第3話 旅立ち

「よし、尿道も通ってるね。これで大丈夫だろう」

 浄身から数日後、そう言いながら冬雪は一杯の水を差し出した。もはや喉の乾く感覚さえなくなっていたのだが、受け取って口に含むと美味しさのあまり涙が出そうになる。

「今日は少しだけご飯も食べてみようか。それから明日は散歩もしてみよう」

「散歩?」

「そうだよ、歩く感覚とか尿道が短くなったぶん、歩くと尿が出やすくなったりするから練習するんだ。まさか宮廷で粗相するわけにもいかないだろう?」

「・・・」

 それもそうかと雨桐はため息をついた。冬雪が「何が食べたい?」と微笑む。その気遣いがありがたい。

「饅頭」

「いいよ、作ってあげる」

 冬雪が軽い足取りで厨房に出ていく後ろ姿を見つめて雨桐も小さく笑った。ここ数日は痛みで寒さを感じていなかったが、かなり気温は低くなっている。せっかく自由に歩けるようになったのだから、冬雪の手伝いでもしようと立ち上がると、下腹部にかすかな痛みと違和感を覚えた。上手くバランスを取ろうとするとどうしても前かがみになってしまう。

(なんだ・・?)

 そのまま前かがみに歩いて厨房まで出ると、その様子を見た冬雪が手を止めて駆けつけてきた。

「どうしたの、具合が悪いのかい」

「違う、暇だから手伝おうと思った」

 目をぱちくりとさせた後、あははと声を上げて冬雪は笑った。

「ありがとう。でもここまで歩くのにも大変だっただろう」

「別に大変ってことはない。違和感があって歩きづらいだけだ」

 雨桐が不服そうに眉間に皺をよせると冬雪は「わかるわかる」と言いたげに頷いた。

「最初は大変なんだ。歩き方が癖にならない様に練習したほうがいい。今日は座っててと言いたいところだけど、でもせっかくの申し出だからお願いしようか」

 そういうと大きな器に小麦粉と水を入れたものを「はいこれ」と渡してきた。雨桐がそれなりに回復したからか、いつもより少しだけ饒舌で嬉しそうな冬雪を見ると雨桐も嬉しい気がした。


 二人で饅頭を頬張っていると雨桐はふと視線を感じて顔を上げる。まじまじと雨桐の顔を眺めていた冬雪と視線がぶつかるが、相手は逸らす素振りもない。

「どうした」

 雨桐が首を傾げると「ううん」といって冬雪は笑った。

「ほっとしているんだ。なんとか君がこうして回復してくれたから」

「そうか。お前には世話になりっぱなしだ」

「この間も言ったけれど、本当にそんなことはないんだよ」

 冬雪は最後の一口を口に放り込むともぐもぐと大げさに口を動かした。

「ただ嬉しいだけさ」

 今度は雨桐が冬雪を見つめる番だった。冬雪は雨桐の視線に気が付かない様なふりをして後片付けに向かった。

 冬雪は端正な顔立ちをしている。年齢もそう変わらないだろうが、なんとなく大人びて見える。体格もすらりとしていて雨桐より身長も高い。言動も大人びていると思うが突然こんな風に子どもの様な事を言う。雨桐には冬雪のような性格の男が大層不思議に映った。

 一方雨桐は末っ子として育ったからか、人より幼いところがあると自分でもよくわかっていた。あの日の夜雨桐がいて良かったと冬雪は言ったが、果たして本当に良かったのかというのは些か疑問だ。自分のことが嫌いなわけでも卑下しているわけでもないが、客観的に見てそう思ったのだ。どう考えても助けられているのは雨桐なのである。

 ぼんやり考えこみながら空になっていた器を抱えて厨房に行くと、「洗うから置いておいて」と冬雪の声が飛んできた。

「いい、これくらい洗う」

「そうかい?」

 雨桐が断ると困ったようにに冬雪は苦笑した。洗いながら雨桐は横目で冬雪を観察した。冬雪は忙しく動き回っている。ここ数日で雨桐使った布の洗濯や始末をしているようだ。自分が汚したものを人に洗濯されるというのは何とも気恥ずかしい。

「それも俺がやる」

「何だい、今日は変に遠慮するなあ」

「お前が変に気を遣うからだろ」

 可笑しそうに笑う冬雪の横顔に声を飛ばすが、どこ吹く風といった様子でへらへらと笑う。

「まだ君は怪我人も同然なんだからゆっくりしていなよ。試験までもまだ数日はあるのだし、焦らなくたって平気だよ」

「焦っているわけじゃあ・・・」

 そこまで言いかけて雨桐は思わず黙り込んだ。思い当たる節がないわけではない。

(俺は焦っているのか?)

