二章 豺の嘆

2-1

「〈青嵐せいらん〉、あの岩陰まで真っ直ぐに走りなさい!」

 耳に響いたその声に、青嵐は、ち、と、ちいさく舌打ちをした。

 〈名〉とは最も原始的で根源的な、それゆえに強い力を持つ呪言じゅごんである。だから、そんなふうに真名まなを呼ばれた上で命じられれば、青嵐には、相手の言葉に逆らう術がなかった。

 襲い来る敵に応戦するために構えたはずの匕首ひしゅだったが、それを握りしめたまま――おのが意思に反して――青嵐の身体は駆け出している。目指すのは、声の主が示した岩陰だった。その後ろに走り込んだところで、カンカン、カァン、と、背後から響いてくる、金属のぶつかるようなかすかな音を聴いた。

 ぎり、と、奥歯を噛む。なんで、と、思う。

 地団太を踏むような気持ちをぶつけるように、青嵐が匕首をきつく握り直した刹那だった。あたかも唐突に差しくる影のように、赤黒せきこく長袍きものまとい、薄気味の悪い鬼面をつけた男が、青嵐の目前に現れた。

 これでも青嵐は、蜘蛛ちしゅの――国王直属の、暗部組織の――一員として鍛えられている。本能的に低く構え、戦闘態勢を整えると、飛びかかってくる男の身体を寸でのところでひらりとかわした。

 身をよじるようにして、逆に鬼面の男の背後を取る。背中に向かって匕首を振り下ろそうとしたところで、今度は相手が、まるで軽業師のような、いっそ不自然な跳ね方で二度ほど前転して、こちらとの間に間合いを取った。

「くそっ」

 毒づいて、青嵐は匕首を構え直した。

「下がりなさい」

 そこへ割り込むように差し出されたのは、真白な道袍きものの大きな袖だった。青嵐を制したのは、天涯山主の亜深である。

 天神天仙の住まう雲上うんじょうてんと、人間の世界である中原ちゅうげん。この二つの境には、天涯山という、人にとっては禁足地の山が、それこそ雲を突くかのごとく高くそびえている。筆鋒を連ねたような猛々しい威容を誇るその天涯山を守護するのが、天涯山主、すなわち亜深なのだった。

 その亜深が、朋友との約束を果たすため、天涯山を離れて青嵐の旅に同行することになったのは、つい数日前のことである。

 亜深を動かした、彼の朋友ともは、青嵐にとっても主たる人だった。孤児だった青嵐を拾い、目をかけて育ててくれた、凌王である。この王が、自らの寿命がついえるのに際して、青嵐を亜深に託したのだった。

 先頃崩じた凌王と亜深が約したのは、青嵐を、地涯谷まで無事に送り届けるということだ。

 中原の北の涯てにある天涯山と対をなし、南の涯て、地鬼ちきうごめ沙沙下地ささがちとの境にあるのが、地涯ちがいこく。その守護を務める者を地涯谷主といったが、どうやらこれが、いま代替わりを控えているらしい。

 そして――自身にはまるで自覚はなかったし、まだ半信半疑でもあるのだが――青嵐こそは、次代の谷主候補なのだ、と、凌王は黄泉こうせんへ旅立っていく直前にそんなことを告げていた。

 いま、青嵐が鬼面の男たちに襲われているのも、おそらくはそのためである。

 亜深によれば、彼らは地涯谷の向こうに広がる沙沙下地の住人、すなわち地鬼と呼ばれる者たちなのだそうだ。ひとたび中原へ姿を現したならば、世に災禍わざわいもたらすとされる地鬼。地涯谷主はどうも、人間ひとが沙沙下地へ迷い込むのを防ぐと同時に、この地鬼が中原に侵入してくるのをも防いでいるらしい。

 逆に言えば、谷主さえいなければ、地鬼たちは自由に中原への行き来が可能なわけであった。つまり、地鬼たちにとっては、地涯谷主は邪魔者だ。代替わりを前に谷主の力が弱まっているのに乗じて、次代谷主が立つのを阻もうと、中原に湧いて出ては青嵐を襲っている、というのが、どうやらここ数日の間の青嵐を取り巻く状況であるようだった。

「っ、俺だって戦える!」

 亜深の背にかばわれるようにしながら、青嵐は言った。が、亜深は青嵐の言葉を聴こうとはしない。

「おとなしくしていなさい、〈青嵐〉」

 またしても名の呪によって青嵐を縛りつけると、自らはひとり、白銀に輝く剣をげ、真正面から敵方に突っ込んでいってしまった。



「もう大丈夫、去ったようです」

 しばらくの後、亜深が青嵐のもとへ戻ってくる。

「天涯山を出て二度目の襲撃。都合、三度目ですか……君の正体がどうかはさておいても、彼らが君をつけ狙っていることだけは、どうやら間違いなさそうですね。――ただ、彼ら、そう長いこと中原に留まってはいられないようです」

