2-6

亜深あしん……!」

 地鬼ちきの姿を見とめるなり、背に負った剣をすらりと抜いて手に提げ、そのまま亜深は駆け出していった。青嵐せいらんは、その背に追いすがるように、相手を呼ぶ。けれども、しゅが効いていて、その場から動くことは出来なかった。

 くそ、と、毒づく。

 くちびるを噛んで、てのひらをきつく握り締める。

 地鬼は、例によって、徒党を組んで現れたようだ。黒を基調に、臙脂えんじ色の布をえりそでの部分に継いだ、いつもの長袍きものを纏った姿が、いくつか青嵐の視界を掠めていた。胸やすそに施された猩々緋しょうじょうひの糸での刺繍ぬいとりは、ほむら羅刹らせつ。顔を覆う兇悪な鬼面もまた、例の如くである。

 いまもまた青嵐を狙って姿を現したのだろう。それなのに、今度も亜深ひとりを戦わせてしまう。自分は彼に守られ、ただ遠くで見ているだけだった。まさにその当人が青嵐に強いていることであるとはいえ、何も出来ず、させてももらえない己が、青嵐には口惜しく、情けなくてならなかった。

「くっそ……!」

 顔をしかめ、ぐぅ、と、うなるような声を漏らした。

 その間にも、亜深は地鬼のほうへと真っ直ぐに突っ込んでいく。手に提げた抜身の剣が、蒼白く降り灌ぐ月光の下で、夢幻のごとく白銀に輝いた。ひらりとひらめく刃の軌跡は、まるで剣舞でも舞い踊るかのように優雅である。間合いなど知らぬげに飛び込んでくる相手に、地鬼たちが刹那、ひるんだのが見て取れた。

 けれども、敵とてただただ黙ってやられるばかりではない。地鬼が手にした湾刀わんとうが次々と亜深に襲いかかる。飛沫しぶきが散る。亜深がほとんど相手の斬撃をけようとせず、受けるがままになっているからだった。

 亜深は顔色ひとつ変えない。むしろ見ている青嵐のほうが、亜深が傷を負うたびにきつく眉をひそめた。なんで、と、またしても襲い来る奇妙な腹立ちに、青嵐は歯噛みする。

 否、その業腹の原因は、すでにおよそ掴めていた――……あのときもそうだった、と、青嵐はぎりりと奥歯を噛みしめながら、回想する。

 王命をけ、天涯山に侵入したときのことだ。そのときは、青嵐はまだ、凌王はただ単に天涯山主の暗殺を命じたのだと思っていた。山主を殺害した上で、その所持するという龍玉を手に入れる。それこそが己の任務だと信じて初めて亜深に会ったとき、青嵐はすかさず彼の背後を取って、その首に得物の匕首たんとうを押し付けた。そして、躊躇いなく、亜深の首を掻き斬った。あれも夜だった。噴き出した血飛沫を、いまもまざまざと覚えている。

 亜深は不死身だ。首を斬られたところで死なないとわかっていたからこそ、やすやすと青嵐の攻撃を許しもしたのだろう。それは油断とは種類がちがう。捨て身に似ていて、それも違う。逃げる気、避ける気が、もとからないのだ。必要がないから、亜深はそれをすっかり放棄してしまっていた。

 次の日、天涯山荘の房間へやで斬りあったときだって、そうだった。何合か斬り結んだあと、結局亜深は、容易く青嵐に刺し抜かれた。血を流し、口でこそ、痛い、と、言っていたけれども、そのときの彼は、薄ら笑んでいたのではなかったか。

 青嵐がしるものに毒を入れたと承知していて、あえてそれを喰らってみせたときだって、同じだ。

 そして、いま、このときも――……亜深は、痛い、苦しい、と、たわむれのように言葉にはするけれども、その実、それらにまるで無頓着なのだ。事情がわからなかったはじめこそ、単に無気味に思えたそのことが、いまはもう、青嵐を無性に苛つかせている。

 そんなの不健全だ、と、おもうからだった。

 青嵐は、王直属の諜報機関、蜘蛛ちしゅに身を置いて生い立った。戦闘訓練を、それなりに積んでいる。だからこそ、おもう。

 痛みも苦しみも、それは命の危機を端的に報せる、重要な信号であるはずだ。それに頓着しないのは、生に頓着しないのと等しいのではないか――……痛みや苦しみを事も無げに無視してしまった、そんなところに、真っ当な生などありはしない。

 だから、腹が立つのである。

 亜深がながの孤独にんで不死からの解放を願うのはわかる。それはわかるが、だからといって、いまこの瞬間の生をないがしろにしていいわけがない。それは違う、と、青嵐は思う。