 あんなに嫌だった宦官になる道を目指すようになって、後戻りもできないように浄身もしてしまった。自分はもう子孫を残す機能もない。もし宦官になれなかったら?そのような焦りが自分にないとは言い切れないと雨桐は下唇を噛む。

 それを横目で見てた冬雪は笑顔を張り付けたような顔で笑った。こういう顔をする時、もともと飄々としてはいるものの、いつもより冬雪の考えていることが読めなくなると雨桐は思う。

「ほらほら、行った行った。ここは変な気遣いの達人の俺にまかせなよ」

「・・・お前結構根に持つ性格だろ」

 半ば背中を押されるようにして部屋を後にした雨桐は、綺麗な布に変えられていた寝台にごろんと横になる。横になるとすぐに睡魔が襲ってくる。やはりまだ体調が回復しきっていないのだろう。そのまま瞼はゆっくりと下りていった。


 目を覚ますと辺りは赤く染まっていた。どうやら昼過ぎからずっと眠っていたらしい。雨雪がゆっくり上体を起こすと窓辺の椅子に腰かけて外を眺めている冬雪が目に入る。その端正な横顔に夕日が差し込んで赤く染めている。当の本人は何を考えているのやら、どこか遠くを見ているような顔をしていた。

「何を考えてる」

 雨桐が声を掛けると、はたと気づいたようにこちらを見た。そのままいつものにっこりとした顔を作る。

「うーん、何かな」

 誤魔化しているというよりは困っているような語調に、雨桐はそれ以上追及するのをやめた。聞いたところで答えてもくれないだろう。

「お腹空いた?何か作ろうか」

「いい。それより体力をつけたい」

「明日からでいいじゃないか。身体が疲れているところに無理はしないほうがいい」

 冬雪は視線を窓に戻す。また少しだけ遠い眼差しで雨桐に尋ねた。

「君は兄妹はいるかい」

 雨桐は突然なんだと眉をひそめたが、別に隠すことでもないと口を開いた。

「いるよ、うちは俺を含めて八人だ」

「八人!それはすごいな、大家族だ」

 冬雪は驚いたように雨桐に視線を戻すと「君は何番目?」と興味津々といった様子で尋ねる。しかし雨雪が答えるより早くに「まって!」と制止された。

「やっぱり当ててみせるよ。君は末っ子だろう」

「何故そう思う」

 雨桐が尋ねるとわざとらしくゴホンとせきをしてみせる。

「俺の推理はこうだ。まず第一に君のそのブレない芯の強さは末っ子にしかない。良く言えば自分をもっている、悪く言えば他人に合わせることができない」

「嫌味か?」

 そこまで聞いただけでもため息をつきたくなるほど頭にきたが、まだ続きがあると言った風に微笑む冬雪を制止することも面倒で大人しく口をつぐんだ。

「第二にからかわれ慣れている感じがするね。俺が色々軽口を言ったって眉をしかめるだけで、気に留めないだろう。末っ子はからかわれることも多いだろうからね」

「気に留めないとわかっているのなら、やめてもらいたいが」

「第三に君は愛されてきた感じがするよ。なんというか、気持ちの面で」

「・・それはどうかな」

 思わず皮肉気に雨桐は鼻で笑う。宦官になることを実の親に唯一勧められた自分が愛されていたとは思い難い。そんな様子を冬雪は目をぱちくりとさせて見ていたが、そのままにこりと微笑んだ。

「で、当たってる?」

「結果だけ言うなら当たっているな。俺は末っ子だ」

「へえ、俺は一人っ子だから羨ましい。どんな兄弟がいるの?哥哥(お兄さん)?それとも姐姐(お姉さん)?」

「うちは男しかいない」

「じゃあ哥哥が七人も!それは賑やかそうだ」

「賑やかというか・・」

 兄弟のいない冬雪からすると八人兄弟というのは未知の人種なのだろうが、現実は奴の思い描くほど優しいものではないと雨桐はため息を落とす。

「殴られる蹴られるは日常茶飯事だし、飯も取り合いだ」

「そういう時ってやり返すの?」

「まさか。身を守ることはあってもやり返しはしない。したところで勝てるわけもないからな」

「なるほどね。君がそういう性格になった理由もわかる気がする」

 意味深なことを言って楽しそうに微笑む冬雪を見て再び小さく溜息をつく。その顔からは悪意は感じられない。

「可愛がってくれる人はいなかったの?」

「・・・いや、いた」

「へえ、なんだ。いるんじゃないか」

 にこにこと笑う冬雪から目を逸らす。夕日も沈んできて雨桐の顔に影が落ちる。

「一番上の哥哥だ。優しくて穏やかで、どの兄弟も大哥が大好きだった」

「自慢の哥哥なんだね」

「・・・そうだな」

 何となく喧嘩別れして出てきたのだとは雨桐には言えなかった。少しだけ大哥に似た雰囲気を持つ冬雪にそんな話をしたら、自分の甘えている部分が全部露見してしまうのではないかと不安になる。しかし、ふと雨桐は頭に疑問が浮かんで顔を上げた。

「お前は寂しいと思うことがあったのか」

「え?」

「そんなことを聞いてくるんだから、お前は一人っ子が寂しかったのかと思った」

 不思議そうに数回瞬きをした後、冬雪はふふと可笑しそうに笑った。

「そうだね、俺はご飯を取り合ったこともなければ殴られたことも、蹴られたこともない。で遊ぶ相手もいなかった。だから余計に従妹は可愛くってね」

「前に言っていた従妹か」

「そうだよ」

 冬雪は端正な顔に張り付けたような笑顔を浮かべた。冬雪がたまに見せるその表情は雨桐に居心地の悪さを感じさせた。目をそらしたくてそっと視線を落としたが、本人は気に留めていない様に話を続けた。

「時々、不安になるんだ」

 いつもより低く響く冬雪の声に雨桐は顔を上げる。先ほどまで赤くその横顔を照らしていた光は西の空へと沈みつつある。ほの暗い横顔と張り付いた笑顔からはその気持ちを汲み取ることは難しい。

