第4話 王宮
雨桐の宿舎はたいそう王宮から離れており、歩くだけで骨が折れた。支持された宿舎までまだまだかと歩いていくと、どんどんと周囲の景色がみすぼらしくなっていき、ここが宦官や低級の女官の住処であろうことが察せられるような風貌の宿舎がいくつも並ぶところに出た。その中でも一層手入れされていないボロ屋の佇まいである宿舎の前に、一人色白の男が立っていた。その男は宦官であることは間違いなそうだが、腕を組んでにやにやとこちらを見ている。足元には桶がおかれており、異臭を放つ。その匂いはおそらく糞尿のものであり、これが雨桐の仕事道具になるのだろうと察せられた。
「よお、新人」
その色白の男は片手を上げると、口を大きく開けて笑った。身長は雨桐とあまり変わらなく、小柄なほうであったが、細い目が妙に印象的で、特段美形というわけではないが愛嬌がある。紗帽からは癖のある黒髪が覗いていた。
「私は唐白(タンバイ)。お前の教育係りを仰せつかった。よろしく」
「俺は王雨桐だ。よろしく」
唐白はよほど後輩ができて嬉しいのか、頬を紅潮させてにやにやとしながら、腕組をし、指南するぞというような仕草を見せた。
「お前も災難だったな。こんなところに配属になるなんて。まあ私もだが」
「うまくやろうじゃないか」と雨桐の肩にぽんと置かれた手は荒れていた。人は手にその人の生活が出ると雨桐は思っていた。雨桐の視線に気が付いた唐白は気まずそうに手を退ける。
「ここで働けばみんなこうなるのさ。水仕事だし、不衛生な仕事だ。まあ愚痴でも言いながらお互い頑張ろうじゃあないか」
雨桐が頷くと、「まあ入れよ」と宿舎に入れてくれた。
宿舎の中は見た目通りの古くて汚い内装だった。この宿舎には厠掃除を担当している三十人の宦官のうち、三人が雑魚寝をしているようだ。唐白のほかに、落ちついていて寡黙だという孫蓮(ソンリャン)、大人しくて年の若い楊鈴風(ヤンリンフォン)がいるらしい。唐白は綺麗好きらしく、この汚い宿舎を精一杯綺麗に使うためのあれこれを説明され、解放されるころには夜になっていた。夜になると同室の二人も帰ってきて、会話を交わすことになった。
「あなたが同室の」
目の丸い小動物の様な小柄の少年に話しかけられて、その容姿からすぐに楊鈴風だと雨桐は気が付いた。まだ幼さが残る者のかなりの美形であろう。冬雪とは違う意味で中性的だ。その横では身長が高く、ガタイの良いとても宦官とは思えない風貌の男が立っている。おそらく孫蓮であろう。
「王雨桐だ」
「はい、僕は楊鈴風です。よろしくお願いします」
鈴風は軽く手のひらを前で重ねて礼をする。雨桐もつられて礼をした。横でそれを見ていた孫蓮も同じように礼をする。名乗られはしないものの、その雰囲気から近寄りがたいとは思わなかった。
「ふん、こいつはちょっと不器用なところがあるんだ。悪く思わないでやってくれよ」
唐白が少し困ったような顔をして助け舟を出すが、雨桐は不快とも終わっていなかったため、曖昧に頷いた。
夕食は食堂で食べる決まりがある。宦官用の食堂へ向かい、粥をすする。周囲を見渡すが冬雪と李雲の姿は見えない。後宮付きの宦官は食べる所も別なのだろうかと考えた。鈴風は見た目に反して食べるのが早く、どんどん食べては片付けていた。相反して唐白は米粒を一粒一粒食べているのかと思うほど遅い。
「食とは本当に面倒くさいな。ありつけるのは良いが、そもそも食わなくても生存できるのであれば、私はこのようにわざわざ顎の運動をしたくはない」
「そうか」
このように御託を並べては箸を止めていた。雨桐は適当合図地を打ちながら、自分も早く宿舎に戻ろうと箸を進めた。
粥を食べ終え、ぶつくさと何かを言い続ける唐白を横目に食堂を後にする。外に出ると、城壁である赤い壁に沿って宿舎へ向かった。城壁の外には梅の花が植えてあり、わずかに蕾が生っている。もう春も近い。故郷も暖かくなってくる頃だろう。
