2-3

「あれは……焔烏えんう

 空へ舞い上がった影を追うようにして上空を仰ぎ見た亜深あしんが呟く。それに意識を引かれて、青嵐せいらんは相手へと黒眸を向けた。

「知ってんのか?」

 唐突に姿を現したのは、巨大な大烏だった。それは青嵐がこれまでに遭遇したことのないものだったが、天涯てんがい山主さんしゅとしてながの時をこの世で過ごしてきた亜深にとっては、あるいは、その妖鳥の正体は既知のものであったのかもしれない。青嵐の問いを受けた亜深は灰色の眸を妖鳥に向けたままで、おそらく、と、ちいさく頷いた。

「まさかとは思っていましたが……あれは焔烏とみて間違いないでしょう。天地開檗かいびゃくの頃から存在したとされる、妖鳥というよりも、むしろ霊鳥に近いはずのものですよ」

「霊鳥?」

「そうです。本来なら、人間ひとに恵みをもたらしこそすれ、害為すものではない」

「でも」

 青嵐は、空を舞う大きな烏を再び見上げた。傾きかけた日に照らされ、深い赤味を潜めたような羽が、刹那、輝いて見えた。紅玉のごとき目が、こちらを見下ろしている。

 亜深は霊鳥だというが、透佳とうかの言によれば、実際にあれはこの家を二度にわたって襲っている。井戸を破壊し、畑を燃やし尽くし、いま再びここへ姿を見せているのは事実だった。もしかすると、透佳の父母が倒れたのも、あの大烏のせいなのかもしれない。

 それでも、あれは霊鳥だというのか。否、もしかすると、いまは何物かの影響を受けて変質してしまっているのかもしれない。

「やはり、地鬼の影響で……?」

 地界である沙沙下地ささがちから出てきた者たちのために狂わされ、霊鳥が、いま本来とは違う在り方に変節してしまっているのかもしれない。亜深が先程、井戸や土からわずかながらも地鬼が放つのと似た瘴気しょうきが感じ取れるといったのは、そういうことなのではないのだろうか。

 そのときだった。

「おにいさん、何かあったの?」

 外がなにやら騒がしいのに気づいたのか、不意に家の扉が開き、透佳が顔をのぞかせた。しかし少年は、我が家の上に羽ばたく巨大な影を目にするとすぐに、は、と、息を呑み、恐怖に顔をひきつらせる。透佳のそんな反応を見ても、いまこの場に現れているものが、数日来、この家を襲った妖鳥とされるもので間違いないようではあった。

「お哥さん……!」

 助けを求めるように、透佳が青嵐たちを見た。

「大丈夫だから、下がってろ」

 青嵐が透佳を建物の中に促そうとしたとき、不意に、焔烏が高度を下げた。

 滑空して、目の前を通り過ぎていく。青嵐は素早く動いて透佳を背にかばうと、反射的にふところから取り出した匕首たんとうを構えた。

「中へ!」

 透佳へ向けて叫んでおいて、己は地を蹴って駆け出している。大烏の背を追いかけ、再び空高くへと舞い上がろうとした相手をはばむために、手にしていた匕首を投げつけた。

 が、焔烏はひらりとそれをける。ち、と、舌打ちした青嵐は、軽い身のこなしで跳ねあがると、近くの木の枝を掴んだ。そのまま、くるりと身をひるがえすようにして虚空くうへと飛び出し、烏の太い首に掴みかかろうとする。

 実際、ひとたびは腕を絡みつけることに成功した。が、すぐに危うく振り落とされそうになる。地面に叩きつけられる手前で体勢を立て直すのと、亜深がこちらの身体を受け止めてくれるのが、ほとんど同時だった。

「まったく、君は……ずいぶんな無茶をしてくれるものです」

 彼はやや怒気をはらんだ声で青嵐を責めた。

「だってよ」

 青嵐が反論しかけたとき、バサッ、と、焔烏が大きく羽ばたく音がした。言い争っている場合ではなかった、と、青嵐は再び鋭い視線を大烏に向ける。が、ゆうゆうと虚空にひとつ大きな円を描いたあと、相手はそのまま、もと来た山のほうへと首を向ける。そして、見る間に、深い木闇こやみの中へと吸い込まれるように消えていった。