「俺たちがやっていること、やろうとしていること、全部不安になる」

「・・・前にも怖いと言っていたな」

 雨桐は浄身手術前に抱きしめられた時のことを思い出した。自分より大人びて見えるこの男は存外怖がりなのだと雨桐は思った。

 雨桐が思ったことを口にすると冬雪はおかしそうに笑った。

「そうだよ、俺は怖がりなんだ」

「でも成功させなきゃならないんだろ」

 冬雪はぴたりと笑うのをやめた。しばらく二人の間に沈黙が流れる。その瞳の奥には今度ははっきりと力強さが見て取れた。冬雪は目を伏せるとふっと微笑む。

「うん。命に代えても」

 その声は静かであったが確かに真っすぐ部屋に響く。雨桐はそれに無言で頷いた。夜は静かに更けていく。暗くなったその部屋に、二人はただ並んで黙っていた。


 翌日から体力を戻す訓練が始まった。朝早く鶏の鳴き声と共に起床して、二人で朝食を摂る。その後街に出てひたすら歩き回る。昼食を摂ったら少し休憩をとってまた歩く。ただ歩いているだけのように思われるが、案外これが今の雨桐には難しく感ぜられた。

 まず浄身してから身体の平衡感覚が大きく変わった。どうしても前かがみになってしまう。姿勢を正したまま歩く訓練なのである。その次に排泄が難しい。物理的に尿道が短くなったこともあり、うっかり排泄が失敗してしまうことがある。歩いている途中で失敗することが雨桐にはたまらなく屈辱的であったが、冬雪は「俺もそうだったよ」と慰めの言葉をかけてくれた。

 そんな日課をこなすと夜には脚が棒のようになっていた。

「水、飲むかい?」

「ああ」

 一日の終わりに部屋で仰向けになっていると、冬雪が廊下の格子窓から顔を覗かせた。雨雪の気だるげな返事を聞くといそいそと部屋の中へ入ってくる。本来酒を注ぐであろう紅い杯になみなみと注がれた水は透き通っていて思わず喉が鳴った。

「この水綺麗だろう。この部屋の裏から湧いていてさ、今朝気が付いたんだ」

 冬雪の得意げな声を気持ち半分に聞き流しながら、喉へは水を流し込んだ。疲れた身体を一瞬で癒すような喉ごしに雨桐はため息をついた。

「うまい」

「そうだろ、頑張った後には沁みるよね」

 冬雪は整った顔をくしゃりと歪ませて笑った。笑うとやはり少しだけ大哥に似ている。まじまじと見ると冬雪は小首を傾げた。何となく気まずさを感じて雨桐は顔を逸らす。冬雪は目を丸くして暫く呆けていたが、いつもの調子でにこりと笑うと話題を変えた。

「そういえば旻の城へは行ったことがあるかい」

「いや、ここへ来たときに遠くに見えたくらいだ」

 雨桐が飲み干した杯を桌子の上に置く。冬雪は長く艶やかな髪の毛先を指先で弄びながら何やら思案しているような素振りを見せた。

「宦官の募集の日まであと三日まできている。一度見に行ってみてもいいかもしれないな」

「何をしに?」

「君が怖気づかないかどうか確かめるためさ。可愛い君のことだ、あまりに煌びやかな城に帰りたくなるかもしれないだろう」

 からかうようににこりと笑う顔に蹴りを入れようと勢いを付けた足を、白い腕に掴まれる。

「待て待て、この顔に何をするんだい」

「その顔がそんなに惜しいのか」

「惜しいとも。宦官で取り立てられるためには美貌も大事と聞くからね」

 雨桐の足を掴んだまま得意げに微笑する冬雪はさらに腹立たしい。

「自覚のあるやつは尊大な態度で困る」

 ゆっくり足を下ろすと冬雪の白い手の平もそっと離れた。

「君とて悪くない見目だろうに」

「興味がないな、それにさして良くもない」

 雨桐はそっと窓から外へ視線を写した。興味がないといったものの、どちらかといえば雨桐は自分の容姿に劣等感を抱いている。あまり高くはない身長も、猫のようだとからかわれたつり目がちな大きな目も、黒くバサバサと固い毛質も、すべて好きではない。

「えー、俺は悪くないと思うけどね」

「何を気色の悪いことを」

「あっひどいな」

 雨桐が目を細めて冬雪を見ると、からっとした楽しそうな笑い声をあげた。


 次の日は軽い旅支度を整えて、朝一で間貸りしている廃墟を出た。城下町まではさほど離れていないが、旻の城下町は昼頃にはよく混雑する。朝のうちに見て帰ってこようというのが二人の考えであった。

 城下町に近づくにつれてどんどん町が栄えてく風景は見ていて面白い。産まれた村ではどこへ行っても枯れた土地と深刻な飢えを感じるばかりで、いつしか顔を上げて歩くことを忘れていたのだと気が付いた。通りすがりに現れる店はどれも綺麗に飾られており、清潔感が漂う。それも故郷にはない景色であった。

