2-4

青嵐せいらん……透佳とうかが中で心配していますよ」

 そんな声が背後うしろからかかったのは、青嵐がひとり黄昏たそがれの空を見上げはじめてから、どれくらいが経った後だったろうか。こわされた井戸の残骸にもたれるようにして座り込んでいた青嵐は、けれど、こちらに向けられた言葉に――子供が意地を張るときのようにそっぽを向いて――わざと返事をしなかった。

 こちらのそんな反応に、相手が――亜深が――ふう、と、ちいさく嘆息する。

「干し肉、君の荷物から勝手に出して、透佳とご両親に差し上げてしまいましたよ。よかったですよね?」

 亜深が続けてそう訊ねてくる。もちろんそれに対して否やがあるわけではなかったが、青嵐はそれでもまだ亜深の問いに答えずに黙りこくっていた。するとやがて、今度は呆れたようにちいさく苦笑する声が聴こえてくる。

「どうしたっていうんですか?」

 亜深はついに、青嵐へと歩み寄ってきた。

「あなたも食べて、それから今晩は、ゆっくり寝ておきなさい。明日は焔烏えんうのことを調べに山へ這入はいるつもりなのでしょう?」

 顔を覗きこむようにされて、青嵐は、つい、と、亜深から目を逸らす。我ながら子供っぽいことをしているとは思ったが、わけのわからない業腹は、まだ収まってはいなかった。

「……干し肉はいい」

 俯いて、ぼそ、と、言う。

「でも、食べておかないと、いざ戦闘となったときに力が出せなくては困るでしょうが」

 何にかは知らないけれど変な意地を張っていないで、と、亜深は青嵐を宥めようとした。困るといいながらまともに戦闘に加わらせてもくれないくせに、と、そう思うと、ますますふつふつとした苛立ちは募ってきた。

「じゃあ……アンタがあのしるもの喰うんなら、俺も、そうする」

 また、小声で言った。すると亜深は、今度はこれみよがしな長嘆息をもらした。

「身体に悪いですよ」

「知るかよ。そういうんなら、アンタだって……」

 青嵐が思わずのように顔を上げて、言いかけたときだった。相手が、まったく、と、ちいさく笑う気配があった。それから亜深は、ゆっくりとした動作で、青嵐の傍らに座る。青嵐が先程までそうしていたように、彼もまた、紺青に染まりかかった空を見上げるようだった。

「わかりました。私も食べませんから……ね、青嵐。それで満足ですか?」

 まるで幼子の機嫌を取るように言われて、青嵐は眉を顰める。ち、と、鋭く舌打ちをしたら、これにはまた、苦笑をもって応じられた。

「こっちを向いてください……〈青嵐〉」

 名を呼ぶ声に、呪が籠められる。

「っ、アンタ、卑怯……!」

 抗えずに青嵐が亜深のほうを向くと、相手は、ちら、と、眉根を寄せて、困ったように微苦笑していた。

 その意外な表情に虚を突かれて、青嵐は、はた、と、黒眸を瞬いている。

「ね。機嫌、直してくれませんか? ――誰かと親しく付き合うのは、なにせ、景明けいめい以来、数十年ぶりです。どうやったらいいのだったか、よく、わからなくなってしまっています」

 久方ぶりで人との距離の取り方がわからない、君が何に拗ねているのかもわからないし、どうやって君を宥めればいいのか、と、亜深はそんなことを言いながら、薄っすらと口許に笑みを刷いた。

 黄昏時の残照に、相手の途方に暮れたような横顔が滲んで見える。青嵐は、今度は相手がふいに醸した深い孤独の翳に、言葉を失っていた。

「……べつに」

 何を言っていいかわからなくなって、低く呟いて、くちびるを引き結ぶ。

「俺が勝手に拗ねてるだけなんだ。放っときゃいい」

「そう? だったら、君のご機嫌斜めが真っ直ぐになるまで、とりあえず私も、ここにいることにしましょうかね」

「あ? 余計な世話だっての。どっか行け」

「いいじゃないですか。どこで何をしようと、それはそれで、私の勝手でしょう?」

「邪魔だ」

「ひどいなあ。ここにいさせてくださいよ、〈青嵐〉」

「っ、だから、アンタは……!」

 文句を言おうとする青嵐に、亜深は、くつくつくつ、と、喉を鳴らした。不意に、気紛れに、呪言として青嵐の名を呼ぶ彼は、けれどもいま、呪を使って機嫌を直せと命じるようなことはしなかった。そんな亜深に、青嵐は、ち、と、鋭く舌打ちして、また意地を張るようにそっぽを向く。

 それからまた、どれくらい時が流れただろうか。

 やがて、じきに満月とみえる、半分よりもふくらんだ月が、東の地平から姿を見せる。ホウ、ホウ、と、ふくろうか何かが鳴く声が聴こえていた。

 さぁあぁん、と、すこし強い風が吹いてくる。

 さらさらさら、と、葉擦れの音が続いた。

 無言の静寂の中に、青嵐の鍛えた耳が、遠く、梢を蹴るような音を捕らえたのは、まさにその刹那だった。はっと息を詰めて、神経を研ぎ澄ませる。木々の繁みのつくる木闇こやみは、とっぷりと暮れた後はますます深くなっていたが、その奥に、いつしか、ふたつ並んだ紅い輝きが、じっとこちらを窺っていた。