「なん、だったんだ……?」

 青嵐は思わず呟いた。無事に追い払えたということだろうか。それならばそれに越したことはないのだが、なんとも手応えのない感じがするというか、言明しがたい違和感を覚えていた。

「さて、ほんとうに、何だったのか……すくなくとも先程の焔烏からは、敵意も瘴気も感じませんでしたね」

 亜深が嘆息するように言う。どうやら彼が剣を抜きながらもすぐさま攻撃に移らなかったのは、大烏が尖った戦闘の気配を纏っていなかったことが理由であったらしかった。

「どういうことだ?」

 この家を二度に亘った実際に襲っている相手に、此度は敵意らしきものがない。その意味がわからなくて青嵐は亜深に説明を求めたが、私にだってわかりませんよ、と、これには亜深は肩を竦めた。

「天涯山主であるとはいえ、私とて、出自はただの人間ひと……なんでもかんでも承知しているわけではないのです。――でも、さっき、なにか落としていったみたいでしたね」

 付け加えるように彼は言った。

「何かって?」

「さあ。ただ、君や透佳の目前を飛び過ぎていったときに、何かが落ちたように見えただけです。――君は気づきませんでしたか?」

「いや」

 青嵐は首を横に振った。そのときは、巨大な妖鳥の襲撃から透佳を守ってやらねば、と、それしか考えていなかった。だが、あるいは、あのいきなりの降下ですら実は攻撃を意図したものではなかったのかもしれない。

 亜深の目でも、焔烏が落としたものが何だったのかまでは、捕えることは出来なかったようだった。確かめるため、青嵐は焔烏が高度を低めたあたりへ戻ってみる。するとたしかに、きら、と、強い輝きを放つものが落ちていた。

「砂金……?」

 そう呼ぶにはやや大きくも思われる、小指の爪の先程の金の粒である。

「なんで、こんなもの」

「光り物を好むのは、烏の習性ではありませんか」

 近づいてきた亜深が、くすん、と、肩を竦めてそんな軽口を叩いた。

「おい。冗談言ってる場合か?」

 あれは普通の烏ではないだろう、と、青嵐は眉を顰めたが、亜深には悪びれた様子もなかった。

「半分は本気ですよ。焔烏はぎょくや金銀の鉱脈を知り、時にそれを人間ひとに教える霊鳥として、地域によっては崇められたりしているはずですからね」

「そうなのか?」

「ええ、そうなのです」

「じゃあ、この金の粒は、あいつがわざわざ運んできたってことか?」

「残念ながら、焔烏の意図までは、私にはわかりかねます。でも案外、井戸を壊したり畑を焼いたりしたお詫びのつもりかもしれませんよ」

「……そんなこと、あるか?」

 こちらも本気なのか冗談なのかわからない亜深の言に、青嵐は眉間に皺を寄せる。だいたい、後で詫びるくらいなら、最初から悪さなどしなければ良いというものだ。それとも、一時、瘴気に侵されて我を失っていた焔烏が、いまになって真っ当な意識を取り戻し、後悔したとでもいうのだろうか。

「まあ、いまのは言ってみただけですよ」

 亜深は、ふう、と、息を吐いた。

「考えてもわからないことは一端おいておくとして……とりあえずそれは、透佳に渡してあげてはいかがですか? それがあれば、食べる物をあがなえる。畑の作物が駄目になっていても、しばらく暮らしに困ることはないでしょう」

 亜深に言われ、もっともだ、と、青嵐が頷いたときだった。青嵐に言われたとおりに建物の中に避難していた透佳が、周囲が静かになったからか、また、そろり、と、扉の向こうから顔をのぞかせた。

「お哥さん……あいつのこと、退治してくれたの?」

 恐る恐るのていで訊ねられて、青嵐は困ったように眉を寄せ、わずかにかぶりを振った。

「いや。山の中へ逃げていった」

 仕止めてはいない、と、そう言うと、透佳はすこしばかり不安げな表情を見せる。

「そのうちまた……襲ってくるかな?」

「わからんが……とりあえず明日にでも、俺たちは山の中へ入ってみる」

 青嵐が口にすると、亜深は――こちらが勝手に明日の予定を決めたからなのか――灰色の眸を青嵐のほうに向けて、まったく、と、そんなふうに言いたげなちいさく溜め息をこぼした。けれども青嵐は、相手があからさまに文句を言ってこないのをいいことに、気づかなかったふりをした。