雨桐は故郷の家族がどうしているかと思いを馳せた。雨桐がいなくなり、食い扶持が減った分、少しは楽をしているのだろうかと思うと、飛び出してきたことへの色々な感情が心に渦巻いて叫び出しそうになる。雨桐は考えるのを無理やりやめるように歩を早めた。春も間近に迫る夜風は、すこしだけ湿度をはらんだ温もりで、雨桐の頬を撫でた。
宿舎に着くと、鈴風が掃除をしていた。雑巾を濡らして絞っているところだった。雨桐が戻ってきたことに気が付くと、にこりと笑った。雨桐が「手伝う」と言うと、「助かります」と言って雑巾を絞る腕に力を入れた。
古いこの宿舎を清潔に保つことは容易ではないようで、丹念に雑巾掛けをしていく。古い家には住み慣れている雨桐でも、この宿舎の古さには驚かされる。ところどころ木切れで補強された建物は心もとない。強い風でも吹けば吹き飛んでしまうのではないかと不安になった。
「ここは屋根があって、いいところですよね」
ぽつりと鈴風がつぶやいた言葉に、雨桐はぎょっとした。
「かなり古いと思うが」
「そうですか。そうかもしれませんね。建物に歴史は感じますけれど、僕は屋根があって、ご飯があって、布団があって、お給金も頂けるなら、こんなに幸せなことはないと思っているんです」
横を見ると、鈴風は穏やかな顔つきで床をゴシゴシと力強く拭いている。その口元には優しい笑みが浮かんでおり、言っていることが本心なのだろうと雨桐には思われた。
「そうか。お前も苦労したんだな」
鈴風は眉を下げて曖昧に微笑む。しばらく黙って掃除していたが、ふと「ここには色々な事情の人がいますからね」と呟いた。
「僕の様な人間は珍しくありませんよ。誰も好き好んで宦官になろうなんて人はいませんからね。雨桐さんもそうでしょう」
雨桐は鈴風の横顔を見るうちに、自分よりも年下に見える彼の大人びたところを見たと感じた。実年齢と、精神年齢は伴わないのだと、一人納得して自分の子どもっぽさを恥じた。
翌日の朝から本格的な仕事が始まった。宿舎の班で割り当てられた範囲の厠の汚物を汲み取り、汲み取った汚物を樽に入れて積み上げるところまでが雨桐たちの仕事だった。雨桐たちの仕事区域は後宮だった。思いもよらない情報に、雨桐は内心心臓が跳ねるのを自覚した。
(後宮なら色々な情報を得られるし、冬雪たちとの情報交換もできる。珀との戦争に関することを早く何か掴めるかもしれない)
周りに悟られない様な努力と、元々感情が顔に出にくい性質のため、その起伏を悟られることはなかった。
唐白は後宮に行く前にいろいろなことを教えてくれた。皇族とは視線を合わせてはいけないこと、宦官は道の隅を歩くこと、皇族とすれ違うときは膝をついて平伏すこと。その他にも細かいことを色々と教わった。
「ここでは宦官は人間様じゃあない。畜生以下さ。皇族に飼われてるお犬様のほうがよっぽど良いもの食ってる」
「頭にくることはないのか」
「その権利すらないのさ。感情などここではいらない」
「唐白さん、言いすぎでは」
鈴風の制止も虚しく、唐白は軽く鈴風の額を小突いて続けた。
「それくらい用心しろということだ。感情を見せたら首が飛ぶぞ。この仕事の良いところは、出世しない代わりに皇族と関わらずに済むところだ」
唐白は紗帽の隙間から覗いたくせ毛を指先でくるくると巻き付けてはほどいている。
「命が惜しければ出世はするな」
唐白はそういうと桶を持ってズカズカと大股で前を行く。同じく桶を持っていた鈴雲はその後をひょこひょこを追いかけていくが、荷車に肥溜めの大きな壺を入れて押している雨桐と孫蓮はこれ以上歩を早めることは叶わず、ゆっくり後を追った。
後宮は各妃の部屋を回り肥溜めを回収した後、後宮につかえる宦官と女官が使用する厠に行く。手分けをしている段階で唐白はまた声を引くした。
「いいか、ここからは二手に分かれるぞ。私と雨桐、鈴風と孫蓮だ。私たちは皇后、香貴妃、花貴人などの東側を担う。残りを二人には頼むぞ」
「はい」
