2-5

 焔烏えんうに導かれるようにして青嵐せいらんたちがやがて辿り着いたのは、山の中腹を越え、すこし木々が開けて平坦になっているところだった。空にはぽかりと半分よりもふくらんだ白い月が浮かんでいる。静かに降り注ぐ月光が、皓々こうこうと辺りを照らしていた。

 その蒼白い月影の中に、いま、一頭の獣がいる。

 それこそ月の明るい日の夜空の色ような、深い深い蒼を帯びたような黒の毛並みが印象的な獣だった。姿はいぬか、狼のようだ。大きさは焔烏と同じくらいで、狐や狸、猪といった尋常の山の獣に比べれば、ずいぶんとおおきかった。

 その、鹿や熊よりもひとまわり以上は巨大であろう立派な体躯を、獣はぐったりと地に伏してしまっている。

「怪我でも、してるのか……?」

 月明かりの下、横たわる獣の姿をみとめて、青嵐は呟いた。

 獣のすぐ傍らへと降り立った大烏おおがらすは、まるでいたわるかのように、青鈍あおにび色の獣にくちばしを寄せている。獣は目を閉じたまま、その場を動かなかったが、胸元のあたりがゆっくりとふくらんだりしぼんだりするのを見るに、間違いなく呼吸はしているようだった。

「青嵐」

 隣の亜深が、こちらの注意を促すかのように、ひそ、と、声をかけてくる。灰色の眼差しが何かをじっと見詰めるらしいのに気がついて、青嵐は亜深の視線を追いかけた。

「あ、れって……」

 息を呑む。青嵐の黒い眸に映ったのは、地面に落ちた、見覚えのある鬼面だった。

地鬼ちきがここに?」

 青嵐が問いかけると、おそらくは、と、亜深は頷いた。

「これまで遭遇した限りにおいて、彼らはいつも数人単位の党羽とううを組んでいました。それを鑑みれば、あそこに落ちた鬼面はひとつでも、単独行動していたわけではないでしょう」

 何人か、複数人が現れたのではないか、と、亜深は推測した。

「じゃあ、あの獣は、地鬼に襲われたってのか……?」

 青嵐は、蒼白い月光の中に伏す、どうやら身体を傷めているらしい獣に再び視線を戻す。天涯山で突然襲いかかられたとき、それから、天涯山を出た後、ここへ来るまでの遭遇。そのどんなときにも、羅刹らせつ刺繍ぬいとりのされた赤黒の衣をまとい、恐ろしい鬼面をつけた男たちは、手に手に湾刀わんとうげ持っていた。その鋭い刃で、獣に斬りつけたのだろうか。

「あるいは、逆に……あの獣のほうが地鬼を襲った末に、激しい戦闘になったのやもしれません」

「返り討ちにあったってことか? でも」

 なぜそんなことを、と、青嵐が目を瞬くと、亜深は獣のほうに向けた灰色の眸を静かに眇めた。

「きっと彼こそが、透佳とうかの言うやまいぬさま……このあたりを守護する、土地神のごとき霊獣なのでしょうから」

 亜深の指摘に青嵐は、ああそうか、そうにちがいないではないか、と、透佳から聞いた豺の姿を思い起こしながら息をいた。

 そして、ここで起きた出来事について、想いを馳せてみる。

 ある日、この山に、瘴気しょうきを纏った、鬼面の男たちが現れた。それは中原に災厄わざわいをもたらすと伝承されるもの。地涯谷の向こう側、沙沙下地ささがちに生きるはずの地鬼である。

 豺がはたして、人間ひとの間に言い伝えられてきた話を知っていたのかどうかは、わからない。だが、この地の守護者たる霊獣は、きっと、中原にとっては異物であり、良くない気を纏う存在であるその者たちを、土地に害を為しかねない者だと認識したのに違いない。

 だから、排除に動いたのではないか。

 己を祀る者たち、我が守る土地のために、身を張って地鬼と戦ったのではなかったのか。

 そうして、相手を倒したか、あるいは追い払うことには成功したのだろう。地に落ちた鬼面は、おそらくはその証左だ。けれども、豺自身もまた深手を負って、その場で動けなくなってしまったのだ。

