2-7
夜がすっかり明けきった頃、
扉のところに立っていた少年は、こちらの姿を見とめるや、弾かれたように駆け寄ってきた。その背後には、一組の男女の姿がある。透佳の父と母だろう。寝付いているとのことだったが、瘴気
わずかとはいえ恢復をみたのは、いま青嵐の傍にいる
青嵐は亜深とともに木々を抜け切り、駆けてくる透佳のほうへと歩を進めた。
「お
透佳は言って、にこりとする。そういえばたいした事情説明もせずに少年の家を離れてしまっていたことに、青嵐は今更ながらに気がついた。どうやら要らぬ心配をさせてしまったようだ。
「何ともないから、大丈夫だ。おまえのところの守り神さまも、無事だったみたいだぞ」
そう言って、豺のほうへと、ちら、と、視線を向ける。霊獣は、
獣の青鈍色の眸がそっと眇まる。透佳はしばし、大きな眸をぱちぱちと瞬きながら、じっとそちらを見ている様子だった。
「もしかして……これからは、豺さまだけじゃなくて、
やがて青嵐を見上げた少年が、何かを感じとったらしく、そんなことを訊ねてくる。はた、と、目を瞠った青嵐は、思わず亜深を見た。すると天涯山主は、くすん、と、ひとつ肩を竦めた。
「ぜひ、そうして差し上げなさい。あちらの焔烏はどうも、君たちの守護者の、ご友人のようですからね」
ふ、と、笑って、そう答える。
それを聴いた透佳は、わかった、と、屈託なく答えた。
「さて。君の一家の懸念は払われたようですし、私たちはもう行きますね」
「うん。ありがとう、お哥さんたち!」
「両親ともども、達者でな」
青嵐は言って、置いたままになっていた荷を手に取ると、いつまでもこちらに手を振っている相手から離れて、亜深と共にもとの旅路へと引き返した。豺と焔烏も、やがて山の奥へと戻っていったようだった。
*
「あのさ……亜深」
しばらく行ったところで、青嵐は傍らの相手に声をかけた。すると亜深は、ちら、と、灰色の眸で青嵐を睨み据える。柳眉が寄せられ、その表情は、あからさまな不愉快を滲ませていた。
「気安く名を呼ぶなといいませんでしたっけ?」
相手はそんな文句を口にした。
青嵐は、む、と、くちびるを尖らせる。
「なんでだよ。アンタだって俺の名前を呼ぶだろ?」
それも時に、呪としてだ。問答無用で青嵐に言うことをきかせるためにそうすることもあるくせに、と、翻って相手を責めると、亜深は黙って溜め息をついた。
そんな相手の態度を見ていると、青嵐はまた、なんとなく腹が立ってくる。
「……なんで、名前、呼ばれたくないんだ?」
やがて、ぼそ、と、訊ねている。
亜深は、じろ、と、青嵐を見た。灰色の眼差しに、非難めいた色が宿っている。
「なんだよ? ちょっと質問するくらい、いいだろうが」
睨まれて、ややたじろぎながら反論したら、相手はまたあからさまな長嘆息を漏らした。
「名を呼び、呼ばれ、そうするうちに……相手に親しみが湧いてしまうのが、怖いのかもね」
しばらくして返った静かな
「誰かと親しんでも、そんな相手に、私は必ず先立たれてきましたから。だからかもしれませんね」
ただそれだけですよ、と、しずかに付け足し、亜深は灰色の眸を眇めて、どこか遠くを眺めるようにした。口許には――まるで何かを諦めたかのような――ちいさな笑みが浮かんでいる。それは切なげで、胸を締め付けられるような微笑だった。
いったい幾度、亜深は大事な相手を見送ってきたのだろう。その度に、どれほどの孤独を噛んだのだろう。青嵐は改めてそれを思った。
ここ数十年でただひとり名を教えた相手が凌王だ、と、亜深は言った。きっと青嵐の主は亜深にとって、久々に心許した、特別な
その前は、と、想いを馳せてみる。亜深は天涯山を欠片も離れられないわけではないらしい。だとすれば、あるいはかつて遠い昔日には、もっともっと、中原の人々と近しく交わっていたりもしたのだろうか。それでもやがて、誰も彼もに置いていかれることに疲れて、天涯山に籠るようになったのだろうか。
彼が味わった想い。それは、ほんの十数年しか生きていない自分には、きっと計り知れないものだった――……けれども、と、青嵐はてのひらをきつく握り締める。
そっくり理解は出来なくとも、きっと、想いを寄せることならばできるはずだ。
「
「……なに?」
「莫迦だな、アンタ。俺がアンタを殺すっつってんだろ……亜深」
ぼそ、と、けれども敢えて、青嵐は彼の名を口にした。
天涯山主は灰色の目を軽く瞠る。まじまじと見詰めれて、気まずくなって、青嵐は、つい、と、相手から視線を逸らした。