「珍しいかい」

 冬雪が横目に尋ねてくることに素直に頷くと、冬雪はアハハと笑った。

「俺も結構新鮮な気持ちだ」

「お前の町はそこそこ栄えていただろうに」

「人の顔つきが違うのさ。俺の町はもっとギラギラとしているよ。商人の町だから、客や獲物は逃すまいとしているからさ」

「ここはどう感じるんだ」

「ここはそうだなあ、もっと自尊心を感じるかなあ。ここは都だ、客は俺たちが選ぶ、みたいな。上手く言えないんだけど」

「そうか、何となくわかる気がする」

 町を行く人たちの表情は明るく、力強い。治安が荒れていると聞く今でさえ、この明るさなのは皇帝を頂きに置く都だからなのか、朝廷の統治の手腕なのか。

「ほら、あれが城だ」

 冬雪が指さす方に顔を向けると、高くそびえたつ赤い壁の向こうにそれを望むことができた。赤を基調とした壁面や屋根にところどころ黄色で細かな龍や玉の様な装飾が施されている屋根に、太陽を反射して黄金のように輝く柱、壁に隠されて上部しか見られないにも関わらず、この造りは壮観である。

「あの塀の向こうはどうなっているんだろうな」

 感嘆ともとれるようなため息交じりの声が出たことに自分でも驚いだが、横を見ると冬雪も顔を紅潮させている。

「全ては二日後にわかるさ」

 その返事から冬雪にもわからないことがあるのかと雨桐は一人でに驚いた。しばらく二人で城を眺めていると、徐々に人通りも増えていたのだろう。城下町を行きかう人々に肩をぶつけられて我に返った。

「人が多くなってきたね」

「帰るか」

「せっかく町まで来たんだし、何か食べていかないか」

 何か食べていかないかもなにも、雨桐は路銀を持たない。ここに来てからの生活はすべて冬雪の懐に支えられている。

「お前の判断に従う」

「じゃあ決まりだ!さっき前を通ったときに美味しそうな匂いがするお店があったんだ」

 弾むように踵を返した冬雪の背中を雨桐はゆっくりと追いかけた。


 翌日は翌日の宦官の試験に備えて支度を整えた。支度とはいっても特に持ち物もないものであるから、少しまともな衣服を新調する程度のことであったが、そこでもまた冬雪の路銀に頼るところとなった。雨桐が礼を言うと、冬雪はやめてくれと苦笑した。


 試験の当日は都では今年初めての雪が降った。朝、寝床から這い出すとひんやりとした空気が肌を突き刺して、ぶるりと身震いをした。窓から外を見やれば空からチラチラと白い粉雪が舞っていた。

(都にも雪が降るんだな)

 雨桐がぼうっと雪が降る様子を眺めていると、廊下側の窓から冬雪に声を掛けられた。

「起きたのかい、髪を整えてあげるから俺の部屋へおいでよ」

 雨桐は寝起きの頭を活動させるまでに少し時間を要するため、返事を口に出すまでに間が開いた。

「髪?」

「いつもよりは少しだけ綺麗に梳かした方がいいだろう?ほら、来なよ」

 雨桐は寝起きでまだ重い腰を浮かせて部屋をあとにした。そんな状態であったのに渡り廊下に出ると外気の冷たさで眠気はどこかへ連れていかれたようだった。

久しぶりに入る冬雪の部屋は初めてここへ来た日と同様に片付いている。無駄なものはなく、質素で落ち着いた様子だ。冬雪が雨桐の部屋に訪ねてくることは多かったものの、雨桐はよほどのことが無い限り訪ねたりはしなかった。特に理由があったわけではないが、訪ねる理由がなかったのだ。

 部屋に入ると椅子に座るように促された。大人しく座ると冬雪は背後に回り、優しい手つきで雨桐の髪を撫でる。

「今日は大人しいものだね」

「人を猫か何かのように言うな」

「ふふ、ごめんごめん」

 櫛を通す手つきは優しく、普段自分で梳かすときにはただ絡まって痛いだけの髪が、嘘のように伸びることが不思議に思われた。

 やがてじっとしていると、ほつれない様に一つに髪を結い上げたばかりの腕が雨桐の肩におかれた。

「できた」

 にこりと笑う冬雪を鏡越しに見て、自分の顔を見ると少し驚くものがあった。故郷をでてから鏡など見る機会があまりなかったが、こちらに来て少しだけ肉付きが良くなった。食べ物に困らなくなったためだろうが、こけていた頬も少しだけふっくらとした気がする。これでもまだ痩せている部類のことは間違いないのだろうが少しだけ気持ちが弾むように思われた。また髪が綺麗に結われたためか、貧民の出の面影は薄れているような気がした。

「お前のおかげだな」

「ん、何だい、何の話をしているの」

「いや、お前には世話になったと思っただけだ」

 冬雪は笑いを堪え切れないといったように噴出した。

「お別れのような言い方はやめてくれよ、まだまだこれからもよろしく頼むよ」

 その笑う横顔に少しだけ照れたような色が差した瞬間を雨桐はぼんやりと見つめていた。


 二人が城下町へ向かうと、同じく試験を受けに来たと思われる官服ではない人間が城の門をぞろぞろと潜っていた。一度見たことはあると言えども、何度見てもその城の佇まいは壮観であり、言葉失わせる。前回は呆けていた冬雪は今日はそんな顔は見せずに少しだけ緊張した面持ちであった。

 雨桐は人の流れに沿って門を潜ろうとすると、前の人間の背中に顔を強くぶつけてしまった。何が起きたのか分からず、鼻を押さえて見上げたところで、前の男が突然立ち止まったのだと気が付いた。冬雪が「大丈夫かい」と心配げに見てきた視線に片手を上げて返事をする。前の男の後ろ姿を睨みつけると、男はゆっくり振り返った。

