第38話 あなたのヒロイン
「ケーキまだいい?」
「あーまだそんなにお腹が空いてなくて」
「昼にいっぱい食べたもんね。もう少ししてから食べようか。吉瀬たちが行く店は今度にしよう」
「今頃二人、どうしてますかね……尾行すればよかったかなあ」
「ダメでしょ」
蒼井さんが目を線にして笑う。冗談だよ、ちょこっと本気だけど。そういう彼も、気になるのか二人の話題を続ける。
「もしかしたら今日上手くいくかも」
「え、そんな急展開来ます?」
「そんなに急じゃないよ。あの二人はもう一年以上一緒に働いてるんだしね。お互い意識してながら全然進んでこなかったんだから、遅いくらいだよ」
「ああ、そうか……って、吉瀬さんもそんな前から意識してたんです?」
「多分ね。徐々にいい子だなーって認識していったんだと思うけど、今はちゃんと自覚してると思うよ。そうじゃないとあいつの性格上、二人で出かけるのとか受けないから」
「そうですね!」
吉瀬さんって確かに、どんなに可愛い人に言い寄られても、自分が気に入ってなかったら断りそうなイメージだ。あまり表情に出ないしつかめない人なんだけど、自分をしっかり持ってるのは分かる。
私は二人が向かい合ってお茶をしているところを想像し、にやにや笑う。
「また一人楽しんでる」
「いや、思えば吉瀬さんとケーキ屋って面白い図ですし。一体どっちがどんな話題を振るのかとか、坂田さんはケーキすら緊張で食べられないんじゃないのかとか」
「さすがにお茶で解散はないと思うんだけどなあ。時間潰して夕飯に行ったり」
「そこでお酒飲んで緊張がほぐれて勢いで告白しちゃったり!? ああっ、想像が止まらないです!」
「やだなあ、人の恋愛より自分の恋愛を考えてよ。今どこにいるか分かってる?」
蒼井さんがにっこり笑ってそう言ったので、それまであった私の勢いは一瞬で静かになった。前のめりだった体をゆっくり戻し、座り直す。小さくなりながら、とりあえずコーヒーを飲んでみた。
蒼井さんの家に来るのは四回目だ。でも、どれもゆっくり過ごしてさようなら、としただけである。
それは次の日も仕事がある平日だったから、という理由も一つ。でも、一回は日曜日に訪れたこともある。それでも蒼井さんはキス以上の事をしてくることはなく、今日に至る。
相手の家に行って何もされないなんて初めてだった。今まで男性と言えばすぐにホテルに行きたがるだとか、じろじろ胸元ばっかり見たりだとか、そういうことばっかりだったのに。
付き合いだして一か月間前進はない。一度、彩にちらりとこぼしたことがある。
『へえー大事にされてんだね。あれじゃない? 一番最初に行った時、ちょっと手を出しそうになったのを反省してんじゃない? いいじゃん、誠意を感じられて』
あっけらかんと彩はそう言っていたけど、私にとっては衝撃的だった。
大事にされてる。そっか、大事にされてるのか。
最初に来た時、私の反応を見てあんまり心の準備が出来てないことを察したのだろう。こちらの事を待っていてくれたのかもしれない。
すっかり静かになった私を見て、蒼井さんが隣で笑う。
「ほんと面白いね。急に静かじゃん」
「ど、どうも」
「ごめんごめんからかった。別に急いでないよ。安西さんと一緒にいられるだけで十分楽しいから」
そういうことを言える男性がこの世にいたのか! 私はぐっと恥ずかしさで顔を熱くさせた。
またコーヒーが無味になってきたぞ、私はドキドキが絶頂に達すると味覚や嗅覚が死ぬらしい。
「あ、あの、蒼井さん……」
「あ、でも思ってたんだよ。いい加減お互い名字呼びはやめない? 言おうと思ってたのにすっかりきっかけを無くしてて」
「あ……それは確かに。と、ととととと斗真くんでいいですか」
「とが多い」
「斗真くん」
「斗真でいい。なんかくん呼びは嫌いな響きになっちゃった」
遠い目で言ったので、ああ鈴村さんのことか、と察した。確かに。『とーまくん』呼びと言えば鈴村さんだもんなあ……。
「で、では斗真、で。……いやあ、仕事もあるしなかなか慣れない気もします。呼べるかなあ」
「朱里」
急に呼ばれたので、勢いよく隣を見てしまった。あお……違う、斗真が私を優しい顔で見ている。
……呼び方が変わるだけで、こんなに何かが変わるなんて。
固まってしまった私を、彼は小さく笑う。
「いいね」
「……え?」
「朱里ってほんっと、見てて面白いし楽しいよ。いつも一生懸命だし、強い所は強いし、でも急に落ち込んだり。いろんな面があって、ほんと可愛い」
「かわ」
「こんなに誰かを好きになったの、初めて」
ストレートがすぎる!!
