第5話 冷宮

 数日は仕事に慣れることに忙しく、あまり情報も得られないまま数日が過ぎた。東回りをしている中で珠麗宮にも何度も行ったが、冬雪は忙しくしているようであまり会話する機会もなかった。しかし花貴人は雨桐が行く時間にはよく庭に出ていて、他愛もない話をしてくれることが多々あった。しかしそうなると側に寄り添っている雪梅は良い顔をせず、話しが長くなると唐白に次の宮に行くように促す。雨桐は冬雪と一度話をしたいという焦燥感と、花貴人への緊張などから。珠麗宮の帰りはどっと疲れてしまうのであった。


 そんな調子で二か月が経過した。季節は初夏に差し掛かっており、新緑が眩しい季節となった。雨桐は宿舎の中で一番に床を出ると、宿舎の掃除をすることが日課になっていた。仕事が終わると倒れるように寝てしまう雨桐には、鈴風のように夜に掃除をすることが難しい。しかし、皆で使う宿舎を鈴風にだけ掃除させるというのには申し訳なさを感じていた。ある日、早く目が覚めてしまった朝にふと思い立って、朝に鈴風がやりきれなかった箇所を掃除することにしたのだ。実際に早くに起きるようになってみると、孫蓮が雨桐よりも先に起きて掃除をしていることに気が付いたり、朝の爽やかな風が案外好きであることに気が付いたりするものであった。唐白は掃除こそしないものの、朝早く食堂にいって朝飯を確保してくれる。宿舎の仲間には恵まれたものだと、この二か月で感じることが多かった。

 朝飯の粥を頬張りながら四人で一日の仕事の打ち合わせをする。鈴風は上品に音を立てずに粥を口に運びながら、静かな声で提案した。

「そろそろ雨桐さんも慣れて来た頃でしょうし、東回りと西回りを交代してみませんか」

「なんだと!」

 思わず立ち上がってしまったのは唐白である。雨桐と孫蓮は冷静な目つきで唐白を見る。冷静な目つきで見つめられたことが恥ずかしくなったのか、顔を赤くした唐白は咳払いをして、どかりと椅子に座りなおして文句を垂れた。

「慣れているのなら東をそのままやらせれば良い話だろうに」

「しかし、西回りもやっておいた方がいいでしょう。後宮の娘娘の顔や性格は認知しておくことに越したことは無いでしょうから」 

 唐白もそれはそうだと頭ではわかっているようで渋々承諾する。雪梅姑娘に会えなくなることが余程辛いのだろう。

 孫蓮は相変わらず声を発さないで黙々と食事を進めている。未だに雨桐は孫蓮の声を聞いたことが無い。

「孫蓮はそれでもいいか」

 雨桐が横に座る孫蓮を見上げるように見つめながら訪ねると、見つめ返すように細い目が雨桐を捉えた後、ゆっくりと頷いた。

 孫蓮は声を出すことをしないが、このように問いかければ反応を見せてくれるし、他の宿舎の仲間が騒いでいると、少しだけ口角を上げて見守ってくれている。穏やかで優しい性格のようだ。

「それに」

 鈴風が珍しく少し低い声で呟くと、唐白はスッと目を逸らす。

「以前は三日交代でやっていましたよね。仕事に楽しみを見つけるのも結構ですが、公私混同はほどほどにお願いしますね」

 さすがの唐白も優しい鈴風の厳しい声には肝を冷やしたようで、「はい」と口から漏らして項垂れた。雨桐は気を使ってくれる仲間への感謝を感じながらも、冬雪と和解する機会がまた減ってしまうな、と小さな焦りを感じていた。

 

 西回りになるにあたって唐白の教育係としてのやる気がなくなることを懸念して、雨桐の教育係に鈴風が付いてくれた。唐白はさすがにそんなことにはならないと声を声を荒げて抗議していたが、鈴風はきっぱりと「駄目です」と断っていた。いつも穏やかな鈴風にも案外厳しいところがあるものだと驚いた。

 朝飯を終えて、桶と壺のある宦官の倉庫まで来ると、鈴風は雨桐に手作りの地図を差し出した。宦官でも手に入るような粗末な紙ではあるが丁寧に描かれており、鈴風が作ってくれたものであると推測できた。鈴風は読み書きができるのだと雨桐は初めて知った。