「それよりも、透佳……これを。生活くらしの足しにするといい」

 青嵐が先程拾った金の粒を差し出すと、透佳は、え、と、目を瞠った。

「これって……金? いや、こんなの、もらえないよ! ……だって、僕のほうが厄介事をお願いしてる立場なのに」

 そう遠慮する相手のてのひらを取って、青嵐は強引にそれを握らせた。

「俺からじゃない。さっきやつが落としていったのを拾ったんだ」

「やつって……あの、妖鳥」

 そうだ、と、青嵐は頷く。

「烏は光り物を好むというから、身体に着いていたのが、たまたま落ちたのかもな。あいつのせいで、この家は井戸と畑を駄目にされてる。だったら、お前がもらっておいても、罰はあたらないんじゃないか?」

 そんな理屈で相手を無理に納得させようとする。透佳はしばらく戸惑う様子を見せていたが、それでも、この先の暮らしにとって先立つものは要ると判断したのか、結局は、それをだいじに押し戴くようにして受け取った。

「ありがとう、お哥さんたち。――あ、とりあえず、うちに入ってよ。奥でとうちゃんやかあちゃんが寝てるけど……ちょうど夕飯時だし、僕、いまから、食事の準備するね。たいしたものはないけど、せめて、それくらいのもてなしはさせて!」

 にこ、と、屈託ない笑顔を見せられ、青嵐たちはありがたく言葉にその甘えることにした。

「あと、よかったら、今晩は泊まっていって! といっても、寝床らしい寝床もないんだけど……」

「いや、屋根の下で寝られるだけでも助かる」

 青嵐がそう言って申し出を受けると、透佳は、ほ、と、息を吐いた。



「待ちなさい、青嵐。透佳も」

 不意に場の空気が変わったのは、少年が、自ら用意してくれたしるものをついだ椀を、青嵐と亜深とに手渡したときだった。

「食べてはいけません」

 そういえば汚れたままだった、と、透佳が食事を用意してくれている間にいそいそと着替えていた亜深は、いまは再び清浄な白の道袍姿に戻っている。その亜深が、しるものに口を寄せようとした刹那、けれども、は、と、息を呑んで、厳しい調子で制止の声を上げたのだ。

 青嵐ははっとして、手元の椀の中味を見た。菜っ葉と豆とが入ったしるものが、豊かな湯気を立てている。決して豪華なものではなかったが、心尽くしの手料理からは、食欲をそそる匂いが立ちこめていた。

「どうかした?」

 こちらも椀を手にした透佳が、きょとん、と、目を瞬く。亜深は灰色の眼差しを少年に真っ直ぐに向けた。

「透佳……このしるものに入っているのは、もしかして、畑で採れた蔬菜やさいですか?」

「そうだけど……あの妖鳥に荒らされる前に採って、干してあったやつ」

 それがなにかまずかったのか、と、亜深の張りつめた気配を前に、少年は戸惑うふうを見せた。亜深はしばしじっと椀の中身を見詰めていたが、やがて無言のまま、不意に椀に口をつける。

 人には食べるなと言っておいていったい何のつもりなのだ、と、青嵐が眉を顰めた。が、その間にも、しるものをひと口、ふた口とすすった亜深は、なにやら難しい顔になっていた。

「瘴気が」

「え?」

「透佳……あなたの父上、母上が倒れたのは、畑で採れたものに染み着いた瘴気にあたったせいだったのかもしれません」

 亜深の言葉を聞いて、透佳は信じられないというふうに、目をまん丸にした。

「でも……なんで?」

 震える声で、独り言のように呟く。

「土……いえ、もとは井戸の水が原因かもしれません。――井戸が壊されるより前は、畑の水遣りには井戸水を使っていましたか?」

「うん」

「飲み水も、料理に使う水もですね?」

「うん、そうだけど……」

「おそらく、そのせいでしょう。瘴気に汚染された水を飲んだり、それを撒いた土で育った作物を食べたりしたせいで、あなたの父上や母上は、体調を崩してしまったのです。あなたが倒れなかったのは、若く健康な身体ゆえか、あるいは摂取量が単純に少なかったからか……」