 ぐ、と、くちびるを噛んだ。

 ぎり、と、拳を握り締めた。

 呪が効いていて、身体は思うように動かない。けれども青嵐は、黒い眸で、き、と、亜深を睨み据えた。

「そんな闘い方をするな……〈亜深〉!」

 叫ぶように口にした瞬間だった、透明な風が一迅、さぁあぁん、と、場を吹き抜けていく。

 下草を撫で、亜深のところにまで届いた清澄な空気の流れは、そのまま駆け抜け、木々の梢を揺らした。さわさわさわ、と、葉が鳴っている。はっとしたように動きを止め、こちらを一瞥した亜深は、灰色の目をわずかに瞠っていた。

 眼差しが、かちり、と、交わった刹那、一瞬、時が止まったようになった。

 けれども、永遠とも思われたその瞬間には、すぐに終止符が打たれてしまう。地鬼たちが動いたのだ。湾刀を振りかぶった相手の姿を見とめるや、亜深は素早く身をひるがえして飛び退すさった。

 とん、とん、と、二、三度後ろに跳ねて、青嵐のいる位置まで戻ってくる。

「青嵐、君は……!」

 呪言というのではなく、こちらを咎めるように亜深は青嵐を呼んだ。それでもすぐに、まるでその声音に己自身で驚いてしまったかのように、相手は口をつぐんだ。

「……気安く私の名を呼ぶな、と」

 やがて続いたのは、つい先頃も聞いたばかりのそんな言葉だ。おそらくは、何かを言いあぐんで――それが何かは、もしかしたら、亜深自身にもわかっていなかったのかもしれない――その代わりのように口にしただけなのだろう。まるで言い訳でもするときのように、それは小声での訴えだった。

「〈亜深〉」

 青嵐は改めて相手を呼ぶ。

 亜深は不愉快そうに、わずかに柳眉を顰めた。

 だから君は、と、何かを言い募ろうとするのを、けれども青嵐は、真っ直ぐに相手の顔を見据えることで制してしまった。

「俺だって、戦える。俺も、アンタと一緒に戦わせろ……〈亜深〉」

 動きを封じられて見ているだけなど御免だ、と、そう訴えると、亜深は灰色の眸で青嵐を睨んだ。だが、こちらとて、ここで退じょくつもりなどない。黒眸をひたと相手に据えたままでいると、しばらくののち、折れたのは向こうだった。

「……仕方がないですね」

 ほう、と、ちいさな吐息とともにそうこぼすと、亜深は剣を構え直した。

 青嵐は、ふ、と、口角を上げて満足げに笑う。勝った、と、おもった。それから、亜深の傍らで、自らもまた匕首を手に体勢を低くした。

 向かってくる地鬼の姿を視界に捕える。視線を鋭くして相手を見据え、そのまま地を蹴って、駆けた。身を捻って敵の攻撃を避け、そのまま青嵐は空へ舞い上がる。今度はこちらから相手に斬りつけた。

「〈亜深〉! ちゃんと、避けられる攻撃は避けろ!」

 青嵐が戦闘の途中ながらも叫ぶように言うと、はあ、と、わずかに嘆息した亜深は、軽やかな仕草で敵の斬撃をかわして見せた。

「やればできるんだったら、やれっての、最初から」

「はいはい。せいぜい君の洗濯物と繕い物が減るよう、努力しますよ」

「はあ? なんだよ、それ。だいたいなんで、俺が洗って縫うことになってんだ、アンタの道袍きもの!」

「でも、やってくれるでしょう? ……〈青嵐〉」

 ふ、と、笑い、無駄に呪を使ってそんな軽口を叩くのに、青嵐はむっとくちびるを引き結ぶ。けれども、うらはらに、内心はひどく満ち足りているような気がしていた。亜深は――しぶしぶなのかもしれないが――青嵐の望むとおり、なるべく己の傷が少なくなるように動いてくれている。

 とはいえ、いつまでも満足に浸っている場合でもなかった。いまはとにかく、目の前の敵を退けなければならない。これまでの経験上、一定時間を過ぎれば地鬼たちは退散していくのだろうという予測はついていたが、それにしたって、それなりの数を相手にし続けるのは骨が折れた。

「ちくしょうめ」

 悪態をついたそのとき、ふと、大きな影が目の前を駆け抜けた。

 焔烏だ。どうやらこちらに加勢してくれるらしい。霊鳥がひと声鳴くと、その鳴き声はうねるほのおとなって、地鬼たちに襲いかかった。

「悪いな、助かった」

 青嵐は黒眸を瞬いて、霊鳥に感謝を伝えた。

 だが、焔烏から攻撃を受けたことで、地鬼たちの意識は二頭の霊獣にも向いてしまったようである。それまでは青嵐と、それを守る亜深ばかりを襲撃していたものが、向きを変え、焔烏と豺のほうへも飛びかかっていった。