鈴風が返事をすると同時に孫蓮も頷く。二人が西側に向かうのを見ると唐白も歩き出した。雨桐は『花貴人』という名前が冬雪の赴任先であることを記憶していた。
「私たちが今日行く後宮の妃の中では、特に用心が必要なのは皇后と花貴人だ」
「何故」
「皇后は言わずもがなだろう。権力が強いからだ。厳しいが、筋さえ通せば手ひどいことはしない。失礼のないように振舞えよ。花貴人はとにかく色恋好きな方だ。皇帝陛下にはバレていないものの、宦官にも色気を振りまく。気に入られると面倒だぞ」
「そうか」
適当な合図地を打ちながらも、雨桐は冬雪を思った。
(あの美丈夫では気に入られているかもしれない。もちまえの飄々とした態度でなんとか上手くやっているといいが)
唐白の話に話しによると、階級順に回るそうだ。まずは皇后だということで、皇后の住む梅春宮に行くことになった。後宮と書かれた赤い門を潜ると、すこしだけ空気がひりつくような感覚があり、気持ちも引き締まる。梅春宮に近づく途中で、随分西のほうから赤い輿に乗った華美な女性と宦官の群れを見た。
「張常在だ。ほら、道の端に寄れ」
唐白は小走りで道の端に寄ると、床に額を付けて平伏した。雨桐もそれに習う。荷車を箸に寄せて平伏する。足音の大群はどんどん近づき、やがて遠ざかって行った。唐白は音でそれを確認すると立ち上がり、膝をぱんぱんと手で払った。
「よし、行くぞ」
「今の妃は西の区分か。先ほど名前が上らなかったが」
「そうだ。穏やかでお優しい方だ」
顔は見えなかったが、ここで務めて八年だという唐白が言うのならそうなのだろうと、一人でに納得していた。
「ほら、呆けてないで行くぞ」
張常在の後ろ姿を見つめていると、思い切り尻を叩かれてつんのめる。にらみを利かせると、楽しそうに唐白はゲラゲラと笑った。
梅春宮の門はかなり豪華絢爛な雰囲気を醸し出していた。赤い門から覗く中には一面に植えられた花畑や池が見える。門の外から雨桐がゴクリと喉を鳴らしていると、可愛らしい紺の生地に花の刺繍をあしらった女官服をまとった少女が現れた。歳の頃は雨桐と同じくらいであろう。勝気な大きなつり目に眉を吊り上げて、ドスドスと足音がしそうなくらい尊大な態度で門を潜って出てきた。
「何か用?」
「奴才、厠の回収に参りました」
唐白が手のひらを顔の前で重ねて頭を下げると、女官は一瞬蔑んだような目つきをした後、「入りなさい」と促した。
肥溜めは宮の奥の倉庫にあり、それを桶で掬っては壺に移す。強烈な臭いに思わず「うっ」と声を上げると、先ほどの女官にキッと睨まれた。唐白は「顔に出すなよ」と低く言うと、匂いなど感じていませんとでも言いたげに作業を続けた。
雨桐が桶で汲みながら鼻でもつまみたい気持ちでいると、あの女官がカツカツという足音をたてて雨桐の横に立った。何かと雨桐が顔を上げると、女官は思い切り足を振り上げて、雨桐の足を踏みつける。雨桐はあまりの痛みに思わず呻き声を口から漏らした。
「何するんだ!」
「顔に出ているのよ!」
女官はフン!と鼻を鳴らすと、盛大に足音を立てながら倉庫から出て行った。その後ろ姿はとても小さな背中なのに、どこにそんな力があるのかと雨桐はため息をついた。
「何なんだあいつは」
雨桐が呟くと、唐白はハハと笑った。
「江春月(ジャンチュンユエ)だ。皇后付きの女官で、まあ大層気が強い。見た目は小柄だし年齢も若いが、気を付けた方が良いぞ。いつも不機嫌だからな」
そこまで話していると、また春月がこちらに向かってくる不機嫌な足音が聞こえてきた。唐白は「おっと」といってニヤリと笑うと静かになった。
「いつまでかかっているのよ」
春月は倉庫に入るなり怒鳴って仁王立ちになった。あれからそんなに時間も経っていないだろうにと思いながらも雨桐が黙っていると、横で唐白が愛想笑いを浮かべて、振り返る。
「春月姑娘(グーニャン)、もう終わりますから」