「どうやらここは、水脈の真上のようです」

 しばし、ぼう、と、豺を見詰めていた青嵐は、亜深の声にはっと我に返った。

「ここにもまだわずかに瘴気の名残が感じられますが。おそらくは戦闘の直後、ここから水脈を通じて、地鬼の纏う穢れた気が透佳の家の井戸まで流れていってしまったのでしょうね」

 亜深は亜深で、この場所で起きたことと、いま起きていることとのつながりを、そんなふうに想像しているようだった。

 なるほど、瘴気が流れ込んだその井戸の水を汲んで、炊事に使ったり、作物に撒いたりした結果、透佳たち一家は瘴気あたりを起こしてしまって今に至るというわけだろう。否、むしろ、早い段階で井戸が使えなくなったために、あの程度で済んだというべきなのかもしれなかった。 

「ここの土や水は、もうずっと、瘴気の影響を受けたままか?」

 青嵐が不安に思って問うと、亜深は、ふ、と、口許をゆるめ、灰色の目を眇めた。大丈夫ですよ、と、静かに言って、かぶりを振る。

「もとより残穢ざんえに過ぎませんからね。先程、透佳にも言いましたが、放っておいても時とともに薄らいで、やがて消えてしまうでしょう。すでにこのあたりの気によって希釈され、残った気配はわずかばかりです。すぐに問題を及ぼさなくなるとは思いますよ」

「そうか」

 青嵐は、ほう、と、安堵の息を漏らした。透佳の一家もじきに回復するだろうと亜深は見立てていたし、土地自体のけがれも遠からず除かれるのであれば、後は時の解決を待てばよいということになる。

 それにしても、と、青嵐はいま豺の傍らにあって、霊獣を労わるような仕草を見せている焔烏えんうに目をやった。

 焔烏が透佳の家に最初に現れたのは、おそらく、井戸へと続く水脈が瘴気で侵されてしまった後、ほどなくのことだったのに違いない。すでにいくらかは口にし、いくらかは畑の作物に撒かれた後だったのかもしれないが、その時点で井戸が使用できなくなったことが、結果として、透佳一家の被害を最小限に止めた。

 再来の際、畑が焼かれたこととて、そうだ。そのおかげで、透佳たちが汚染された作物を口にする機会は確実に減った。

 青嵐がじっと赤味を帯びた艶やかな黒い羽を見詰めていると、豺に嘴を寄せていた焔烏は、ふと顔を上げ、青嵐を見返した。紅玉のごとき眸が、じっとこちらに据えられる。眼差しは静かだ。もちろん、怖いなどとは欠片かけらも思わなかった。

「いったいどういう御関係なのでしょうね」

 亜深が、誰に問うともなく、独り言のように呟く。

 そんなの考えるまでもない、と、青嵐は思った。

「……ともだち、なんじゃないの」

 だから、誰に答えるともなく、こちらも独り言のようにそうこぼす。

「ともだちだから、傷ついてたら、助けたいと思う。ともだちだから、頼みごとだって、聞いてやりたいって思う。ともだちの大事なもんは、自分も、護るのに力を尽くしてやろうって……――そんなの、アンタだって、わかるだろ?」

 ほんとうのところがどうであったかは、青嵐たちには、知りようもないことだ。けれども、焔烏は、傷ついた豺に代わり、その霊獣がずっと守護していた一家を、一時、護ろうとしたのではなかったのだろうか。危険から遠ざけようとして、井戸を毀し、畑を焼いたということだったのではないのか。

 見慣れぬ霊鳥の襲来に、透佳たちは、襲われた、と、そう受け取ってしまった。けれどもきっと、真実は、そうではなかったのだ。焔烏に害意はなく、むしろ、友の大切に守ってきたものを、その代わりに守ろうとしてくれていただけだったのではないのだろうか。

 青嵐はその黒眸を、ひた、と、傍の亜深に真っ直ぐに向けた。すると相手は刹那、目を瞬いたが、それからすぐに、とろ、と、それをしずかに眇めた。

「なるほど……わかるような気もします」

 ちいさく口許に笑みを刷いた亜深は、どこか、ここではない遠くへと視線を投げているようだ。いったい彼は何を思っているのだろう、と、そのやわらかな表情を前に、青嵐はそんなことを考えた。