 蒼黒の霊獣は、敵の襲来を感じ取ってか、わずかに首を持ち上げる。立ち上がろうとする。けれどもまだ、素早く動けるほどには回復していないようで、その場から逃げるには間に合いそうもない。

 ち、と、青嵐は舌打ちした。

「お前らの狙いは、俺だろうが!」

 霊獣と、襲い来る地鬼との間に、割って入る。

「青嵐!」

 亜深が無謀な割り込み方をしたこちらを庇おうと動いたが、ちょうど別の地鬼の斬撃がそれを邪魔した。刃を剣で受けとめ、弾いているうちに、こちらへ突っ込んでくる地鬼の攻撃のほうが、先に青嵐に届いてしまう。

 一撃目はうまく躱した。次にこちらから斬りつけようとしたところに不意の二撃目が来て、青嵐は体勢の均衡を崩してしまう。

 まずい、と、思った。

「青嵐!」

 亜深の声が響く。万事休すか、でも、亜深を不死から解放する約束を果たす前に死ぬわけにはいかないのに、と、そう奥歯を噛むように思った刹那、けれども、いまにも青嵐を捕えんとしていた敵の湾刀は、その敵の姿ごと、黒いほむらに包まれて消えていた。

「え……?」

 何が起きたものか、わけがわからず、青嵐目を瞬く。気がついたときには、己の前にすらりと立って、地鬼に向けて手を伸ばす男の姿があった。その、手甲てっこうに覆われた手指の先には、不可思議な黒いほむらが燃え残って揺れている。

「だ、れだ……?」

 青嵐は呟いた。

 応えるように、男が振り向く。兇悪な鬼面。黒を基調に、臙脂色の布を継いだ長袍。猛々しいほのお禍々まがまがしい羅刹らせつ刺繍ぬいとり。その姿はまさしく、ここ数日、青嵐を繰り返し襲った地鬼そのものだった。

「なん、で……」

 なぜ、自分を付け狙うはずの相手が、いままるでこちらを救うようなことをしてくれたのだろうか。青嵐が掠れ声でこぼすと、相手が面の下で、ふ、と、ちいさく笑ったような気配があった。

 ――そなたらの中原がいくつもの国に分かれるように、我らの沙沙下地にも、勢力争いくらいはあるのさ。

 それはどこかくぐもった、低い声だった。まるで水中から聞くかのように耳の奥で反響する。目の前の男が発しているようにも、あるいは、頭の中へ直接響いてくるようにも感じられる、不思議な声音こわねだった。

 ――失せろ。

 次いで男は、今度は青嵐を取り囲む地鬼たちに向けて、重々しい声で言った。すると、その場の地鬼たちがすべて、それぞれに黒焔こくえんに包まれ、消えていく。そのまま、すっかり場が静まり返ってゆくのを、青嵐は呆然と見詰めていた。

「青嵐……!」

 慌てたように、亜深が駆け寄ってくる。けれども、彼がこちらに辿り着くよりもやや早く、男は青嵐の真正面に立った。

 額の前あたりに、ゆるく握ったままの手を伸ばしてくる。青嵐は身構えた。が、次の刹那、男が取った行動は弾指たんじだった。曲げた人さし指を親指の腹で弾く、魔除けの所作だ。え、と、思う間に、火でも点ったかのような熱さを額の中央に感じ、思わず蹈鞴たたらを踏んでいた。

「青嵐!」

 亜深が、よろめいたこちらの肩を支えてくれる。そうしておいて彼は、灰色の眸で、き、と、目前の男を睨み据えた。

「何を、した」

 ――睨むな。

「青嵐に、何を……!」

 ――単なる目くらましの術だ。だが、まあ、しばらく狙われにくくなるくらいの効果はあるだろうさ。

 誰に、と、男は言わなかったが、答えは知れていた。どうやら男は、青嵐を付け狙ってきた地鬼たちの目をあざむくような呪を施したものらしい。

「なぜ」

 どうしてそんなことを、と、問うと、相手がまた、面の下でちいさく笑ったような気がした。

 ――言ったろう? 沙沙下地にも、覇権争いくらいある。それだけだ。

 ではな、と、男はくぐもっていながらも軽い調子でそう言うと、さっと身をひるがえした。待て、と、呼び止める間もありはしない。わけもわからずにいるうちに、その姿は、にじんでひずんだ目の前の空間の中に、うねるように逆巻く黒い焔とともに消えていった。

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