姑娘とは、未婚の女性を呼ぶときに使われる。これでは嫁の貰い手も無かろうと雨桐が、内心悪態をつきながら作業を進めていると、心なしか背中の鋭い視線を突き刺さるのを感じた。
梅春宮の回収が終わり、その後の香貴妃の翡翠宮も問題なく終えた。女官の当たりはどこへいっても冷たいものであったが、宦官になるということはそういうことなのだろうと、かえって腑に落ちるような心地さえした。重くなった壺からは異臭が漂い、雨桐達の歩く周囲を、他の宦官でさえ避けているようだ。雨桐は自分でもそうするだろうからと、特に気にも留めていなかったが、唐白はちっと舌打ちをして、「誰のおかげで排泄ができると思っているんだ」などとぼやいていた。唐白は壺の荷車引きを交代してくれており、壺からの異臭にまみれて余計に腹立たしいものと見えた。
雨桐が花貴人の珠麗宮の前に着くと、その赤い門から見える庭の華美さに目を奪われた。西洋から持ち込まれたであろう見たことのない花や、澄んだ水に泳ぐ色とりどりの魚。そこで作業をする宦官や女官もみな煌びやかで見目麗しい。ここに配属になった冬雪はやはり住む世界が違う。雨桐が辺りをきょろきょろとしながら門を潜ろうとすると、門の淵に足を取られた。「あ」と気づいたときには身体が前のめりになり、二、三歩前につんのめった所で、雨桐の両手を取って受け止める影があった。こんなに異臭にまみれて不衛生な自分を誰が受け止めたのかと、顔を上げるとよく知った顔だ。左目の黒子が印象的な美丈夫は、雨桐に微笑みかけた。
「前を見ないと危ないじゃないか」
「冬雪」
今雨桐の臭いはかなり我慢ならないものであろうに、そんな様子を顔にも出さずに、雨桐の汚れた手のひらを自分の手ぬぐいで拭う。白字に刺繍のあしらわれた綺麗な手ぬぐいだ。女官にでも貰ったものなのだろう。
「よせ、汚れるぞ」
「手ぬぐいはこうやって使うものだ。綺麗にしておいたら手ぬぐいである意味がないだろう?」
雨桐はどんな顔をしていいか分からず視線を上げた。まだここに来て一日しか経っていないのに、随分と久しぶりに見る顔のように思われた。冬雪は目が合うとにこりと笑った。
「冬雪さん」
冬雪の背後から透き通るような高い声が飛んでくる。冬雪はゆっくりと振り返った。雨桐はそんな冬雪の後頭部を見つめる。
「ああ、雪梅(シュエメイ)姑娘。どうしました」
「お優しいのは結構ですけれども、あなたもしっかりお仕事なさって。娘娘(ニャンニャン)に叱られますよ」
娘娘というのは仕えてる者が主である妃に対して使う敬称だ。つまりここでは花貴人のことを指すのであろう。冬雪は眉を下げて困ったように笑った。
「ええ、戻りますとも。ただ彼は以前からの友人でして」
雪梅は冬雪の陰に隠れた雨桐に視線を向けた。雨桐も雪梅をちらりと見たが、色素の薄い美女だ。背はすらりと高く、細い目が色気を感じさせる。黒い髪をまとめ上げて結われた髪には、素朴ながらも美しい装飾で彩られていた。女官服も、先ほどであった春月とは対照的に可愛らしいものではなく、気品にあふれる控えめな印象のものだ。淡い緑を基調に、鳥と花が刺繍されたその女官服はとても彼女に良く似合っている。
雨桐がぼうっと見ていると、雪梅の表情が少しだけ曇るのが分かった。下級の宦官である以上良い顔をされたことなど無かったが、その中でも嫌悪感を最大限隠そうという気遣いを感じて、雨桐は不快には感じなかった。
「そうですか。では裏の倉庫まで案内して差し上げて」
「はい。ありがとうございます」
冬雪の表情がぱっと明るくなる。雨桐は雪梅と去っていく後ろ姿と冬雪の顔を交互に見渡していたら、後ろからゴツリと頭を小突かれた。振り向くと、顔を赤くした唐白が立っていた。
「何しているんだ、こんなに目立って!転んだ挙句に雪梅姑娘と会話まで!私でさえ数えるほどしか言葉を交わしたことがないというにっ」
唐白の気迫が首を絞められかねぬ勢いだったため、雨桐が半歩後ずさると一歩近づかれる。距離の詰め方が恐ろしく雨桐は顔を青くした。
「なんなんだっ」
