二章 豺の嘆
2-1
「〈
耳に響いたその声に、青嵐は、ち、と、ちいさく舌打ちをした。
〈名〉とは最も原始的で根源的な、それゆえに強い力を持つ
襲い来る敵に応戦するために構えたはずの
ぎり、と、奥歯を噛む。なんで、と、思う。
地団太を踏むような気持ちをぶつけるように、青嵐が匕首をきつく握り直した刹那だった。あたかも唐突に差しくる影のように、
これでも青嵐は、
身を
「くそっ」
毒づいて、青嵐は匕首を構え直した。
「下がりなさい」
そこへ割り込むように差し出されたのは、真白な
天神天仙の住まう
その亜深が、朋友との約束を果たすため、天涯山を離れて青嵐の旅に同行することになったのは、つい数日前のことである。
亜深を動かした、彼の
先頃崩じた凌王と亜深が約したのは、青嵐を、地涯谷まで無事に送り届けるということだ。
中原の北の涯てにある天涯山と対をなし、南の涯て、
そして――自身にはまるで自覚はなかったし、まだ半信半疑でもあるのだが――青嵐こそは、次代の谷主候補なのだ、と、凌王は
いま、青嵐が鬼面の男たちに襲われているのも、おそらくはそのためである。
亜深によれば、彼らは地涯谷の向こうに広がる沙沙下地の住人、すなわち地鬼と呼ばれる者たちなのだそうだ。ひとたび中原へ姿を現したならば、世に
逆に言えば、谷主さえいなければ、地鬼たちは自由に中原への行き来が可能なわけであった。つまり、地鬼たちにとっては、地涯谷主は邪魔者だ。代替わりを前に谷主の力が弱まっているのに乗じて、次代谷主が立つのを阻もうと、中原に湧いて出ては青嵐を襲っている、というのが、どうやらここ数日の間の青嵐を取り巻く状況であるようだった。
「っ、俺だって戦える!」
亜深の背に
「おとなしくしていなさい、〈青嵐〉」
またしても名の呪によって青嵐を縛りつけると、自らはひとり、白銀に輝く剣を
*
「もう大丈夫、去ったようです」
しばらくの後、亜深が青嵐のもとへ戻ってくる。
「天涯山を出て二度目の襲撃。都合、三度目ですか……君の正体がどうかはさておいても、彼らが君をつけ狙っていることだけは、どうやら間違いなさそうですね。――ただ、彼ら、そう長いこと中原に留まってはいられないようです」
亜深は、地鬼たちが消えていったのだろう方向へと視線を投げてそう呟き、ほう、と、吐息した。
いくら地涯谷主の力が弱くなっているとはいえ、本来なら沙沙下地に暮らす地鬼たちにとって、人界である中原にいられる時間には制限があるらしい。亜深が口にした通り、青嵐が彼らの襲撃を受けるのはこれがもう三度目だったが、そのどれもに対処してくれた亜深は、その経験の中で、そんな結論を得たらしかった。
「怪我はありませんか、青嵐?」
そう訊ねてくる相手の白い道袍にこそ、赤黒い染みがいくつもあった。おそらく返り血ばかりではないだろう。それを見た青嵐は、ちら、と、眉根を寄せた。
「ない」
ぶす、と、答える。
「そう、それは良かった」
亜深がこだわりなくそう言うのに、ますます顔を顰めた。
「アンタこそ……平気なのかよ」
道袍が血だらけだった。亜深が応戦の最中で怪我を負ったのは間違いないだろう。あれだけ真正面から敵の間合いに突っ込んでいけば当然だ、と、彼の戦い方に対し青嵐は顔を顰めたのだが、相手はこちらの思いなど知らぬげに、きょとん、と、灰色の目を瞬いた。
「私ですか? 傷ならもう、ぜんぶ治ったと思いますけど」
地鬼は湾刀を手にしていた。おそらくそれで斬りつけられたのだろう、亜深の纏う白い道袍には破れがあったし、そこには血が滲んでいた。
しかし、亜深の肌には、本人の言う通り、ちいさな傷一つ見当たらない――……もうすっかり治ってしまったのだろう。
天涯山主は、不死だ。否、死ぬことが出来ない、と、言ったほうが正しいだろうか。すくなくとも彼自身はそれをもはや呪いだと感じているようだったから、後者の言い方のほうが、彼自身の感覚としっくりくるものではないか、と、青嵐は思っている。
天涯山主は、人界と天界の境界たる天涯山にあって境界の守護者を務める者であるともに、人に不老不死をもたらすという龍玉をも護っている。そんな伝承は、ある意味で正しく、ある意味で誤っているのだ、と、青嵐はすでに知っていた。
龍玉について亜深は、雲上天ですら扱いかねた、天の廃棄物であると言った。その、ひとたび世に出れば確実に
むしろ、
そして、地涯谷主。地涯谷の主、もうひとりの境界の守護者だけが、その厄介な龍玉を、何らかの方法で破壊することが可能かもしれないのだそうだ。
青嵐の主である凌王は、生涯をかけてなんとか見出した、その可能性にかけていた。だからこそ、亜深の朋友であり、かつて亜深に不死からの解放を約束したその人は、谷主候補の青嵐を亜深に託した。
そして青嵐には、己が願いを、あるいは約束を――朋友をいつか不死から解き放つのだという――託した。
大切な主から願いを引き継いだ青嵐は、いつか亜深を不死から解放してやろうと思っている。そのために、まずは唯一の手がかりともいえる、地涯谷を訪ねようと思っている。地涯谷に辿り着くまで、みすみす地鬼に殺されてやるわけにはいかない、と、そうも思う。
そんな青嵐を、王から託された亜深が、身を挺して守ってくれようとしている。それは理解している――……だが。
「なんとか、ならないのかよ……それ」
青嵐はぼそりと呟いていた。
亜深が
亜深は強い。だったら、やろうと思えば、もうすこしましな戦い方ができるのではないのだろうか。そんな、傷だらけの血だらけになるような真似を、しなくてもいいのではないのだろうか。
「それって?」
青嵐の問いに、相手は、こと、と、小首を傾げた。
「アンタ、いま……酷い恰好だ」
「ああ。――でも、あとで君が洗濯してくれるでしょう?」
ふ、と、口許をゆるめながら衒いなく言われて、青嵐は思わず、き、と、相手を睨み据えていた」
「アンタな……!」
そういうことじゃなくて、と、青嵐が言い募りかけた時である。
「あの……!」
ふいに、どこからか、こちらに呼びかけてくるような声がした。
「そこの、旅のお
続けて言われて、声をしたほうへと視線をやってみれば、十歳そこそこかと思われる活発そうな少年の姿がある。
「お哥さんたち、もしかして、すごく強いよね……! あの、僕の家を、守ってくれませんか……
意を決したように言った少年は、大きな目で、切実そうに、青嵐と亜深とをじっと見詰めた。
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