 亜深の推論を耳にして、透佳は息を呑んで、蒼褪めている。

「それじゃあ、とうちゃんとかあちゃんは……?」

 瘴気中りなど、この先、命に別条はないのか、と、いかにも不安げに口にする。それに亜深は、大丈夫ですよ、と、口許をやわらかくゆるめ、安心させるように静かに言った。

「幸い、井戸が使えなくなってからは沢の水を使っていると言っていましたね。それに、畑の蔬菜やさいについた瘴気はわずかなよううですから、今後摂取しないようにすれば、じきに回復するはずです。畑で採れたものはすべて廃棄して、明日にでも近隣で安全な食べ物を購ってきなさい。土や、建物、衣服などについた瘴気は時とともに自然に薄れて消えるとは思いますが……どうしても心配なら、衣服は沢の水で洗濯して、同じく沢水を使って床などを拭き浄めるといい」

 おそらくそれで数日のうちに問題はなくなるはずだ、と、亜深はそう請け負った。透佳はそれを聴いて、ほう、と、安堵の息を漏らす。

「今日の分の食事は……青嵐。私たちの携帯食の干し肉を、透佳にわけてあげてください」

「わかった」

「ああ、青嵐も、一緒にそれを食べておきなさいね」

「アンタは?」

「せっかく作ってもらったしるものですから、それの残りを」

 亜深がそんなことを言い出すので、青嵐は目を剥いた。傍では、透佳も驚いた表情をしている。

「っ、アンタ……何いってんだ!」

「そうだよ、お哥さん……だって、瘴気が混じってるんだろ、これ?」

 そんなものを食べようとするなど真っ当ではない、と、止めようとする。けれども亜深は、ふ、と、口許に笑みを浮かべた。 

「大丈夫。私には耐性がありますからね。――だって、捨てるのは勿体ないじゃないですか」

 ねえ、と、灰色の眸に同意を求められる。亜深の身体に毒は効かない。そんな不死の肉体のことを知る青嵐だったが、けれども、亜深の言に、そうだな、と、そんなふうに頷いたりは出来なかった。

 だって、明らかに害あるものが含まれている食べ物なのだ。

 それを無頓着に口に入れようとするなど、いったいどういう神経をしているのだ、と、眉を寄せたとき、青嵐はふと思い出した。そういえば先日も、亜深は、青嵐がわざと毒を入れたしるものを平気で口にしていたではないか。否、平気などではなかった。すくなくとも、嘔吐えずき、血を吐きながら、食べてはいた。それでも、死にはしないから、と、笑ってそうのたまっていたのだ。

 いまもきっと同じような感覚なのだろうな、と、青嵐はてのひらを握り締めながら思った。

 おそらく、瘴気が全く亜深の身体を痛めつけないというわけではない。そうではなくて、痛くとも辛くとも、それが身命の危機にはつながらないから、頓着する必要がないということなのだ。

 なんだよそれ、と、青嵐は顔を顰め、くちびるを引き結ぶ。わけのわからない苛立ちを覚えていた。

 その感情に任せて、亜深を、き、と、睨んだが、相手はことりと小首を傾げるばかりだ。それに合わせ、艶やかな黒髪が、さら、と、流れる。そんなことにさえ、なんだかふつふつと怒りが湧いた。

 気づくと青嵐は、無言で、衝動のままに、その場から足早に離れている。

 いまは亜深の顔を見ていたくなかった。否、見ているのが辛いのだ。死ぬわけではないから、と、そううそぶいて、平気で己の身体が傷むようなことをしてみせる相手が、大事な何かをひどくないがしろにしているようで、でも、それはきっと彼の置かれた常人には理解しがたい境遇のためであって、だからこそ、ぶつけどころのない苛立ちをどうしていいかがわからない。

「くそったれっ」

 青嵐は透佳の家を出ると、庭先に立って暮れかかった空を見上げ、そんなふうに毒づいた。

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