「ずるいぞ!私はあの方と会話したいからこちらの東区分をとっているというにっ」
「職権乱用を堂々と公言するな!」
「ふふ」と笑う声がして振り向くと、冬雪が楽しそうに口を大きく開けて笑っていた。雨桐がわけがわからず茫然としていたが、唐白は冬雪の存在に気が付いたのか、さっと顔を赤くして縮こまった。
「もうそんなに仲が良い先輩ができているなんて羨ましいよ。はじめまして、雨桐の友人でして、この珠麗宮には昨日から仕えております。謝冬雪と申します」
冬雪が前で両手を重ねて礼をすると、唐白もはっとして礼を返す。
「唐白だ。どうぞよろしく」
唐白はそれだけいうと黙りこくってしまった。冬雪はにこりと微笑むと、「どうぞこちらへ」と中へ促した。
花貴人の計らいで香が焚かれており、倉庫の中も壺も不思議と強い臭いはしなかった。華美な生活といえばそうなのだろうが、片付ける方からすればありがたいものだ。雨桐と唐白がせっせと桶で汲んでいると、冬雪が白い腕を床に置かれた桶に伸ばす。雨桐は反射的に声を上げた。
「何してるんだ。手伝おうとしているんじゃないだろうな」
「三人でやれば早いだろう」
「手伝いはいらない。こんな臭いにまみれた妃付の宦官などいないはずだ。お前はお前の仕事をすればいい」
雨桐が少し睨んで冬雪を見ると、冬雪はすこし眉を下げて微笑んだ。そのまま少し下がると、倉庫の整理を始めた。もしかしたら傷つけてしまったのかと一瞬怯んだが、それでも冬雪に手伝ってもらうわけにはいかない。雨桐は無関心を装って作業をしていると、唐白に肘でつつかれた。唐白は声を落としてひそひそと話しかけてきた。
「お前、結構言うんだな」
「こうでもしないと手伝いかねない。あいつがここで居辛くなるような事態は避けたい」
唐白は目をぱちくりとさせたあと、納得したように頷いた。
「私たちは汚い存在だからなあ。少し会話しただけで嫌な顔されるし、まあ、そうだな。こんな綺麗な宦官にそんなことはさせられないな」
唐白のその自嘲気味な笑いには、妬みの色はなく、ただ諦めたような響きがあった。
汲み終えると、冬雪が二人分の濡れた手ぬぐいをよういしてくれていた。唐白は感激しているようで、すぐに受け取って手を拭いていた。一方で雨桐は素直に受け取れずにいた。雨桐は俯くと、ぽつりぽつりと話し出した。
「ここまでしてくれなくったっていい」
「おい、ただの手ぬぐいじゃないか。ありがたく受け取ろうじゃないか」
唐白が驚いたような顔で雨桐を見るが、雨桐は引かない。冬雪はただ静かに雨桐を見ていた。
「この手ぬぐいを用意する時間で、花貴人に何か一つできるはずだ。俺たちに気を使う前に、お前はお前のやるべきことをしてほしい」
雨桐は手ぬぐいを冬雪につき返して、冬雪の目を真っすぐに見つめた。冬雪の瞳が少しだけ揺れる。冬雪は手ぬぐいを受けらない。二人の間に静かな沈黙が流れた。
「これは君にとって迷惑かい?俺は君と離れてしまった分、会える時間には以前のように話したりしたい。疎遠になるのは寂しいものだろう」
「迷惑なんじゃない」
「ならこれくらいは素直に受け取ってくれると嬉しいんだけれど」
「俺はただ・・」
雨桐は続きを言おうとすると、唐白が困った顔をして苦笑しているのが目に入った。唐白に気を使わせてしまうのは雨桐の望むところではない。雨桐は手ぬぐいを握りしめると、冬雪につき返すように押し付けて倉庫を走り出すように後にした。
雨桐は冬雪の目的を知っている。目的を果たすためには何より出世することが大切なのだ。雨桐を気にかけてくれることは嬉しい。実家にいた時、大哥がくれたような愛情を自分にむけてくれる人はもう二度と現れないと思っていた。そして、雨桐自身も冬雪の人間らしい優しさや、行動力、頭の良さに尊敬の念を抱き、いつしか自分も冬雪を守れるようになりたいと思うようになっていた。そんな冬雪の足かせにはなりたくない。目標に近道があるのなら、周りなど省みずに走り抜けてほしい。そして雨桐もその先の未来を望んでいるのだ。