「君らしい……実に、おひとよしな考え方ですね」

 次いでからかうようにそう言われ、青嵐は、なんだよ、と、文句をつけたい気分で思わず口を曲げていた。

 胸の奥の複雑な気持ちを誤魔化すように、豺のほうへと足を踏み出す。横たわった獣は、ちらりとも動かなかった。

 青嵐が距離を詰めたことに、焔烏が一瞬、警戒の色を見せる。豺と青嵐の間に立ちはだかるようにしたが、すぐ、こちらに攻撃の意図がないのを察したのか、道を開けてくれた。

 亜深も青嵐の背を追ってくる。

「どうしたのです?」

 こちらを覗き込んでくる相手に、ん、と、生返事だけしておいて、青嵐はふところから陶器の小瓶を取り出した。亜深が、天涯山で、青嵐に持たせてくれたものだ。怪我にも万病にも効くという、霊泉の水が入っている。

「使ってもいいか、これ?」

 青嵐は、ちら、と、亜深を窺った。

 本来これは、亜深が青嵐の主である凌王のためにと用意してくれたものである。老齢の末、病に倒れ、余命いくばくもなかろうと思われた王の命をすこしでも延べるために、と、託された最初には、そんな目的のものだった。

 その王はすでに黄泉こうせんへと旅立っている。用途を失った霊水は、ほんとうなら、その時点で亜深に返すべきものだったのかもしれなかった。なんとなく返しそびれたままで今に至ってしまったが、一応、本来の持ち主に許可を求めると、亜深はそれが意外だったのか、ぱちぱち、と、灰色の眸を瞬いた。

「どうぞ。君に差し上げたものなのですから、君の思うように使ったらいいのですよ。君は、変に真面目ですね」

 むしろ呆れたように、苦笑まじりに言われてしまった。

 む、と、くちびるを引き結んだ青嵐は、亜深の反応を無視しておいて、小瓶の口を閉じる蓋を抜いた。

「傷にかけたほうがいいのか?」

「広範の怪我なら、飲ませたほうが効きはいいでしょう」

「わかった」

 青嵐は頷いて、獣の大きな口の隙間に小瓶の口を差し入れ、中身を口内に流し込んでやった。

 持たせてもらった霊泉の水はわずかで――もともと人間を対象に使うはずだったからだ――効き具合については少々不安もあったが、飲ませてしばらくすると、それまですこしも動かずに呼吸だけを繰り返していた豺が、ひく、と、閉じた瞼を振るわせる。どうやら何がしかの効果はあったと見える、と、青嵐は、ほう、と、ちいさく安堵の吐息をもらした。

 傍らで、紅玉のような眸をじっと豺に向けて成り行きを目守まもってていた焔烏が、首を擡げ、それを傾げ、何度か青嵐に頭を擦り寄せるようにした。それはまるで、友を救ってくれた者に礼でも告げるかのような仕草だった。

「お前、もしかして、俺が薬もってんの、わかってたのか?」

 焔烏はそも鉱脈の位置を知り得る霊鳥なのだ、と、亜深は言っていた。もしかすると、この大烏おおがらすは不可思議の力かなにかで、青嵐が傷に効き目のある霊水を持っていることを感じ取っていたのかもしれない。それで友の霊獣を助けてもらおうと、自分たちをここまで導いたということなのかもしれなかった。

「ま、わかんないな」

 はっきりした意思の疎通が難しいので、あくまでもそれは青嵐の推測にしかならなかった。けれども、当たらずとも遠からずではないのか、と、そう思う。あるいは、思いたい。それは、月光下に霊獣、霊鳥が身を寄せている姿が、青嵐の目に、実にやさしくあたたかな光景に見えたからだった。

「元気になったら、ふたりで、透佳んへ顔出してやったらいいんじゃないか」

 守護者である豺と一緒に焔烏が現れたなら、それが敵ではなかったことを、透佳も感じ取るだろう。きっと安心できるはずだ。そんなことを、思いつくままに、口許をゆるめつつ二頭へと語りかけていた、まさにそのときだ。

「〈青嵐〉……しばらくここで、じっとしていなさいね」

 亜深が低めた声で言う。

 急に呪を使われたことにはっとし、青嵐は天涯山主を見た。白い端正な横顔は、ひた、と、どこかへ据えられている。さぁ、と、生温い風が吹いて、亜深の艶やかな黒髪をなぶった。

 青嵐は気を研ぎ澄ます。かさ、と、下草を踏むかすかな音が聴こえたと思った刹那、亜深の見据えている木々の幹の狭間に、ゆらり、と、赤黒せきこくの姿がちらついた。

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