「危ないじゃないか」

 雨桐がむっとしたような響きをはらんだ声を上げると、男と目があった。冬雪よりも拳一つ分大きい身長は雨桐と比べれば拳三つ分ほども大きい。男の年齢は雨桐よりも少しだけ上に見受けられる。ぱちりとした二重の瞳と視線がかちあった。男は睨みに対して何の感情も抱いていないかのようにニカリと笑う。

「悪い、城に見とれてた」

 あまりにあっけらかんと笑うその姿に、雨桐は毒気を抜かれた。呆気に取られて二の句が次げなくなった雨桐の顔の前で男は手のひらを振る。

「おうい、大丈夫か?」

「・・あぁ、お前も宦官の試験を受けるのか」

 イメージしていた宦官の印象とあまりにかけ離れた男の雰囲気に、実は間違えて城に入り込んでしまったのではないかと思った。

「あぁ、そうだ。アンタは違うのか」

「いや、俺も受けに来た」

「じゃあ一緒だな。俺は李雲(リユン)。お前は?」

「王雨桐だ」

「そっか。また後で会うかもな。その時はよろしくな」

 男はそれだけ言うと、またニカリと笑って今度は大股で歩いて行った。

 雨桐は意外にもずっと黙っていた冬雪に視線を向けると、無表情に李雲の後ろ姿を見つめていた。雨桐の視線に気が付くとにこりと微笑みかけてくる。

「どうかしたのか」

「どうしてだい?」

「会話に入ってこなかった」

「君とあの男との会話だろう?俺がわざわざ入ることもないからなあ」

「まあ、そうなんだが・・」

「早く行こうよ、遅刻は洒落にならない」

 冬雪はふふと笑いかけると先を歩いていく。雨桐はその背中を追いかけた。

 門を潜り終えると、最初の広場に沢山の受験者が集まっている。人ごみを掻き分けていくと、初老の官吏が中心に立っていた。二品の官吏の証を胸に戴いたその身体は傍から見ても引き締まっている。顔つきも初老とはいえどもまだまだ衰えは見せまいという気迫を感じる。

「宦官の試験にあたる者はこちらで試験の手続きを行う!」

 その男が低く大きな一声を発すると、その場の空気が変わった。

「俺たちも行こう」

 冬雪もいつもより声を低くさせて呟いた。雨桐は冬雪のあとに続いた。

若い官吏に生まれと年齢、氏名を伝える。その後は軽い問答を行って、最後に厳しい身体検査があった。きちんと浄身されているかを見る官吏や宦官の目つきは鋭く、官吏の視線のは侮蔑するような鈍い光をはらんでいる。この試験を行う間も宦官候補者に対する官吏の態度は冷たく、宦官というものがどういう扱いなのかが見て取れた。

一通り検査を終えて広場に戻ると、朝も広場にいた初老の官吏に呼び止められた。

「氏名、生まれは?」

「王雨桐。生まれは珀との国境付近の農村地域です」

「ああ、お前は合格だ」

 突然合格を告げられて動揺したが、どうやら顔には現れなかったらしい。

「冷静だな」

 その言葉に返す言葉が思いつかず、ただ見つめ返した。雨桐だけではないらしく、帰りには結果を広場にいる官吏にそれぞれ伝えられているようで、周囲には色々な声が飛び交っている。初老の男はふっと笑い雨桐に背を向けて歩き出した。雨桐は人ごみにその背中が消えるまでその背中から目が離せなかった。

 そこから暫く立ち尽くしていると冬雪に肩を叩かれた。その表情は少しだけ固く、心配そうな色を浮かべている。

「やあ、どうだった」

「合格だ。お前は」

「・・そう、よかった。俺はもちろん合格さ!」

 雨桐の返事を聞いて、すっかりいつもの調子に戻った冬雪に微笑んで視線を返していると、再び肩を叩かれた。明らかに冬雪より力強い叩き方に「痛っ」と声が漏れる。恨めし気に顔を上げると、やはり想像していた通りの姿があった。

「よう、雨桐。試験どうだった」

「・・・合格だ」

「俺も合格だ。合格者はあそこで説明があるみたいだぜ。お前たち行かねえの?」

 李雲の指差すほうに視線を向けると、門の付近に人が集まっている。冬雪に視線を送ると「俺たちも行こうか」と呟いた。

 

  入口では明日から仕事が始まるということと、住み込みになるということ、持ち込んではいけないものなどの説明がされた。細かい規則などは入ってから先輩宦官に聞かなければならないらしい。説明を一通り聞くと、「今日はさっさと城を出るように」と強い口調で勧告された。

「あんな口調で言うことないのにな」

 李雲がぼやくように愚痴るのを、冬雪は冷ややかな目線で咎めた。

「そんなこと口に出すなよ。命がいくらあっても足りないぞ」

 李雲は虚を突かれたように目を丸くする。

「ええとお・・」

 李雲が困ったように頬を掻く。恐らく名前が分からずに困っているのだろう。

「冬雪だ」

 雨桐が口をはさむと「ありがとな」と手を振って李雲は明るく笑った。

「冬雪はむかつかなかったのかよ、あんな言い方されたり、検査の時あんな態度とられたりしてさ」

「頭にくるも何もないさ。そんなことでいちいち腹を立ててたんじゃ、明日から働くなんて到底できっこないよ」

「ふーん」

 李雲は納得いかないように唇を尖らせた。

「で、君はどこまでついてくるんだい。俺たちは帰るところなんだ」

「実はさ、俺生まれが遠くてさ、近くに夜を越せるところがなくって」

「そうなのか」

 雨桐が聞き返すと李雲は眉を下げて苦笑した。

「だから悪いんだが、泊めてくんねぇかな」

「俺は構わないが・・」

 横目で冬雪を見ると、冬雪は盛大にため息をついた。

 雨桐は拠点に借りていた空き家に着くと、自分の部屋へ李雲を案内した。冬雪が空き家までの道中、「汚すな」「騒ぐな」と李雲に説教染みたことつらつらと口から漏らしている様子を見て、雨桐は自分の部屋に泊めることを決めた。基本的に人当たりのいい冬雪が李雲には厳しいことが不思議でならない。