私の心臓が持たない。斗真には恥ずかしいとか照れくさいって感情がないんだろうか? いつも私を甘やかしすぎている気がする。
顔から湯気が出そうな私をにこにこ顔で眺めている。その様子を見て、さては半分からかってるのもあるな? と気が付いた。
じっと睨んでみると、向こうが不思議そうに首を傾げる。
「なに?」
「からかってませんか」
「ううん、全然。いつも正直に言ってるだけ。だってさ、ちゃんと伝えておかないと、朱里って思いこみ激しいじゃん。こっちの気持ちを変な風に受け取られても困るから、もうきちんと毎回正直に口に出すようにしたんだ」
私の性格を熟知している。完敗だ。
黙ってコーヒーを飲んで自分の心を落ち着ける。彼がここまで私を知ってくれている事、その上で好いていてくれる事、嬉しいと思うと同時に、言われてばっかりじゃいけないと思った。
カップをテーブルに置き、私はしっかり彼の目を見つめる。
「あの、私ほんと中身残念って言うか、そういうところもありますけど、斗真がそう言ってくれて本当に嬉しいです。それに斗真はびっくりするぐらい好青年って言うか、仕事も出来るし気遣いでも出来てみんなから好かれてて私にはもったいない人で……なんで付き合えてるの? って感じです。私こそ、いつもこう彼氏がキラキラ輝いて見えてて病気か? って感じなぐらいで、えっと何が言いたいかっていうと」
そこまで言った時、彼が突然私の口を手でふさいだ。同時に彼は俯いて顔がよく見えなくなる。
急に言葉を止められて、きょとんとしてしまう。
「はの……」
「待って」
遮られたので黙って見ていると、斗真の耳が赤いことに気が付いた。それで、彼が照れているということに気付いたのだ。
珍しい。基本、いつも涼しい顔をしているのに。私が言った言葉にこんな風に反応してくれるなんて、なんだか嬉しいじゃないか。
嬉しさからつい、ふふっと小さく笑ってしまった。それを聞かれたのか、顔を上げた彼がぎろりとこちらを睨む。そして、手をどけたかと思うとそのまま仕返しとばかりにキスをされた。
そうなればもうこちらは白旗を上げる。真っ赤になってしまうのは私の方になるのだ。
しばらくして離れた時の彼の顔は、してやったりの笑い顔だ。
「……勝った、って顔してる」
「何言ってるんだか。こちらはずっと負け続きだよ。どれだけ口説いても他の女性とくっつけようとされてたんだからね」
「ぐう。その節は」
「はは。結果よければすべてよしだから、今思うといい思い出だけどね。なんか水が飲みたいな、いる?」
そう言いながら体を離し立ち上がる。冷蔵庫に向かって行った後姿に、私はつい反射的にこう言っていた。
「今日、泊まってもいいですか?」
勢いよく斗真がこちらを振り返った。目を真ん丸にして、私を見ている。
今日こそは自分から言ってみよう、って思ってた。だってもう子供じゃない、一か月以上もあれば心の準備は出来ていた。私の様子を見てゆっくり進もうとしてくれる彼の気持ちが、本当に本当に嬉しくて、だからこそ進みたくなった。
いつだって私のペースに合わせてくれる、そんな人にはきっともう二度と出会えない。
しばらく沈黙が流れた後、彼は天井を仰いだりどこか遠くを見たりして考えた後、私に恐る恐る尋ねる。
「あー……念のため聞くけど、それって意味わかって言ってるよね? 朱里って天然なとこあるからさ」
「さ、さすがに大丈夫です! 私もう二十七なんですよ!?」
「そう。そう……」
彼はそう言って少し黙った後、目を細めて笑った。
「ダメって言うわけないよね」
その返答を聞き、喜びと同時に恥ずかしさと期待が押し寄せる。また緊張し始めてしまった自分を落ち着かせるため、今日買ったケーキの事を思い出してみた。うん、まだケーキも食べなきゃいけないし明るいし、時間はたっぷりあるのだぞ!!