「西回りは主に下級の妃の宮になります。とはいえども、娘娘に違いはありませんから、丁寧にお仕事しましょう」

 鈴風は回る順路を地図に書いて教えてくれた。以前見かけた張常在の宮もその中に入っている。しかし雨桐が一番気になったのは最後の宮であった。

「冷宮」

 雨桐が呟いた声に鈴風は顔を上げた。

「まだ雨桐さんは入ったことがありませんよね」

「ない。友人がそこにいる」

「それは、大変でしょうね」

 鈴風の表情からも、やはりあまり良くない環境に李雲がいることは間違いないようだ。雨桐はもう少しだけ話を聞いてみようと少しだけ鈴風に顔を寄せて声を低くした。

「何がそんなに大変と言われているんだ。何か罪を犯した妃が行くところだとは聞いているが、その様子を見ることが堪えるということか」

 鈴風は目を丸くして雨桐を見つめた。周囲をきょろきょろと見渡して誰もいないことを確認すると、ゆっくり頷いた。

「それも理由の一つではありますが、何よりもあそこの宦官の異常性が恐ろしいんです」

「異常性?」

「もともとそういう噂のある宦官が配属されるというのもありますが、普通の宦官でもあそこに長くいれば狂ってしまうんですよ」

「なぜだ」

「冷宮では妃への折檻が黙認されているからでしょうね」

「は、折檻?」

 思わぬ単語の出現に雨桐は顔をしかめた。

「凌辱趣味といいますか・・そういう趣味を持つ宦官に感化されてしまうことが多いようですよ。ご友人も早く異動できると良いですね」

 鈴風はそういうと、困ったように眉を下げて微笑んで「行きましょうか」と言って歩き出した。雨桐は不安な気持ちを抱えたまま、その背中を追った。


 冷宮を除いた西回りの三つの宮での仕事は東回りと比べて落ち着いたものだった。妃が穏やかであることもその原因の一つであろうが、それだけではなく女官も比較的穏やかそうな者が多いように感ぜられた。

「こちらは仕事がしやすいな」

「おや、そうですか?どうしてそう思ったんですか」

 本日三つ目の宮である徐貴人の宮のものを回収して、宮を出た後雨桐が呟いた言葉に鈴風は微笑みながら首を傾げた。今日はとにかく西に慣れてほしいからと、壺を乗せた荷車は鈴風は引いてくれている。小さな体にはとても重そうに見えるが、表情は涼し気だ。意外に力があるのかもしれない。

「東回りの時には気が強い女官に会った。あのような女がいるとやり辛いが、こちらの女官は穏やかだ。それに宮自体もあちらより華美でないのも落ち着く」

 鈴風はぱちくりと瞬きをすると、「そうですねえ」と言って眉を下げる。荷車を引きながらもそっと顔を雨桐に寄せて声を落とした。

「それが良いことだとも限りません。宮の華美さは皇帝からの寵愛の証です。皇帝が見初めれば見初めるだけ、褒美として宝石やら花やらが送られるわけですから。それに、女官や妃の様子も、自信や自尊心があるということは皇帝の後ろ盾があるということなんです。何かしでかしてしまっても、皇帝が許してくれるだろうという自信や、愛されているのだという誇りでしょうね。・・・つまり、どういうことかわかりますか?」

「つまり、西回りの妃たちは皇帝の寵愛を受けられていない、いうことだな」

「はい、ご明察です」

 かなりヒントを貰っていたことは分かっているが、鈴風に褒められると嬉しい。雨桐は口元が少しだけにやけそうになるのを抑えた。

「ちなみに気の強い女官というのは春月姑娘ですか」

「そんな名前だったな。皇后娘娘に仕えていた女だ」

「やはり。彼女、気が強いですけどね、そんなに悪い人じゃないと僕は思います」

 鈴風がにこりと微笑む一方で雨桐は苦虫を噛み潰したような顔になる。あの女官のどこを鈴風は評価しているのか。

 そんなことを話しているうちに冷宮に到着した。。冷宮の入口は朱色の大きな門があり、その扉は固く閉ざされている。雨桐は鈴風から聞いた冷宮の話を思い出して息をのむ。その門はもう何年も閉ざされたままなのではないかと想像させるほど強固なものに感じられた。入口の前には武官らしい門番がおり、鈴風は門番に手を重ねて礼をした。武官は入れと視線で促して扉を開けた。

 門がギイと音を立てて開く。荘厳な門とは裏腹に、門の向こうに広がる景色は目を疑うようなものだった。もう何年も手入れされていないであろう屋根の傾いた木製のみすぼらしい宮が立ち並び、雑草も道だけに留まらず屋根の隙間などの至る所に生えている。雨桐の故郷に住んでいた家とそう変わらないような宮に皇族が住んでいるということが俄かには信じがたく、ここに住まわされてしまう妃は何をしてしまったのであろうかと恐ろしく感じられた。