珠麗宮を駆け足に出て、門の外で壁に背を預けて座り込む。顔を腕の中に埋めると、自分の口下手さに嫌悪感が押し寄せた。冬雪をただ傷つけるだけで、何も伝わらなかった。その事実がただただ悔しい。背中から伝わる冷たい温度にさえも苛立って、「くそっ」と小声で吐き捨てた。
「何をしている?」
突然、凛とした声が頭上から降り注いだ。雨桐が顔を上げると、最初に視界に入ったのは燃えるような赤い唇だった。全身を高価そうな厚手の漆黒の生地に派手な神話生物のような鳥の刺繍を施した皇族の服を纏っている。髪には金色の花の髪飾りを幾つも付けており、その横に立っているのは雪梅だ。長い睫毛から力強い瞳が覗く目で見つめられると、どうにも動けない。雨桐はそれが花貴人であることを察してしまった。
倉庫に残された唐白は「あー」と言いながら頬を掻いた。雨桐は突然飛び出して行ってしまったし、冬雪も黙りこくって手ぬぐいを握りしめている。二人が以前から知古のような仲であったのであろうことは会話から薄々察せられたが、雨桐が何かむきになっている。物静かな新入りだと思っていた唐白には、雨桐にこのように頑固な一面があることが意外に思われた。冬雪の過保護ぶりは何となく察せられてしまったが、あそこまで拒否するのも可笑しなものだ。
(参ったな)
そもそも唐白は皮肉屋なところはあるものの、根っからの平和主義者だ。こういう空気は苦手なのである。明らかに落ち込んでいる冬雪に何か言葉を、と思うのだが。
「災難だったなあ」
「いえ、気を使わせてしまって申し訳ありません」
冬雪は困ったように笑うと、「洗濯しますね」と言って唐白の手ぬぐいを受け取ると、そのまま背を向けた。唐白は倉庫を出ていこうとする冬雪の後ろ姿に届くように声を張り上げる。
「あいつもきっと今頃自己嫌悪中だ、ざまあみろだな!」
あまりの大声に驚いたのか冬雪は目を丸くして振り返ると、眉を下げて可笑しそうに小さく笑った。
唐白が外に出ようと倉庫から門に向かって壺を引いていると、門から花貴人が雪梅に手を支えられて優雅に入ってくるのが見えた。花貴人は何かおかしなことでもあったのか、笑いを堪え切れずに口を袖で隠して体を揺らしている。唐白が跪いて礼をすると、ちらりとみた花貴人が口を開いた。
「外で猫の様な奴が待っておるぞ。早く行ってやれ」
唐白が大急ぎで門の外に出ると、雨桐は外で立ち尽くしていた。見たところ怪我などはないようだが、どうにも力が抜けている。「おい」と唐白が体をゆすると、目だけが動いてこちらを見た。
あれは一瞬のことだった。雨桐は花貴人だとわかり、跪こうとするとそっと手のひらを取って「礼はよい」と止められた。宦官仲間でさえ触るのを躊躇う下級宦官の手に何のためらいもなく触れる花貴人に驚いて顔を上げてしまった。しかし花貴人は咎めることもなく微笑んだ。
「具合でも悪いのであろう」
花貴人の微笑む姿は何とも言えない妖艶さがあり、雨桐はさっと俯いた。
「いえ、奴才は自身の行動を反省しておりました」
雨桐が言うと、花貴人は可笑しそうに笑った。
「ほう、誰に罰せられたのだ。誰かにここで立って反省するように言いつけられたのであろう」
「誰に?いえ、自分ですが」
「自分に?感心な奴だ。ここではそんな奴は見たことが無いぞ」
「いえ、感心など・・。反省は強制されるものではなく、自分で行うものと存じます」
雨桐はよくわからず首を傾げると、花貴人は雨桐の手をとったまま声を上げて笑った。
「あはははっ違いない!反省は自らするものであろうな」
しばらく笑われ続けた後、花貴人は雨桐の手をぎゅっと握った。雪梅は横から「娘娘、その者は・・」と声を掛けようとしたが、「構わぬ」という一言で静止された。
「お前の目は猫のように可愛いな。目つきこそ悪いが、大きくて愛嬌がある。また遊びにおいで」
花貴人はそういうと、華やかな香りだけを残して門の中に消えていった。
