2-2
「
聞けば、それは数日前のことだったらしい。
透佳はその日、父母と共に、いつものように畑仕事に精を出していた。透佳の家は山の麓にぽつんとある。裏山の恵みと、細々と土地を耕して得る収穫とで、かつかつ食っていけるというような暮らしぶりだった。それでも、三人家族は日々を仲良く、穏やかに過ごしていたのだという。
そこへ、尋常でなく
妖鳥はまず、その鋭く大きな蹴爪で、透佳の家の庭先にあった井戸を壊してしまったらしい。水がなければ
ところが、だ。
数日の後、妖鳥は再び、一家の前に姿を現した。今度はその
が、不幸は、それだけでは済まなかった。
一昨日になって父が倒れ、昨日には母までもが寝付いてしまったのだ、と、透佳はつらそうに、あるいは口惜しそうに語った。
「それだけじゃない。あいつ、時々、僕ん家をじっと見てるんだ」
妖鳥がまた襲ってくるのではないか、今度こそ自分たちに直接襲いかかってきて、何もかもをみな失うことになるのではないか、と、透佳はその懸念に小さな胸を痛めているということだった。それだけでなく、このままでは、倒れた父母の命が危ういのではないかというのも、心配でならない。
「ねえ、お哥さんたち、強いんだよね? ……どうかあの妖鳥を、
申し訳なさそうに
「とりあえず、ひとりじゃ危ない。家まで送ってやろう」
別にそれくらいはいいよな、と、亜深に目配せをすると、亜深もちいさく頷いた。
どうやら透佳は沢へ水を汲みにいく途中だったようだ。青嵐たちは幼い少年と共に沢まで行って、彼が持っていた桶に水を汲むと、重たくなったそれを青嵐が持って、その後に三人で透佳が住むという家を目指した。
「ありがとう、青嵐さん。――あ、ちょっと、廟に寄っていい?」
家路を辿る途中、透佳は小さな
「どなたをお祀りしているのですか?」
亜深が問うと、透佳は大きな目を瞬いた。
「よくわからないけど、
透佳は言って、どこか自慢げに鼻をこする。その仕草や言葉から、きっと彼ら一家が先祖代々、大事に祀ってきた土地神なのだろうことが窺い知れた。あながち言い伝えだけというのではなく、実際に、山の
「豺さまはいつも、僕たちを守ってくれてるんだ……でも、それならどうして、今度の妖鳥は追っ払ってくれないのかな」
透佳は切なげに眉根を寄せ、くやしそうにてのひらを握りしめた。
「もしかして、豺さまも、あのばけものにやられちゃったのかもしれない」
幼子が不安げに眸を揺らすのに、青嵐は胸が詰まった。
「心配すんな。妖鳥の一匹、二匹、俺たちが何とかしてやるからさ」
思わず安請け合いをしてしまうと、少年は、ほんと、と、大きな目をぱちくりさせる。口にしたからには引っ込みもつかなくて、また、実際に何とかしてやりたい気持ちもあって、青嵐はこくりとひとつ頷いた。すると透佳は、まるで大輪の花が綻ぶときのように、うれしそうに笑った。
「……おひとよし」
はあ、と、傍らでちいさな嘆息が聴こえる。亜深が含み笑い混じりに呟いたそんな声は、いっそ聞かなかったことにした。
*
「あそこが僕ん
やがて透佳が一軒のちいさな建物を指さして駆け出した。もちろん、さほど大きな屋敷ではない。そして、建物の傍らに見えている井戸は、たしかに、崩れて埋まっているようだった。前の畑も、土が無残に黒く焦げているのが見て取れる。
「すこし調べてみましょうか」
亜深が言って、青嵐は頷いた。日が暮れかかってはいたが、まだ暗いというほどでもない。透佳のいう妖鳥が何ものなのか、なにか痕跡があるようなら、見つけられる可能性は十分にあった。
透佳は、父母の様子を見にいくと言って、ひと足先に家の中へと入っていく。そのちいさな背中を見送った後、青嵐と亜深とは、ここを襲ったという妖鳥の手掛かりを求めて、近くを見て回ることにした。
透佳の話では、妖鳥は時に、透佳の家を木々の隙間から見ていることもあるという。たが、どうやらいまは近くにはいないようだった。青嵐が神経を研ぎ澄ませ、吹いてくる風の音に耳を傾けてみても、不審な音を拾うことはできない。
まあそう簡単に姿を現わしたりはしなくても当然だ、と、青嵐がそんなことを思いつつ、ふと視線をやると、亜深は畑の縁に屈んで、妖しの焔で焼かれたという土を手に取っていた。
「何かわかりそうか?」
青嵐は亜深の傍へ寄って訊ねてみたが、まだなんとも、と、相手は軽く
「なあ、亜深」
ふと、青嵐は相手を呼んだ。
「なんですか、青嵐? っていうか、あまり気軽に私の名を呼ばないでくださいね」
自分は時折、否、割と頻繁に青嵐の名を――呪まで籠めて――呼ぶくせに、相手はそんな理不尽な文句を口にした。なんでだよ、と、青嵐が突っ掛ると、これには答えず、くすん、と、肩を竦めて見せる。