「っ、焔烏えんう……!」

 青嵐は弾かれたように立ち上がり、懐から素早く匕首ひしゅを取り出して構えた。対する亜深は慌てた様子もなくゆったりと立って、灰色の静かな眼差しを、獣の眸だろう紅い光のほうへと据えている。

「大丈夫……やはり敵意は感じません」

 おそらく攻撃の意図はない、と、亜深は青嵐を制した。

「ほんとうに大丈夫なのか?」「

 直ぐは警戒心をゆるめられなかった青嵐だが、亜深の言う通り、向こうはこちらをじっと窺い見るばかりですこしも動こうとはしない。それでもしばしは低く身構えて見合っていたものの、しん、と、どこまでも続く静謐せいひつに、やがて匕首をゆっくりと下ろした。

「あいつ……何のつもりだと思う?」

 傍の亜深に訊ねてみる。相手は、さあ、と、ゆるく首を振った。はぐらかすわけではなく、ほんとうに、わからないということのようだ。

「ですが、もともと、焔烏には透佳の一家に対する害意はなかったのかもしれません」

「でも、井戸や畑が」

「ええ、そのとおりです。――ただ、ね、井戸が使えなくなり、畑の作物が駄目になったそのおかげで、彼らが瘴気に侵されたものを口にするのは、最小限で済んだはずです。それが偶然でなかったとすれば、焔烏はむしろ、透佳の一家を守ろうとしていたのかもしれない」

 それなら暮らしの足しにと金の粒を落としていったのも理解できる、と、亜深は言う。

「それじゃあまるで、守り神じゃないか」

 青嵐は目を瞬いた。すると相手は、まさにそうですね、と、肩を竦める。けれども青嵐には、まだ、わけがわからなかった。

「でも、だって、ここの守護神として祀られてるのは、やまいぬなんじゃないのか?」

「さて……実は変幻自在の生き物で、あるときは豺、あるときは烏に化けて、この辺りを守護しているのかもしれませんよ。――まあ、焔烏が変化へんげの術を使えるとは、寡聞にして、私は知りませんが」

 ふう、と、息を吐く様子を見るに、どうやらいま亜深が口にした仮説は、ほんの軽口であるらしい。つまるところ、彼にもまだ、青嵐に答えを寄越せるほどたしかなことは、何もわからないということのようだった。

「ほんとうに……やつに害意はないのか?」

 青嵐はもう一度、たしかめるように亜深に訊いた。

 もしも焔烏が透佳の一家に害為すつもりがないのであれば、これ以上、青嵐が透佳にしてやらねばならないことは存在しなくなるわけだ。焔烏が透佳の家を守護しているのだとするなら、もちろん、その相手を退治する必要などありはしない。

 けれども、その見立てが確かなものであるという証左はなかった。出来るなら、はっきりと確信が持ててから、この地を離れたい。

「どうでしょうね。ご本人に訊いてみればわかるのでしょうが」

 亜深が、冗談なのか本気なのか、そんなことを口にした。青嵐は亜深をまじまじと見る。相手はなにせ、天涯山主だ。もしかしたら――普通の獣はくとしても――土地神や、霊獣などとは、意思を交わすことくらいできてしまうのかもしれない。

「訊けるのか?」

「なにがですか?」

「いや、だから、あいつにここを襲う気がないかどうか、アンタ、確かめられるのかなって」

「あのね、青嵐。私の出自はただの人間ひとだと、何度か言っていますよね。――そんな神業かみわざ、出来ると思います?」

「いや、だって、いまなんか出来るみたいな口振りだったじゃないか!」

「そうでしたかね。君の気のせいでは?」

 とぼけるように言われ、こんなときにこいつは、と、青嵐はぎりりと拳を握りしめた。

「まあ、なんとなく、身体の放つ気のようなものは感じ取れますけれどもね。でもそれは、蜘蛛ちしゅとして鍛えられた君にだって、出来るでしょう? 裂帛の気合いとか殺気とか、こう、明確に形があるわけではなくとも、わかるじゃないですか?」

 そう言われれば、そうだ。それで亜深は先程から、相手から敵意、害意を感じない、と、そう口にしていたのだろう。青嵐もまた改めて気を研ぎ澄ましてみれば、こちらをじっと窺う焔烏の気配はずっと静かで、亜深の言のとおり、こちらに向けて刺すような鋭い空気を放っていたりはしなかった。

「それはともかく……瘴気のことだけは、気になります」

 ふと、亜深が言った。

「井戸の奥から瘴気が感じられた。それもまた、事実です。そしてその瘴気は、君を狙った地鬼が放つものに、ごくごく似た気配です。――水が悪くなった原因は、いったい何なのか」

 独白のように亜深が言った時だった。ふいに、バサッ、と、音がして、大烏が空へと舞い上がった。青嵐は一瞬、警戒を強めたが、相手はただ、くるくると、青嵐たちの頭上を旋回しているだけである。

「もしかして……ついて来いとでも、言ってるのか」

「おや、青嵐。君こそ、彼の言葉がわかるのですか?」

「莫迦か。そんなわけないだろ!」

 もちろん、それは青嵐の、単なる直感にすぎなかった。だが、いまは、それに従ってみたい気がする。そんなこちらの気持ちを読むように、亜深がひとつ、頷いた。

「行ってみましょうか。明日の予定が、今晩に繰り上がるだけのことです」

 そう言ってくれるのに、青嵐は頷く。ふたりはそのまま焔烏の背を負って、日が暮れ、白い月光下に黒々と鎮座する山の、深い木々の中へと分け入ってみることにした。

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