「ここって空き家だったんだろ。明日までに片付けとかするなら手伝わせてくれよ」

 李雲は部屋に着くなり、そんなことを提案し出した。雨桐は居心地の悪さから眉間に皺が寄る。

「気を遣うな。明日から一緒に過ごす身だ」

 李雲はハハと笑い声をあげると、気恥ずかしそうに後頭部を掻いた。

「そんなんじゃないって。気を使っているんじゃなくて、感謝の気持ちって言ってくれよ」

 李雲がまっすぐに雨桐を見つめる。雨桐は李雲の言葉に驚いて見つめ返した。

「お前はすごいな」

「え、何が」

「お前みたいなやつは初めて見た」

「そんな変なこと言ったかな」

 李雲は考えるように顎に手を当てて首を傾げた。雨桐は李雲を見つめたまま続ける。

「すごく前向きだ」

「ああ、なるほどな。よく言われるよ」

 納得した、と言いながらニカリと笑う李雲を雨桐は不思議な心地で見つめていた。故郷にいる兄弟のような飢えを感じさせる線の細さと陰りも無く、冬雪のような品と知性を感じさせるような美丈夫さとも違う。背が高く、細身に見えるががっしりと健康的な体躯は、雨桐が見てきた誰とも違う風通しの良い好青年の健康さを感じさせた。

「お前はなんだか猫みたいだな」

「・・・よく言われる」

「おっ、複雑そうだな」

「男が言われて嬉しい言葉じゃあないな」

「拗ねるなよ、親しみやすいってことだ!」

 雨桐がふんと視線を逸らすと、肩にずしりと重みを感じた。予想外の重みに前につんのめる。何かと横を見ると李雲の顔がすぐそこにあった。肩を組まれていると気が付くまでに数秒を要した。

「離せ、重い!」

 肩を組まれている方の肩を大きく回すと、「ハイハイ」といった調子でようやく身体を離す。はあとため息をついて振り返ると、腕組をした冬雪が怪訝そうな顔をして部屋の入口に肩を預けて立っていた。

「何をしてるんだい、君たちは」

「仲を深めているってところだな」

 冬雪はこめかみを指先で揉む仕草を見せた。

「まあいいだろう。それより夕餉はどうする?明日ここを去るつもりだから、あまり厨房を汚したくはないのだけれど、饅頭でも買いに行くかい?」

「異論はない」

「俺もいいぜ」

 冬雪は小さく頷くと「じゃあ買ってくるね」と踵を返した。今朝の試験まで二人で過ごしてきたというのに、雨桐はもう何日も冬雪と二人で話していない様に思われた。冬雪の背中を小走りで追いかける。李雲は気を利かせたのか追いかけてはこなかった。

「冬雪!」

 縁側状になった廊下で冬雪に追いついて声を掛けると、冬雪は驚いたように振り返った。

「どうしたんだい、饅頭が嫌になった?」

「そんなんじゃない。一緒に買いに行く」

 冬雪は笑っているんだか困っているんだかよくわからない様な顔をした。雨桐は気に留めずに冬雪の隣に並んだ。

「明日からはこうやって二人で過ごすことも無くなるんだね」

 暫く続いていた沈黙を先に破ったのは冬雪だった。

「ああ、忙しくなるだろうからな」

「何だか変な感じだね」

 冬雪はふと笑う気配を感じて横を見る。夕日が整った白い顔に反射されて、冬雪の瞳がきらりと光って見える。普段から温和そうに見えるその顔は、夕日のオレンジ色に包まれると殊更優し気に映った。こんな顔を見てしまうと、この優しい顔が李雲といるときは歪むことが猶更不思議に感じられる。

「冬雪は李雲が嫌いなのか」

「え、どうして」

「李雲といるときのお前は機嫌が悪い」

 冬雪は目をパチクリとさせると、困ったように苦笑した。

「嫌いなんじゃないよ。嫌いになるほど俺は彼のことを知らないしね。ただ、なんとなく見ているとカッとしてしまうのかもしれない」

「あいつは悪い奴には見えないが」

「・・うん。これは俺の弱さだ」

 冬雪はそっと微笑んだ。雨桐はこの数か月の付き合いで、彼の微笑みの機微の変化に気が付くようになっていた。この微笑みが少しだけはらんだ悲しげな影は、雨桐の心をも少しだけ沈ませた。どうして穏やかな彼が、李雲にだけカッとしてしまうのかはわからないが、自分にできることはないのかと思案した。雨桐はそっと冬雪の袖を掴んだ。冬雪は驚いたように歩を止めた。