「っていうか、じゃあ泊まりの準備持ってきたの? その割に荷物少ないと思うけど」
斗真がそう尋ねてきたのでハッとした。今日は泊まるつもりでいた、そう斗真に提案するつもりだった。なのに、お泊りセットのことはすっかり頭から抜け落ちていたのである。
「ああ! 忘れてた!」
私が悲痛な声を上げると、斗真はげらげら笑う。そして私の隣に座り直して言う。
「さすが。期待を裏切らないね」
「すみません、ちょっと近所の薬局にでも」
「でも、大概のものはあるから安心して。歯ブラシとかクレンジングとか基礎化粧品とか? そういうのは全部揃ってるよ」
笑顔でそう言われたので固まった。歯ブラシはまあストックとかあると思うけど、クレンジング……? 基礎化粧品?
「まさか、元カノが使ってたやつ……?」
「僕がそんな失礼なことをすると思う?」
「化粧男子だったんですか?」
「全部新品です。こういう時のために準備しておいた」
用意周到すぎないか? 嘘でしょう、こうなることを見越して揃えていたなんて。
「服はまあ僕のを貸すし……下着は夜に洗濯しておけばいいよね? いらないもんね、夜は」
「え゛。いらないって」
「いらないもんね?」
いつだったか『僕は計算高い所がある』みたいな事、言っていたけど……なんだかようやく分かった気がする。彼は、ただ爽やかに笑ってるだけの人じゃない。
甘く見ていたかも……。
「ど、どうもありがとうございます……」
「いつ泊まりになってもいいように、他にもいろいろ準備しておいたから」
「いろいろ?」
「いろいろ」
「いろいろ……」
この人が言うとなんか深読みしてしまうな。
そんなことを考えて首を横に振った。まず第一に、泊まる道具を忘れてきた自分が悪い。そして、斗真は私のそういうドジなところを分かっていたのだ。だからあらかじめ準備できるものは準備してくれていた。
私はまず感謝すべきだ。
「ありがとうございます、私の間抜けっぷりをさすが見抜いてましたね……」
「んー今回はそういうことじゃなくて。男としてたくさん下心があったからだよ。朱里がいつ来るかなーって、楽しみにしてただけ。変わってるかな?」
「わ、分かりません! でも、私は実際助かるので結果オーライです」
「じゃ、よかった。はあ、ケーキなんて食べる余裕ないかも。どうする?」
「じゃあ私が二個食べます!」
「そういうことじゃないんだけど……」
そう言って彼が笑った。私もつられて笑った瞬間、深いキスを落とされてそのままソファに押し倒された。笑って力が抜けていたのであっさり下敷きになる。
あっ、油断した。
そう思ったけど、もう身を任せるしかなかった。キスの合間に時折見える彼の顔は、また普段と違った特別な表情で、一体いくつ顔を持っているんだろうとぼんやり思う。
きっとこのまま溺れていく。溺れさせられる。
でも心地いいので、抗うことはしない。
彼が私にたくさんの愛を注いでくれているのだと、分かり切っているのだから。
おわり
最後までお付き合い頂きありがとうございました!
ヒロインになれませんが。 橘しづき @shizuki-h
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