第5話 幕府創設

 湊川での敗戦の報を聞き、新田義貞は後醍醐天皇とともに比叡山へ移った。

 5月29日に京は足利勢に占領され、尊氏は6月14日に入京。

 名和長年は、光厳上皇が入った東寺を攻めたが、名和勢の攻撃は阻止され、名和は討死。

 負けじと6月20日、足利勢は西坂本を攻めた。

「高師重捕えたり」

 新田勢が高師重を生け捕りにしたと聞かされ、

「憎き師直の父を捕らえたか!」

 延暦寺の僧兵は大いにわいた

 延暦寺に引き渡されてたのは、師直の弟の師久であった。

「弟であろうと仏敵にかわりはない!」

「殺せ」「殺せ」

 と僧兵だけでなく、町衆からも叫ばれ、師久は殺された。

 義貞は近江から京に出て東寺を攻め立てた。

 が、東寺はなかなか落ちない。ヤケになった義貞。

 義貞自ら東寺へ矢を打ち込むと、

 「尊氏。一騎討ちで勝負を決しようではないか!」

 と大声を上げた。

 それを聞いた尊氏。

「いっちょやったるか」

 と腰を上げたが、上杉重能が、

「お止めなされ!」

と制止し、

「今日日、戦のやり方も変わって、大勢が入り乱れて戦い、不意打ちが当たり前のこのご時世に、一騎打ちなど古臭い古臭い。お止めなされ」

 尊氏は重能の言葉を聞き入れた。

 京都奪還叶わず義貞は引き上げたが、その頃、直義が比叡山への糧道を断ち、後醍醐帝との和平交渉を行っていた。

 公家たちはすんなり応じた。

 公家たちの不審な動きに疑問を感じていた義貞家臣の堀口貞満が比叡山の内裏にすぐさま駆け上がると、後醍醐天皇は既に出発直前であった。

 貞満は後醍醐天皇の乗る鳳輦の轅にすがりついて、目ながらに公家たちの無節操ぶりを非難した。

 それから間もなく義貞達3000騎も駆けつけた。

 このとき、新田一族の怒りは爆発寸前であったが、義貞はどうにかして抑えていた。

 公家らは義貞に新田一族の功をねぎらい、

「和議を結んだのは計略よ」

 と言うと、北国へと向かう恒良親王と尊良親王の同行を命じた。

 10月10日、義貞は両親王は北陸道を進み敦賀を目指した。

1336年十一月七日、京の足利尊氏邸。

 足利尊氏は新たな掟、「建武式目」を定めた。

 御成敗式目は基本法として継続採用された。

 この式目の制定によって、尊氏による新しい幕府の第一歩がしるさた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

悪名の冠 足利将軍家十五代記 林マサキ @hayashi-Kirjailija

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