「弱さを素直に認められるのは強さだ。俺にはそれが一番難しい」

 雨桐はそっと伺うように上目に冬雪を見る。冬雪は最初ぽかんとしていたが、やがて少しだけ頬を染めてにこりと笑った。

「ありがとう、雨桐」

 これが「嬉しい」ときの微笑みであることに雨桐は気が付いていた。


 空き家に戻ると、家の前で李雲は汲んできた水で食器類を洗っていた。外の空気ですっかり冷え切って鼻の頭がツンと痛む。しかし、それよりも雨桐は李雲の指先が赤くなり、ところどころ切れていることが気になった。故郷にいたころは他人に対してこんな気持ちになることはなかった。ここでの生活を経て、自分の中で何か変化が起きたことを自覚せざるを得ない。前を歩いていた冬雪の脇をすり抜けて、李雲に駆け寄る。

「冷たいだろう」

「おお、帰ったのか。・・冷たくなんてないさ、これくらい」

 李雲は桶に食器と水を入れてざぶざぶと洗う手が止めずに視線だけを上げる。雨桐が「代わる」というと、「いいって」と遮った。

「明日からはもっと働くんだから、これくらい」

 にぃと笑いかけられるとそれ以上は何も言えない。李雲の笑顔には冬雪とは違う圧がある。雨桐は自分の手を見つめた。乾燥と飢えでガサガサに骨ばった手だったが、ここにきて少しだけ肉が付いた。裕福とは言えずとも、人並みにいい暮らしをさせて貰った。人の手を見ればその人の生活がわかるとはよく言ったものだ。冬雪の手は白く傷一つない。そして李雲の手は細かい傷が関節部に多くある。水を使う仕事でもやっていたのだろうか、などと思いを巡らせていると、冬雪が小さく溜息をついた。

「饅頭を買ってきたよ、冷めないうちに食べるぞ。皿洗いは後でいい」

 冬雪の呆れた声で我に買った二人も、それもそうかと饅頭を受け取った。

 

 饅頭を食べて、部屋を片すともう日は暮れていた。翌朝早くに起床することを考えて各々早くに床に就く。雨桐はなかなか寝られずに天井の染みを睨んでいたが、隣で横になる李雲が何度も寝返りを打つのを感じると、ますます眠ることが難しいことのように感じられた。眠れない夜というものは勝手に過去のことを思い出す。

 宦官にはならないと威勢よく飛び出してきたが、結局は宦官になろうとしている。大哥にはあんなことを言っておきながら。雨桐が布団をぐいと目元まで上げると、「眠れないよな」と横から声が聞こえた。

「眠れない」

「俺たちみたいな貧乏人には足を踏み入れる資格も本来なかったような所で働くんだもんなあ」

「俺も、自分にこんな日が来るとは思わなかった」

 天井を見つめていた李雲は、雨桐の方へ顔を向けるように寝返りを打つと、へへっと笑った。

「冬雪の奴は坊ちゃん育ちって感じがするよな。俺とは品が違う」

「実際そうだと思う。俺よりもずっと見識がある」

 そこから二人は暫く黙って天井を見つめていたが、李雲は突然大人の様な声を出した。

「俺たちみたいなのでも、やっていけるんかね」

 ぽつりと呟かれた李雲の声は寂しく部屋に響いていた。


 まだ日が昇る前に雨桐は重い瞼を上げた。結局うとうととするばかりで、熟睡はできなかった。重い身体を無理やり起こす。眉間がずんと重い。李雲は少しは深く眠れたと見えて、寝ぼけ眼を擦りながら起き上がった。

「まだ眠いな」

 李雲は大きなあくびを一つすると、ぐぐっと長い腕を天井に向けて伸ばした。雨桐が部屋の小窓から外に目を向けると、薄暗い中にも小鳥が囀るのが見てとれた。自分がいつも寝ている時間にも生命がこうして生きているのだと思うと、当たり前のことが不思議に思われる。以前、家の裏にあった林から珀の国を眺めていた時も同じような気持ちになった。自分が見える世界にしか、現実味を感じることは難しいものなのかもしれない、と雨桐はぼんやりと考えた。


 身支度を整えたころ、冬雪の声が扉の方から聞こえた。

「そろそろ行けそうかい」

「あぁ」

 雨桐が返事を返すと、引き戸を開けて冬雪が顔を覗かせた。雨桐の顔を見るなり、ぎょっとする。

「隈がすごいな。寝てないのかい」

「色々考えていたら眠れなかった」

「俺は少し眠れたぜ」

「君も薄っすら隈があるな。ふたりとも今日は粗相のないように気を付けなよ」

 冬雪は李雲の顔を見てクスリと笑った。昨日の会話から少しだけ李雲にも柔らかい笑顔を向けるようになった。冬雪の中で何かが吹っ切れたのなら、良いと雨桐は思った。三人は支度を整えると外に出る。雨桐は荷物が少なく、すぐに整ったため、一足先に外に出た。世話になったこの空き家を外から眺める。古くはあったが広さも申し分なく、掃除すれば貧乏育ちの雨桐には十分な豪邸であった。数日間とはいえども、ここで過ごした時間もまたとても濃いもので、自分にとって第二の故郷のようなところだ。

 もうここへは帰ってこないのだと思うと、感慨深いものもあり、そっとため息をつく。もう後戻りはできないのだ。空き家の門を見つめていると、ちょうど冬雪が荷物を抱えて出てくるところだった。

「何を見ているの」

 冬雪が白い息を吐きだしながら近づいてくる。雨桐は視線を冬雪に移した。

「なんとなく、この家を見ていた」

「意外と悪くない空き家だったね」

「ああ、十分すぎるほどだ。・・冬雪、お前にもしっかり礼を言いたい」

「え?」

 冬雪は家をしみじみと見ていた視線を雨桐に移す。しんしんと降り出した雪が冬雪の髪や肩に舞い落ちていく。色の白い冬雪には雪が良く似合う。そんなことを想いながら雨桐は冬雪の目をじっと見つめた。