「大丈夫、行きましょう」

 鈴風はにこりと微笑んで、荷車を引いたまま先に進む。雨桐もその後に続いた。

昼間であるというのにあたりは静まり返っており、時折聞こえてくる笑い声のような叫び声のような声な女性の声が恐怖心を煽る。雨桐ははぐれないようにと歩調を早めた。

「冷宮に住まわれている娘娘は現在お二人ですから、まずは一人目の・・近くの宮から行きましょうか」

「ああ・・」

 「こちらです」と鈴風に声を掛けられて立ち止まったところには、比較的綺麗な宮があった。そうは言っても、もともと古いものを精一杯綺麗にして使っているに過ぎない様子だ。

 古いがよく磨き上げられた門を潜ると、遠くから聞き馴染みのある声が飛んで来る。

「あれっ、雨桐じゃねえか!」

 雑草が綺麗に取り除かれた先にある寝室から、雑巾を手にした李雲が目を丸くして手を振っていた。雨桐は思わず駆け寄る。

「李雲、配属はここだったのか!」

 李雲のほうも雨桐に駆け寄って、雨桐の肩をバシバシと叩いた。その腕は少しばかり細くなっているようだが、明るい笑顔はあの頃のままで、雨桐はホッとする気持ちだった。

「おう、お前も元気そうだな。結構辛い仕事なんだろ。大丈夫か?食ってるか?」

「食っている。お前こそ大丈夫なのか」

「見ての通りだぜ。最初こそびっくりするような所だったけど・・おっと」

 声が大きすぎたと気が付いたのか、李雲は口に手のひらを当てて、きょろきょろと周囲を見渡す。そうして初めて鈴風がいることに気が付いたようで、少しだけ会釈をして雨桐に向き直った。

「ここ、他に比べて綺麗だろう。全部俺がやったんだぜ」

「一人でか?」

「勿論、他の宦官がやるもんか」

 李雲は皮肉気に肩頬だけを上げて引きつるような笑みをした。そんな笑い方をする李雲を初めて見た。明るく屈託のない笑い顔をする彼にそんな顔をさせてしまうものは一体なんだったのだろうかと雨桐は李雲を見つめる。李雲は目が合うといつもも笑顔に戻った。

「そうだ、冬雪は最近どうしてる?」

 冬雪の名前に内心どきりとする。李雲と冬雪は仕事の都合上会うことが少ないだろうから、この質問が来ることは予測できたことだがそれでも狼狽えてしまう。

「俺も最近は会っていない」

 李雲の顔が上手く見られず雨桐は俯いた。普段から表情が豊かではないから、感情が読み取られにくいのは、不便な時もあるがこういう時には役に立つ。

「へえ、お前と冬雪が会ってないなんてことあるんだなあ。冬雪のやつ、すぐに寂しがって会いに行くもんだと思ってた」

 李雲の中の冬雪の印象はそんな風であったのかと雨桐は苦笑した。李雲は鈴風の方に視線を投げる。

「鈴風さん、長話して悪かったな。いつもの仕事だろ?裏から持って行けよ」

「いいえ、久しぶりに会えたんですもんね。まさか雨桐さんの言っていたご友人が貴方だったとは」

 鈴風は「ヨイショ」というと荷車をゆっくり進めた。雨桐と李雲もそれに続く。

「鈴風さんのところに雨桐が配属だったとはなあ。養心殿に行くやつも宦官や女官の宿舎を回る奴もいるんだろ。後宮に配属になって冬雪とも会えるなんて、お前運がいいんだな」

 李雲にニカリと笑いかけられて雨桐は思案した。確かに情報も得やすく、仲間にも恵まれている。友人ともこうして会うことができるのは運が良かった。そもそもずっと雨桐は運が良かった。身一つで家を飛び出して来たにも関わらず冬雪と出会えたおかげで衣食住にも困らずに来られたのだ。衣食住だけではない。寂しい時も、辛い時も、冬雪は近くにいてくれた。それなのに今、冬雪とこんな風になってしまったことが何よりも悲しい。はやく冬雪に会いたくなった。会って、謝りたい。口下手でもいいから、しっかり説明がしたい。いつだって冬雪は口下手な雨桐の言葉を最後まで聞いてくれた。そんな冬雪に、雨桐はどうしてあんな態度をとってしまったのだろう。冬雪が雨桐に向けた笑顔が頭の中に駆け巡った。

(冬雪に、会いたい)