「それより、何か用ですか?」
灰色の眸を眇めた相手は、そう問いを投げてきた。はぐらかされたのは分かったが、相手はおそらく青嵐の何十倍ではきかない時を生きている天涯山主である。これ以上は言ってみたところで徒労に終わるのかもしれない、と、青嵐は溜め息をついた。
「あのさ……俺を付け狙ってるらしい
気を取り直して、気になったことを口にしてみる。
「まあ、そう伝承されてはいますね」
「地鬼が湧けば、中原の獣とかって、その……悪い影響とか、受けたりするもんなのか?」
青嵐は口籠りつつ、探るように亜深を見た。相手は、灰色の眸をわずかに瞬く。
「さあ、どうでしょう……私も、地涯谷の向こうの方々について、詳しいわけではありませんからね」
軽く首を傾げてみせてから、くす、と、呆れたように笑って、肩を竦める。
「おひとよし」
ひと言、そう言われて、なんだよ、と、青嵐は黒眸で亜深を睨んだ。
「べつに。妖鳥退治を引き受けようとしているのはそういう
「そういうって?」
わかったふうな口を利く亜深に、青嵐は眉根を寄せた。
「君はどうも、地涯谷主の次代候補らしい。まあ、それが確かかどうかを
ふう、と、口許に苦笑めいた笑みを刷くとともに、嘆息に似た吐息を亜深は漏らした。青嵐は、ぐ、と、言葉に詰まる。亜深の言葉は、まさに青嵐の胸にもやもやとしていた
思っていたことをすっかり言い当てられた青嵐は、悪いかよ、と、不貞腐れるように言って、そのまま黙り込んだ。
「悪くはないですけれどね。そんなことを気にしていたら、この先、身体がいくつあっても足りないのではないですか、とは、思います」
「でも……この家の被害が、俺を狙ってきたやつらのせいかもしれないなら、気にしないわけにはいかない」
青嵐が拳を握り締めつつ口にすると、しばらく灰色の眼差しをこちらに据えていた亜深はやがて、ふう、と、静かに吐息した。
「まあ、君がそうしたいのなら、かまいませんが」
苦笑するように笑って言う。
「実際、可能性はあるのか? 地鬼がからんでるっていう」
「可能性というだけなら、あるでしょうね。――そこの
「それじゃあ」
青嵐は低く唸った。十日ほど前にこの家を唐突に襲ったのだという妖鳥は、身に瘴気を帯びていたということになるのではないか。それは沙沙下地から這い出した地鬼によるものなのか、と、青嵐が畳みかけるように訊ねると、亜深はゆるく首を振った。
けれどもこれは、違う、と、否定したわけではないようだ。
「わかりません」
そう、短く言う。
「先程、君を狙ってきた地鬼から感じた気配と似ているようには思います。が、たしかに沙沙下地由来かと訊かれれば、なんとも……判別するには、あまりにも
それでも、可能性は皆無ではない。直接的にではないにせよ、自分の存在が何らこの地に災いを運んだのかもしれない、と、そう思うと、青嵐は
「君……ほんとうに、
黙り込んでいると、そんな青嵐に、亜深はやや呆れ気味に言った。闇に
「うるさいな。いくら暗部の人間だって、無関係の誰かを無闇に巻き込んで、平気なわけじゃないっての!」
「そういうものですかね」
くつ、と、揶揄する調子で言われた上で喉を鳴らされた。
が、そんなことを言うなら、中原のためといってたったひとりで
「――まあ、それはさておき、です」
青嵐の沈黙をどう取ったものか、やがて亜深は、灰色の眸を眇め、声を低めて言った。
「痕跡の残り方が、少々奇妙な気がする。むしろ、山から井戸に続く水脈のほうに問題があるのかもしれませんし、まだなんとも言えませんね。実際にその妖鳥と出くわすことがあれば、なにか……」
もっとわかることがあるかもしれない、と、おそらく亜深はそう言いかけたのだろうと思う。だが、言い切るよりも早く、かrは背に背負った剣の
すら、と、白銀に輝く刃を抜身にして手に提げる。それから、ひた、と、油断のない視線を送るのは木々の繁茂する山のほうだった。
「どうやら……
彼が口にするころには、青嵐の耳もまた、かすかな、けれども奇妙な葉擦れの音を捕らえていた。
匕首を取り出すとやや体勢を低く構えつつ、気を研ぎ澄ます。生温い風とともに、いままで感じなかった気配が近づいてくるのを、注意深く待った。
やがて、梢の隙間に、紅く光るものが見える。
かと思うと、バサッ、と、大きな羽音を響かせて、巨大な影が空へと飛びだした。
青嵐は巨大な烏を見上げた。妖鳥はこちらの頭上を二度ほど旋回すると、バサ、バサリ、と、打ち付けるような羽ばたきをする。
作りだされた空気の流れは、あたかも疾風のようになって、青嵐や亜深に吹き付けてきた。
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