、大変じゃない? 改名が先じゃ、ダメなの?」


「うん、気が変わってね……そうだ、お姉さん、なぜ僕の気持ちがわかるんですか?」


 そう、そこが引っかかった。なぜわかるのだ。


「実は……私も三年前、お客様と同じ病院で、手術を受けたんです」



 

 ***


 


 一週間後。


 目が覚める。


 窓から射す光が眩しいが、おかげでポカポカする。

 

 病院のベッドに横たわる私。


 包帯まみれの体。


 包帯は、顔にも、胴体にも、四肢にも、まとわりついている。

 

 手術は、無事成功したと聞いた。


 包帯の下には、それと同じくらい白い肌が、ちらりと覗く。


 私が求めていた、自分の姿だ。


 ただ、胸の手術は難航したらしく、しばらくは傷が残るかもしれないと聞いた。


 退院後は、翌日から教鞭を執らなければならないけれど……


 だとしたら、改名手続きする暇がない。


 あ、いいことを思いついた。


 学校には黙っておくけれど、術後の入院を一日延ばしたことにする。


 退院翌日は……平日。


 その一日で、再び市役所へ改名手続きしに行くことにしよう。


 あのタカラジェンヌにまた、会えるかな。


 私は、昼の暖かさのせいか、ウトウトしてきて、再び眠りについた。


 

 ***


 

 俺は、けん

 

 昼間は別な仕事をしているが、深夜はマスクを被り、一般人は知る由もない秘密の闘技場で、剣闘士けんとうしをやっている。


 毎晩、金を持て余した政治家や企業の重役が、俺の勝利に莫大な金を賭ける。


 なぜなら、俺は千九百八十七戦千九百八十七勝。無敗の剣闘士だからだ。


 不断の鍛錬たんれんによってつけた体力、筋肉、技。


 中でも剣の扱いには誰よりも自信がある。


 大体の敵は、俺の一太刀で、再起不能におちいる。


 それが通用しない賢い敵に備えて、勉強や脳トレ、読書も欠かさない。


 そして徹底的な食事制限により、肉体美にも気を払っている。


 だから、そんぞそこらのただの力自慢には、負ける気がしない。


 俺は、確かに、強い。


 だが、どうして命を危険にさらしてまで、大金を稼ごうとするのか、疑問に思う者もいるかもしれない。


 大金を稼ぐ理由。


 それは、俺の竹馬ちくばの友の、つよしに、金を工面してやるためだ。


 剛は天才的な小説家だ。


 彼は、人類皆がたまげるであろう、傑作を隠し持っているという。


 ある時、将来それを自費出版して、タダ同然の値段で世界中にばらくという野望があるのだと、聞かされた。


 だが、あいにく、その資金がない。


 俺は、剛の最高の作品で皆に喜びを与え、彼の名を世界に知らしめるために、今夜も、マスクを被り、剣を振るうのだ。

 

 ***


 

 退院翌日、市役所にて。

 

 〈三十八番でお待ちの、小林淑子よしこ様。小林淑子様は、いらっしゃいますでしょうか。書類の準備ができましたので、一番窓口まで、お越しくださいませ〉


 この声は!


 あのタカラジェンヌだ。


 やった、会えるかもしれない。あとは窓口の引運だけども……


「ねぇ、あなた。あなたのこと、ヨッシーって呼んでもいいかしら?」

 妻が、やぶから棒に、そう提案した。


「えっ、何? ヨッシー?」

 と、聞き返す私。

 

「うん。あなたの新しい名前に、ぴったりの渾名あだなだと思わない?」


「どうしてヨッシー?」

 私はまだ、妻の言うことに、ピンとこない。


「だって、あなたの名前には、ヨシって音が入ってるじゃない。それをちょっと延ばした発音をしただけ。なんでわからないのよ」


「あぁ、そういうことね。自分で決めたくせに、まだ慣れないから、わからなかった」


〈三十九番でお待ちのお客様、一番窓口までお越しくださいませ〉


 再び、あのタカラジェンヌの声。私の手には三十九番の番号札。


「あら、小林さん。新しい姿に生まれ変わったのね! 髪も伸びて、何だかシュッとしたし、肌もツルツルで、色白で、とっても素敵だわ」


「ありがとうございます。細くて色白の方が、文豪ぶんごうっぽく見えませんか? ほら、芥川龍之介みたいに」


「それもそうですね」


「やっぱり、受けてよかったです。自己同一性障害矯正きょうせい手術がある時代に生まれて、幸運でした」


 自己同一性障害矯正手術。

 

 多重人格の患者の人格を、患者の最も望む形で一つに統合し、姿形も一新する大手術。


 これにより、患者はたった一つの人格を宿す新しい自分として生まれ変わり、新たな人生を歩む。


 精神科医は、私に、べんけんつよしの三重人格が宿っていると診断した。


 そして私は、この最先端の手術を受ける決意をした。


 手術以前の記憶は選択的に消去、引き継ぎが可能で、もちろん妻との思い出はしっかりと残っている。


 勉の人格は消え、英語ネイティブとしての脳内の辞書、文法書は綺麗さっぱり削除してもらった。


 拳の人格も消え、剣闘士としての決闘で受けた胸の大きな傷は、高度な縫合手術で、これまた綺麗さっぱりなくなった。


 拳の人格は、勉と違って相当な努力家だったし、手術のための費用も稼いでくれたから、気に入っていた部分も多かったが、これも生まれ変わるための大事な手順と思い、削除するべきものは全て削除して、筋肉も失った。


 そして、剛の人格。


 これを残し、小説を書くのだ。


 自己同一性障害という、正当な事由に基づき、改名することになった私。


 今、私はボールペンを握り、「小林つよし」という名を、署名欄に書き入れようとしている。


 手術の日から、私はペンを一度も握っていない。


 生まれ変わってから初めての文字を書く体験は、今、小説家志望の「小林つよし」という名前を書くために、取っておいた。


 私は、下手だが、大きく、強い筆圧の文字で、「小林つよし」と記入した。


 少しまで、勉は、拳よりの剛だった。


 今の私には、別な言葉がふさわしい。


 ペンは剣よりも強し。


 〈完〉

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