「おうい、雨桐。どうした」

「そうかもしれない、と思っていたんだ」

 言い終わると雨桐は先を歩いていた鈴風の前まで走った。考える前に走り出していたのだが、やることは一つであった。鈴風に向かってがばりと頭を下げる。鈴風はぎょっとして雨桐を見た。

「今日の仕事が終わったら、少しだけ寄りたいところがある。今日の仕事に穴は開けないし、就寝までには戻る!夕方に何か雑用の仕事が入ったらお前たちに迷惑をかけるかもしれないが・・」

 雨桐の地面を見つめる視界がじわりと歪む。自分が大切な人を傷つけるということは、こんなにも苦しいのだ。大切な人を傷つけた上に仲間にも迷惑をかけている。こんな自分が不甲斐ない。

「どうか許可してほしい」

 頭上から息をのむ音がして、しばらくすると鈴風の白い腕が雨桐の背中を優しく撫でた。

「頭を上げてください。僕が許可するものでもありません。雑用は三人でもこなせると思いますし、一日くらい構いません。でも、どこへ行くのかは聞いてもいいですか。何かあったときに、あなたを庇うためにも」

 雨桐が顔を上げると、困ったように優しく微笑む鈴風の顔が視界に入る。こんな自分でも、何かあったときに庇うために、と言ってくれる鈴風の優しさが波紋となって心を温めるようにゆっくりと広がった。

「珠麗宮に仕える宦官に会いに行きたい」

「それって冬雪か?」

 李雲の声にゆっくり頷く。

「もう数か月も前だ。俺はあいつにひどいことをした。ずっと謝れずにここまできてしまったが、しばらく西回りの仕事になるのだろう。できれば早く・・謝りたい・・と、今更・・」

 言葉に詰まる雨桐に鈴風はふふと笑う。

「構いませんよ。ただ後宮の門には門限がありますし、怪しまれない様に何か仕事を装うべきでしょう。宦官がただ友人に会いに行くのでは罰せられる恐れがあります。そうですね・・、珠麗宮の便の回収時に桶を忘れてきたことにするのはどうでしょうか。僕からお願いされたと名前を使って頂いてもかまいません。門番の武官は僕のことを知っていますから」

「おお、さすが鈴風さんだな!それなら確かに怪しまれなさそうだ」

 感心したように李雲が拍手する傍らで、雨桐は鈴風を巻き込まないかが気になった。

「だがそれでは・・」

「雨桐さん、お互い様としましょう。もし次に僕が困っていたら、きっと助けてくださいね」

 鈴風は雨桐の手を取ってにこりと微笑む。その顔は年相応に照れくさそうな優しい幼さが滲んだ。雨桐は鈴風の手をぎゅっと握り返す。その手に感謝と決意を込めた。

「必ず、必ず助ける」

 鈴風はゆっくりと雨桐の言葉にうなずくと、「では、仕事をしましょうか」と明るく笑って立ち上がった。


 その日の仕事を終えた夕方、雨桐は後宮の門を叩いた。門にいたのは二人の若い武官だった。二人とも良い体躯の、顔つきの険しい武官だ。ぎょろりと視線を向けられると居心地の悪さを感じずにはいられない。

「門限は過ぎている。何の用だ」

「楊鈴風に言い使われて来ました。汲み取りの桶を珠麗宮に忘れてきてしまいました。それを取りに行くため通して頂きたい」

 雨桐はできるだけ平然を装った。あまり嘘をついた経験はなく、心臓がバクバクと鼓動したが、元来顔に出ない性分だったことが幸いした。

「早くとってこい」

 存外あっさりと通されて驚いたが、鈴風の策と今まで築き上げた鈴風の信頼のおかげであることは想像に難くない。心の中でもう一度鈴風に礼をすると、雨桐は珠麗宮への道を急いだ。

 閉門後の後宮は静まり返っており、たまに女官とすれ違うだけで人通りは少ない。雨桐が路の端を小走りで走っていると、宮の中から出てきた影とぶつかった。

「きゃあっ!」

 女官の上げた声に驚き雨桐が身を仰け反らせると、ぶつかった女官は顔をあげて睨みつけてくる。その顔には見覚えがあった。

「梅春宮の・・春月姑娘」

「ちゃんと前を見なさい、危ないでしょう!」

「失礼致しました」

 最悪な女と会ってしまったものだと内心舌打ちをしていると、春月が無造作に顔を袖で拭うのが見えた。よくよく見つめてみれば、目が赤い。

「泣いていたのですか」

 雨桐が思わず独り言のように漏らした声に、春月は耳まで顔を赤く染めた。

「関係ないでしょ、どきなさいよ!」

「は、はい」

 雨桐が身をかわすと、どすどすとわざとらしく足音を立てて雨桐の横をすり抜ける。その細い腕には二寸ほどの細長い赤い切り傷がうっすらと滲んでいた。血こそ止まっているものの、まだ痛そうに見える。雨桐は思わず怪我をしていない方の春月の腕を掴む。春月は驚いたように振り返った。雨桐はその瞬間我に返った。女官は宦官を汚いものだと忌み嫌っている。特に雨桐のような仕事をしているものに触れられるのは嫌なはずだ。