そうしながらも――まるで
「俺がちゃんと、アンタを死ねるようにしてやるから。だからアンタは、それまで……ちゃんと、生きたほうが良い」
青嵐がそう口にしたとき、さぁん、と、ふたりの間を風が吹き抜けた。
「ちゃんと生きる……ですか?」
わからない、と、そんなふうに、亜深は小首を傾げる。端正な顔に怪訝を浮かべる彼の長い艶やかな黒髪が、さら、と、わずかに揺れた。
「そうだよ!」
青嵐は苛立ち紛れに声を荒らげた。それでもまだ、どういうこと、と、きょとんとしている亜深を相手に、だからさ、と、眉を寄せ、苛々しつつ、言葉を継ぐ。
「だから! 死なないからって怪我に無頓着とか、平気で毒を口にするとか! そういうの、見てるこっちがしんどいんだよ、やめろっての!」
「はあ」
「はあじゃない。返事は、はい、だ。あと、な……俺は、アンタの名前、呼ぶからな、これからも! アンタだって俺を呼ぶんだから……それで、公平ってもんだろ?」
「そんなものですかね」
嘆息をこぼされて、そんなもんだっての、と、青嵐は強引に言い切ってしまった。
「アンタ、さあ……出自は
最後はあたかも啖呵を切るように青嵐は言った。亜深はぽかんとしている。けれども、一拍の後、くつくつ、と、喉を鳴らした。
「なっ! なんで笑うんだよ!」
「だって……やっぱり君、おひとよしだなあって。さすが景明の養い子です」
ふふ、と、袖で口許を覆いつつ、亜深は灰色の眸を眇める。青嵐は極まり悪く、ぶすりと黙り込んだ。
「ちゃんと生きろ、か……わかりました。出来る限り、努力しましょう、青嵐。――だからちゃんと、最後は私を死なせてくださいね……君が」
ゆっくりと言われて、青嵐は改めて亜深を見た。灰色の眼差しの奥に、切実な想いが揺らいでいる。それを見つけて、てのひらを、きつく握り締めた。
「当たり前だっつの!」
きっぱりと言った。
「あの人の遺命なんだ。俺は、
「それに?」
「もう……アンタ自身との、約束でもあるだろ? だから絶対、守るよ、亜深」
相手を呼んで、黒眸で真正面からしかと相手を見据える。
亜深は青嵐を見返して、とろ、と、微笑んだ。
「――ちゃんと生きる、か……まずはどうしたらいいんでしょうかね」
それから、くつくつ、と、喉を鳴らす。
「あ? なんかやりたいこととか、行きたいとことか、ないのかよ。――あ。死にたいとか、
「そうですねえ……あ」
細い顎に白い指を当ててしばらく思案していた亜深は、そのうち、何か思いついたのか、はた、と、目を瞬いた。
「あのね、青嵐……行きたいところ、ひとつ、思いつきました。付き合ってくれますか?」
こと、と、小首を傾げられ、青嵐はわずかに目を瞠る。けれどもすぐに、いいぜ、と、口の端を持ち上げて頷いた。
「そういうの、生きてるっぽい。――で、どこなんだ?」
たとえ無理矢理捻り出したものでもよかった。亜深が、青嵐の言葉を受けとめたからこそ思いついた願いを、青嵐は聞いてみたい。
「凌国を、見てみたい。景明の治めた国……君の、育った国。ここから
だめですか、と、問われた青嵐は、一拍黙った後で、ふ、と、笑った。駄目なわけがない、と、おもう。気の遠くなるほど生きたはずの人間が口にする、あまりにも他愛ない、ちっぽけな望み。それだけに、その願いがひどく尊いものに感じられていた。
「いいぜ。いいな。――うん。国都で、うまいもの食おう」
に、と、笑う。
「当面の目的地、決まりだな」
地涯谷までは、まだまだ長いのだ。だったら、その旅は、味気ないものでないほうがいい。
「あ。そうだ、もうひとつ」
「もうひとつ?」
「こちらは喫緊の希望です。汚れた私の道袍、洗ってほしい。破れも繕ってほしいです、〈青嵐〉」
亜深は己の道袍の袖を掲げるようにして見せながら、にこ、と、笑った。
「っ、また、アンタは……!」
俺を便利な小間使い扱いするな、と、抗議しようにも、呪に縛られていてはままならない。自分も呪言として相手を呼ぼうと試みるも、その刹那、亜深の白くしなやかな指が、そ、と、青嵐のくちびるを押さえてきた。
「むやみと私の〈名〉を呼んではいけませんよ、〈青嵐〉」
そう言われ、ぐ、と、黙る。
ちくしょうめ、と、青嵐は胸の中だけで毒づいた。
―二章 豺の嘆(了)―
天地の涯てに、青き風。 あおい @aoi_tsuki
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