 亜深は、地鬼たちが消えていったのだろう方向へと視線を投げてそう呟き、ほう、と、吐息した。

 いくら地涯谷主の力が弱くなっているとはいえ、本来なら沙沙下地に暮らす地鬼たちにとって、人界である中原にいられる時間には制限があるらしい。亜深が口にした通り、青嵐が彼らの襲撃を受けるのはこれがもう三度目だったが、そのどれもに対処してくれた亜深は、その経験の中で、そんな結論を得たらしかった。

「怪我はありませんか、青嵐?」

 そう訊ねてくる相手の白い道袍にこそ、赤黒い染みがいくつもあった。おそらく返り血ばかりではないだろう。それを見た青嵐は、ちら、と、眉根を寄せた。

「ない」

 ぶす、と、答える。

「そう、それは良かった」

 亜深がこだわりなくそう言うのに、ますます顔を顰めた。

「アンタこそ……平気なのかよ」

 道袍が血だらけだった。亜深が応戦の最中で怪我を負ったのは間違いないだろう。あれだけ真正面から敵の間合いに突っ込んでいけば当然だ、と、彼の戦い方に対し青嵐は顔を顰めたのだが、相手はこちらの思いなど知らぬげに、きょとん、と、灰色の目を瞬いた。

「私ですか? 傷ならもう、ぜんぶ治ったと思いますけど」

 地鬼は湾刀を手にしていた。おそらくそれで斬りつけられたのだろう、亜深の纏う白い道袍には破れがあったし、そこには血が滲んでいた。

 しかし、亜深の肌には、本人の言う通り、ちいさな傷一つ見当たらない――……もうすっかり治ってしまったのだろう。

 天涯山主は、不死だ。否、死ぬことが出来ない、と、言ったほうが正しいだろうか。すくなくとも彼自身はそれをもはや呪いだと感じているようだったから、後者の言い方のほうが、彼自身の感覚としっくりくるものではないか、と、青嵐は思っている。

 天涯山主は、人界と天界の境界たる天涯山にあって境界の守護者を務める者であるともに、人に不老不死をもたらすという龍玉をも護っている。そんな伝承は、ある意味で正しく、ある意味で誤っているのだ、と、青嵐はすでに知っていた。

 龍玉について亜深は、雲上天ですら扱いかねた、天の廃棄物であると言った。その、ひとたび世に出れば確実にわざわいを呼ぶ霊力莫大なるものを、彼は、一介の人間ひとでありながら、体内に宿しているのだという。

 むしろ、人間ひとたる彼の身を不老不死とするという、自然のことわりに反することを実現するのに龍玉の力を消耗することで、巨大な力は相殺されて、無闇と世に解き放たれずに済んでいるということであるらしい。

 そして、地涯谷主。地涯谷の主、もうひとりの境界の守護者だけが、その厄介な龍玉を、何らかの方法で破壊することが可能かもしれないのだそうだ。

 青嵐の主である凌王は、生涯をかけてなんとか見出した、その可能性にかけていた。だからこそ、亜深の朋友であり、かつて亜深に不死からの解放を約束したその人は、谷主候補の青嵐を亜深に託した。

 そして青嵐には、己が願いを、あるいは約束を――朋友をいつか不死から解き放つのだという――託した。

 大切な主から願いを引き継いだ青嵐は、いつか亜深を不死から解放してやろうと思っている。そのために、まずは唯一の手がかりともいえる、地涯谷を訪ねようと思っている。地涯谷に辿り着くまで、みすみす地鬼に殺されてやるわけにはいかない、と、そうも思う。

 そんな青嵐を、王から託された亜深が、身を挺して守ってくれようとしている。それは理解している――……だが。

「なんとか、ならないのかよ……それ」

 青嵐はぼそりと呟いていた。

 亜深が手練てだれであることは、彼と遣り合ったことのある青嵐には、わかっていた。だからこそ、疑念が湧く――……否、よくわからない腹立ちが募るのだ。

 亜深は強い。だったら、やろうと思えば、もうすこしましな戦い方ができるのではないのだろうか。そんな、傷だらけの血だらけになるような真似を、しなくてもいいのではないのだろうか。

「それって?」

 青嵐の問いに、相手は、こと、と、小首を傾げた。烏羽玉うばたまの夜を絹に紡いだような黒髪が、さら、と、流れて肩からこぼれた。

「アンタ、いま……酷い恰好だ」

「ああ。――でも、あとで君が洗濯してくれるでしょう?」

 ふ、と、口許をゆるめながら衒いなく言われて、青嵐は思わず、き、と、相手を睨み据えていた」

「アンタな……!」

 そういうことじゃなくて、と、青嵐が言い募りかけた時である。

「あの……!」

 ふいに、どこからか、こちらに呼びかけてくるような声がした。

「そこの、旅のおにいさんたち」

 続けて言われて、声をしたほうへと視線をやってみれば、十歳そこそこかと思われる活発そうな少年の姿がある。

「お哥さんたち、もしかして、すごく強いよね……! あの、僕の家を、守ってくれませんか……妖鳥ばけものどりから」

 意を決したように言った少年は、大きな目で、切実そうに、青嵐と亜深とをじっと見詰めた。

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