「申し訳ありません。・・これを、腕に・・お嫌でしょうが」

 雨桐は自分が使っている手ぬぐいを差し出した。この手ぬぐいは都の市場で冬雪に買って貰ったものだった。あまり使っておらず、念入りに洗濯をしていたから綺麗だと自分では思うが、不衛生だと思っている人間に何を差し出されたところで不衛生に見えるものであろう。

 春月はしばらく目をぱちくりとさせていたが、少しだけ目を伏せて受け取った。

「ありがと」

 それだけ言うと、身を翻して門の方へ駆けて行った。雨桐は驚いてしばらく茫然としていたが、我に返ると珠麗宮へ急いだ。

 

 珠麗宮に着くと雪梅と花貴人が寝室に入って行く後ろ姿を見た。門の外から見たところ冬雪はいないように見える。何かの使いで留守にしているか、建物の中で仕事をしているかだ。雨桐が外から中の様子を窺っていると、後ろから腕を強引に掴まれて雨桐は息が止まる心地がした。勢いよく振り返ると、見知った色の白い男が口に人差し指を当てて立っていた。

「何をしてるんだい、怪しいぞ。そんな姿見られたら尋問を受ける」

「冬雪」

 会いたかった男の顔が目の前に現れて、雨桐は思わず冬雪の肩に正面から頭を預けた。冬雪の身体が微かに震えて驚いていることが伝わる。はっと顔をあげると、困ったような驚いたような、初めて見る表情をしていた。

「冬雪、悪かった。許してほしい」

 冬雪の目をまっすぐに見つめる。冬雪の瞳の中の光が少しだけ揺れた。その形の良い二重の目を三日月のように細めて微笑むと、両手で雨桐の頬を軽くつねった。

「何のことだか。俺に対し意地悪な態度を取ったことかな、しばらく避けるみたいに話もしてくれなかったことかな」

「ぜ・・全部だ」

 避けていたつもりはないが、そう映っていたのならそうなのかもしれないと弁解をするのは辞めた。雨桐が「痛い」というと、冬雪は手をそっと放す。その手で優しく雨桐の頬を撫でた。大して痛かったわけではないが、せっかくだからしっかりと色々と話したかったのだ。

「今日、李雲に会ったんだ。お前は元気かと聞かれて、それで、お前に会いたくなった」

 冬雪はその言葉を聞くと、わかりやすく狼狽えた。普段飄々としている男の意外な姿に雨桐は目を丸くする。

「そ、そうかい」

「俺はあの時、お前に失礼なことをした。お前の好意を踏みにじるような態度をとった。すまない」

「いや、君のことだ。何か考えがあったんだろう。俺もかっとなって悪かった。どうしてあんな態度をとったのか、聞かせてくれるかい」

 冬雪は困ったように眉を下げて微笑む。雨桐はこういう冬雪の口下手な自分に対する気遣いが嬉しかった。

「お前は俺に目的があると話してくれたな」

 雨桐は少しだけ声を低くする。周囲に人の気配は感じられないが、万が一聞かれては厄介だ。

「その目的のために、俺にばかり構っていてはいけないと思った。気持ちは嬉しいが、自分の夢のために、今はそれだけを考えてほしい」

 冬雪は少し考えるようにして黙り込む。しばらくしてから「うん、そうだね」と声を漏らした。

「でもこれだけは覚えておいて。俺も君に会いたかった。君のことがとても大切なんだ。だから、君が大変そうにしていれば手を貸したくなるし、君が危ないように見えれば助けたくなる。迷惑ならやめるべきだけれど、そうでないのなら、少しくらいは許してほしい。ああ、勿論、この間のように露骨なことはしないけれど・・」