そのことを唐白に告げると、唐白はあんぐりと口を開けた。雨桐はどうにも動けなくなってその場に立ち尽くしていたのだ。
「お前が、あの方の御眼鏡にかなってしまったのか」
「何のことだ」
「あの方はもっとこう、分かり易い美形がお好きなものと思っていたが」
ぶつぶつと口の中で何かを唱えている唐白の顔を覗き込む。唐白は難しい難問を解くかのように唸っていたが、突然顔をばっと上げると「まあいい」と独り言ちでどんどんと先へ歩いて行ってしまった。雨桐は残された荷車を慌てて引いて、唐白の後ろを追いかけた。
一回りした後は鈴風と孫蓮に合流して、後宮宦官と女官の厠の汲み取りを行った。一通り終えるころには身体も疲れ果てており、身体の汚れを落とし、食堂で夕飯の饅頭を食べると、身体はもう鉛のように重くなった。
宿舎に戻るなり横になると、瞼がくっつきそうな程の気だるさに襲われる。雨桐はうとうとと意識を手放しそうになっていると、頭上から唐白の声が降ってきた。
「どうだ、新入り。疲れているだろう」
「思ったよりも疲れる」
「慣れれば楽なものさ。臭いに耐えられればな」
唐白はそういうと雨桐の横で寝ころんだ。頭を動かすのも気怠く、視線だけで部屋を見渡す。鈴風は相変わらずマメなことに部屋の掃除をしているようで、雑巾で壁を拭く姿が唐白越しに見えた。孫蓮は座って目を閉じている。寝ているのかもしれなかった。
「お疲れ様でした。慣れないことは疲れますよね」
鈴風の背中を見ていたら急に話しかけられたため、どきりとした。鈴風は唐白との会話を聞いていたのだろう。顔だけをこちらに向けてにこりと微笑んだ。孫蓮ももともと細い目を少しだけ開けて顔を上げた。
「特に東回りは大変だと思います。皇后娘娘もいらっしゃいますし、煌びやかな方が多いですからね。気疲れもあるでしょう」
「鈴風はすごいな。仕事の後にそんな風に掃除もできるなんて」
鈴風は雑巾を絞る手を少し止めてきょとんとしたが、「いいえ」といいながら首を振る。
「慣れですよ」
「こいつのおかげで私たちの住処は綺麗に保たれているんだ。頭が上がらんよ」
唐白はそう言いながら大きな欠伸をした。雨桐は重い身体を無理やり起き上がらせる。ぼうっとする頭をなんとか働かせて、鈴風の方へ歩いていく。鈴風は首を傾げて雨桐を見た。
「手伝う」
鈴風は驚いたように目を丸くして、その後噴き出すように小さく笑った。
「ありがとうございます。明日からお願いします。今日はもう疲れたでしょう」
鈴風はゆっくりと雨桐の背を押して布団の方まで連れていく。雨桐は何だか情けなく感じられた。
「鈴風はこう見えて大先輩なんだぞ。三年前の宦官解雇事件の前からいるんだ」
唐白からの思わぬ話に雨桐は眠気が覚める心地がした。肩越しに鈴風を見るが、俯いていて顔が良く見えない。
「先帝の時代からか」
雨桐の感情の機微を察したのか鈴風の表情が少しだけ固くなる。
「ええ、僕は幸いにも解雇の対象にはなりませんでしたから、今でもこうして働かせて頂いています」
「その時からこの厠汲みの仕事なのか」
「いいえ、色々な仕事をしましたよ。ただ、あれから人手不足に見舞われて、僕がここの仕事を引き受けたんです」
鈴風は瞼を少し伏せて、どこか遠くを見ているようだ。雨桐は鈴風のこの落ち着いた雰囲気と、細やかな気配りは経験によるところもあるのかと知ると腑に落ちた。
雨桐は「現帝は戦を起こすつもりだというのは本当なのか」と尋ねようとして言葉を飲んだ。鈴風が以前、先帝や即位前の現帝と距離の近い仕事をしていたとは限らないし、彼の性格上、知っていても答えるとは思えない。
(急にこんなことを聞いても、怪しまれる)
雨桐は返事に困り、「そうか。何かあったら頼りにさせてくれ、先輩」と言うと、鈴風は「こちらこそ」といって眉を下げて微笑んだ。
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