 冬雪が少しだけ自信が無いように小声になるのが可笑しくて、雨桐は口元が綻ぶのを感じた。小さく頷くと、冬雪は安心したように息を吐いて笑った。

「君が会いに来てくれて嬉しいよ。その原因が李雲っていうのは複雑だけれどね」

「李雲とまだ仲が悪かったのか」

「違うよ、別にもともと悪くはない。俺が一方的に奴を知ってたから八つ当たりしていたのさ」

「え、李雲を?」

「うん。あいつ、俺の故郷によく来ていた旅商人の子だ。俺の従妹も、友達も、大切な人がみんなあいつに懐くから、昔から嫉妬してたんだ。それに君まで彼に懐くものだから」

「懐いてなんか・・李雲は友人だ」

「その通りだね」

 冬雪は「俺もわかってるつもりなんだけど」と言って唇を尖らせた。

「李雲は商人の産まれだったのか」

「商人半分、旅芸人半分って感じだったけれど、随分遠くから来ていたみたいだったし、人気もあった。俺はあまり近寄らなかったから、向こうは覚えてないんだね」

「どうして宦官になったんだろうな」

「さあ、そればかりはね。色々あるんだろうけれど」

 「それよりも」とより声を落として冬雪は雨桐を見た。

「何か情報に進展はあったかい」

「ひとつだけ。俺の班に、以前の皇帝から仕えている宦官がいた。人当たりも良く、仕事もできる。今回も彼のおかげでここまで来られた」

「なるほど。彼から以前の情報は聞き出せるかい。前皇帝と珀の国のやりとりだとか、以前の珀の国の情報だとか」

「そんな簡単に口を割るとは思えないな。それに彼には世話になっている。あまり利用するようなことはしたくない」

「うーん・・、まあそれが君の良さなんだけどねえ」

 冬雪は小さく苦笑すると、雨桐の頭を優しく撫でる。雨桐がじっと冬雪を見つめると、根負けしたように眉を下げて笑った。

「わかった。とりあえずはそれでいい」

「他に何か情報を得たら報告する」

「うん。俺の方はとりあえず、皇帝に顔を覚えてもらった。信用されたとまではいかないけれど、雑談の相手に呼ばれる時もあるって感じかな。まあまあ覚えは良いと思う。さすがにまだ政治的なところまでは踏み込めていないけれど、すぐに戦争を起こすっていう風にも見えないな。娘娘と話しているところを見ても、政治的な話はほとんど輸入とか貢物とかの話だ。まあ元々妃に政治の話はあまりしないんだろうけどね」

 冬雪はやはり雨桐が心配するまでもなく、きちんと情報収集をしていた。雨桐は自分の不甲斐なさが恥ずかしかった。

「人のことを心配している場合ではないな」

 雨桐がぽつりと呟くと、冬雪はふふと笑って柔らかい声で言う。

「君は頑張ってくれているよ」

「甘やかさないでくれ」

「そんなつもりは・・まあいいさ。また折を見て俺からも君に会いに行くよ。今日はこれ以上は怪しまれる」

「わかった。俺は暫く仕事ではこちらに来られない。冬雪も気を付けて」

 冬雪が頷くのを見届けると、雨桐は身を翻して帰路を急いだ。


 宿舎に着くころには就寝の時間になっていた。怪しまれないよう、人気の少ない道を選んでいたため、時間がかかったのだ。夕飯は食べ損ねる覚悟であったが、宿舎に着くと孫蓮が饅頭を雨桐に差し出した。

「くれるのか」

「君の分」

 孫蓮が声を発したことに驚いた。低くも高くもない声音は優しく、雨桐が夕飯にいなかったことを心配してくれているような響きがあった。

「ありがとう」

雨桐が受け取って微笑むと、孫蓮も口元を少しだけ綻ばせた。そこに夕飯から戻った唐白と鈴風が宿舎の古い門を潜って入ってくる。

「雨桐さん、戻りましたか」

 鈴風は雨桐の顔を見るなり、安心したように微笑んだ。唐白も「君の雑用は私がやってやったんだぞ」などと軽口を叩いていたが、場を和ませようとする気遣いを感じられて、雨桐はありがたいと心の中で礼をした。

「すまない。迷惑をかけた」

「いいえ、そんなことはありません。ご無事で何よりでした」

「今日の雑務は・・」

「今終わらせて来たところです。嘔吐した女官の汚物処理だけでしたから、私と唐白さんで十分でした」

 鈴風はにこりと微笑むと「それより」と言葉を続けた。

「仲直りはできたようですね」

「何故わかるんだ」

「わかります。嬉しそうですから」

 雨桐は面食らった。今までは顔に感情が出ないだとか、無表情だとか、そう言われていたし、その自覚もあった。今もそこまで露骨に顔に出していたつもりはないというのに、鈴風は雨桐の感情を読み取った。自分が変わったのか、鈴風の感情を読み取る力の高さなのか、またはどちらもなのか。雨桐は鈴風の顔をじっと見つめる。鈴風は雨桐の視線に気が付くと優しい微笑みを見せてくれる。

「さあ、早く寝ましょう。明日も朝は早いですから」

 鈴風の呼びかけに各々賛成の意を表明する。今日は雨桐にとっても忙しい一日であった。布団に入るとすぐに瞼が重くなり、意識は底に沈んでいった。


 翌朝、雨桐はいつも通り早朝に起床した。雨桐が起きると既に横に雑魚寝していたはずの孫蓮の姿はない。そのまま外にでると予測通りに彼はそこに立っていた。

「孫蓮」

 雨桐が声を掛けるとゆっくりと大柄の背中が振り向いた。「おはよう」と声を変えるとゆっくりと頷く。昨日のように声が聞けるかと期待したが、昨日が特別だったのであろう。いつも通りの無口な彼がいた。

 二人で宿舎の外回りの掃除を終えると、唐白が朝食を取ってくると元気に飛び出していった。遅れて身支度を整えた鈴風が宿舎から出てくる。雨桐と孫蓮の姿を見つけると笑顔を向けた。

「今日は良い天気ですね」

「あぁ、洗濯もすぐに乾きそうだ」

 初夏とは言えども太陽が高く上る昼間には汗が頬を伝うほどの暑さがある。肥溜めの壺の臭いも強さを増すし、虫もわく。雨桐はこの夏を思うとどうにも憂鬱になった。

「そういえばもうすぐ夕涼みの宴ですね」

 鈴風がふと思い出したように空を見上げる。鈴風の白い腕を顔の上に掲げて、目元に影を作っている。雨桐にはそうしてまで眩しい空ほど見上げたい気持ちはよくわかる。

「夕涼みの宴とはなんだ」

「雨桐さんは初めてでしたね。何だかもう長くいるような気がしてしまいますが」

 鈴風ははにかんで見せると言葉を続けた。

「皇帝陛下と皇太后様、御妃様たちの宴です。長い夏を乗り切るために涼をとることが目的ですね。すごく豪華な食事が並びますし、皇族の皆様もすごく楽しみにしている行事です。僕たちは会場に入れないとは思いますが、聞こえてくる雅楽だけでも楽しいものがありますよ」

「そうなのか。俺は雅楽を聞いたことが無い。楽しみだ」

「もしかしたら遠くからなら舞も見られるかもしれませんね。例年通りなら遠い国からわざわざ舞子を呼ぶと思いますし、すごく見ごたえのあるものになっていると思います。当日は仕事が早く終わったら見に行ってみましょうか」

「できるのか」

「ええ、仕事を言いつけられなければですが・・。それに、妃付の女官や宦官は側で見られるわけですし、僕たちだけ見られないなんて不公平ですから」

 そう言ってニカリと笑う鈴風の顔には年相応の幼さが滲んでいて、雨桐は嬉しくなった。孫蓮も心なしか口元が綻んでいる。

「孫蓮は見たことがあるか」

 雨桐が話しかけると一瞬面を食らった顔をした後、首を縦に振った。

「去年・・鈴風に連れて行ってもらった。遠くからだから、中の様子はわからなかったけれど・・、舞は少し見られたよ。綺麗だった」

(中の様子はわからない・・?)

 雨桐は孫蓮の声が長く聞けたことに喜びを感じる一方で、言葉に少し引っかかりを覚えた。遠くから中の様子はわからないというには、鈴風は宴の様子をよく知りすぎている。ただ勤務歴が長いから噂として知っているだけなのだろうが、もしかしたら過去に皇帝に近い位置にいた可能性もある。利用するような真似するつもりはないが、正々堂々と味方になってくれれば心強い。

(焦ってはいけない。慎重に行動しなくては)

 雨桐がこっそり横目で鈴風を盗み見ると、遠くから唐白の声が聞こえて来た。

「おぅい、朝飯貰って来たぞぉ」

「ありがとうございます」

「何の話だ?」

「ほら、夕涼みの」

 唐白は「あぁ~」と返事をして、人差し指を立てた。

「昨日仕事の時にそんな話も聞いたな。妃様たちも出し物をするらしいぞ」

 唐白も今年が初めての夕涼みの宴らしく、「どんなもんなのかなあ」などとぼやいてはニヤニヤとしている。そこからは唐白の思い描く理想の宴像を延々と聞かされながら朝食の包子を頬張る羽目になった。


 その日の仕事を終えると夕焼けが綺麗な時間帯であった。雨桐は桶を洗い終えると、宿舎の前で腰を下ろして空を眺めた。故郷にいた頃はこうやって空をよく眺めていた。東側の空はもう濃紺色だというのに、西側の空は桃色に輝いている。この濃淡は自然にしか作り出せない美しさだと雨桐は思った。ぼうっと眺めていると、ふと視界に影が差した。顔を上げると思わぬ姿がそこにあった。

「春月姑娘」

「何しているの」

 大きな瞳を胡乱気に細めている春月の姿があった。いつも通りに髪をきっちりと結い上げて、小ぶりの石や刺繍の装飾で身を固めている。この気性さえなんとかなれば、かなりの美少女だろうにと雨桐は思った。雨桐もけして体格は良くないが、春月の華奢さは雨桐から見ても儚げに映る。男ばかりで育った雨桐は、男女の体格さというものはこうも違うのかと驚いた。

「空を見ておりました。それ以外は何も。・・・春月姑娘こそ何を?」

「返しに来たのよ。あんたに、これ」

 春月が差し出した手のひらには、雨桐が貸した手ぬぐいが握られていた。綺麗に洗濯をしてくれたのだろう。貸したときよりも更に綺麗になっているような気がした。血を止めるようにと貸したが、血の跡は残っていないようだ。

 それに加えて、女官の一番嫌いそうな宦官の宿舎まで届けに来てくれたことにも雨桐は驚いた。もう返ってこないだろうとさえ思っていたのだ。

「ありがとう。嬉しかったわ」

 手ぬぐいに気を取られていると、頭上から意外な台詞が降ってきて勢いよく顔を上げた。春月は少しだけ顔を赤くして雨桐を睨む。

「何よ、私がお礼を言ったらおかしい?」

「そういうわけ・・・では」

(あるな)

 雨桐は何だか春月のその様子がおかしく見えて、頬を緩ませる。春月はふぅとため息をつくと、雨桐の横に腰を下ろす。

「汚れますよ、裾」

「いいわよ」

「汚いとは思わないんですか」

「どうして」

「どうしてって・・」

 雨桐はここに来てから、自分が汚い存在であるという扱いを受けることに慣れていた。だからこそ、春月の態度には驚かされる。宦官の宿舎の前で宦官の横に腰を下ろして座るなど、他の女官からしたら卒倒ものであろう。ただ、春月がそのような態度を取らないでいてくれる限り、その話をするのは無粋であるような気がした。雨桐は春月の横顔を見つめながら違う話題を切り出すことにした。

「どうしてあの時、腕に怪我を?」

「あんた、よくそういうこと聞けるわね」

「・・申し訳ありません」

「まあいいわ」

 春月は前髪を指先で摘まむと、ぽつりぽつりと話し出した。

「私、仕事できるし、この性格だから結構嫌われてるのよ。同僚たちから。嫌がらせも多いわ。普段なら泣いたりしてやらないんだけど、部屋に戻ったら母さんから貰った唯一の髪飾りが壊されていたの。だから腹が立ったのね。殴り込みに行っちゃったのよ」

「・・・それはまた勇敢なことで」

「一発相手の頬を殴ったら、簪で腕を刺されたってわけ。殴り返そうと思ったけれど、それ以上騒げば皇后娘娘に迷惑がかかるわ。だから悔しくなって泣いてたの。まさか、あんたに見られるとはね」

「辛いですか」

「別に。慣れてるし。冷たくされるのは何てことない。皇后娘娘は私によくしてくれるもの」

 春月は大きな目を少し伏せると、どこか遠くを見るような瞳をこちらに向けた。

「でも、あんたに優しくされたとき、なんだか泣きたくなったわ。優しくされるほうがキちゃうみたい」

 雨桐が春月を見つめると、春月はおかしそうに笑った。笑うと気の強そうな普段の姿からは想像できないほどあどけない。雨桐はその姿に少しだけ落ち着かない心地を覚えた。

「そろそろ行かなきゃね」

 春月は裾についた砂を払い落としながら立ち上がる。雨桐も立ち上がって挨拶をしようとすると、手で軽く制止される。

「いいわ。そのままでいて。じゃあ、またね」

 そういうと春月がゆっくりと背を向けて、人ごみの向こうへ消えていった。気が付くと空は濃紺一色になっていて、生ぬるい風が雨桐の頬を撫でた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪魄の彼方 公達(きみたつ) @kimitatu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