 ここにきて雨桐は変わった。故郷にいた時には、家族や環境など自分を取り巻くすべての物に腹を立てていた。しかし冬雪には命を助けられただけでなく、心のゆとりをも与えられた。この感謝はとても一言では言い尽くせない。それでも冬雪に今こそ伝えたたい。

「冬雪、謝謝你。本当はこんな言葉じゃ言い尽くせない。でも俺は上手く伝えられないから、この一言に心をこめる」

 呆気にとられたように口をぽかんと開けていた冬雪が、目元を赤く滲ませた。

「お礼なんていらない。感謝しているのは俺の方なんだ。本当に怖くて不安で、そんな時に君に出会った。君がいなかったら、俺は今でも不安だったと思う。だから、そんなこと言わないでくれ」

 冬雪は白い腕を伸ばして雨桐の髪についた雪を優しく落とした。雨桐は冬雪の顔が近づいてくるのをぼんやり見つめていた。冬雪の顔が雨桐の肩に正面からもたれかかる。右肩がすこしだけ重くなったが、冬雪は最後にこうして甘えているのだと思うと、邪険にできないばかりか、少しだけ愛おしく思えた。頭を撫でてやると余計に力が冬雪の身体から抜けていくようだった。

 実年齢より大人に見えるこの男は実はとても甘えん坊なのだと雨桐は思う。怖がりで甘えん坊で、それでも信念は曲げたくないという強さもある。そんな冬雪を雨桐は甘やかしてやりたいとこの時思った。

(そうでないと、こいつはどこまでも一人で頑張りすぎるだろうから)

 しばらく無言でそうしていたが、やがて冬雪はゆっくり顔を上げた。気恥ずかしそうにはにかむ顔には喜びも滲んでいた。

「恥ずかしいな。甘えすぎた」

「別にいい」

「ありがとう。そろそろ李雲も来るだろう。声でもかけてくるよ」

 そう言って空き家に向かって小走りで駆けていく後ろ姿を雨桐は見つめていた。


 王宮へはすぐについてしまった。冬雪は李雲と以前よりも饒舌に話していたし、雨桐はもともと寡黙なタチではあったが、二人が盛り上がるところを黙って聞いているのが楽しかった。そうしていると道中も一瞬の出来事に感じられて、少しだけ寂しさが残った。

 王宮の前まで来ると、官吏が数名立っており、手元の書簡を眺めながら新規に採用された宦官たちに配属を指定していた。雨桐たちもその官吏の前にできた列に並び、指令を待つ。

「この配属で運命が決まったようなもんだよなあ」

 李雲はからりと笑っていたが、それはかなり重大なことではないかと雨桐は俯く。ちらりと冬雪の方を横目で見るが、さして緊張の色は見られない。気が弱いのか、強いのかよくわからん男だと雨桐は思っていると、冬雪は前を見つめたまま口を開いた。

「どんな配属になっても構うものか。俺は絶対に出世して見せるから、結果は同じ事さ」

 その冬雪の瞳は力強く、どこまでもまっすぐだった。雨桐は自分が不安になって俯いていたことも忘れ、顔を上げた。

『やめない、俺は自分の意志で生きていたい!』

(俺はそう言ってあの家を飛び出してきたんだ。何を今更恐れるのか。どんな結果になろうと、自分の意志で生き抜いて見せる)


 雨桐たちの番が訪れた。雨桐の担当になったのはあの試験の時にも会った初老の官吏であった。頭に戴く紗帽に白髪交じりの髪を押し込めているその男は、眼光こそ鋭いものの、雨桐の顔を見ると少しだ目尻に皺を寄せた。

「まず、謝冬雪。お前は後宮の花貴人のもとで働いてもらう」

「はい、謹んでお受けいたします」

 冬雪は両ひざを地面につけると、手の平を前で合わせて拝礼した。

「次に李雲。お前は冷宮の宦官だ。妃がいないときは掃除とその他言いつけられた雑務をこなせ」

「奴才(宦官の一人称)、謹んでお受けいたします」

 冬雪に習って拝礼する李雲の表情は固い。あまり希望の役職ではなかったのだろうかと横顔を見つめていると、ごほんと咳ばらいをされた。急いで姿勢を正す。

「王雨桐、気をつけろ。ここではそういう些細な挙動が命取りになる」

「はい」

「お前は厠の汲み取りだ」

「・・・は、厠」と言いかけた息を飲み込み、冬雪の真似をした。

「奴才、謹んでお受けいたします」


 官吏の元を離れるなり、李雲はにやにやと雨桐を見た。

「お前、厠なんて災難だなあ」

「まさかそんな仕事だとは思わなかった。宦官の中でも最下層の仕事だときいたような気がするが」

「まあ、それだけ安全でもあるってことだろうよ。落ち込むなよ」

 李雲に肩を叩かれ、はあとため息をついた。雨桐は肩から下げた自分の荷の紐をぎゅっと握りしめる。

「冬雪はいきなり大抜擢だな」

「まあね、でも花貴人がどんな方かわからないうちは何ともね。それより、君こそ大丈夫なのか」

 冬雪は緊張を滲ませた固い表情で李雲を見た。

「あー、まあなあ」

「冷宮って何だ」

「罪を犯したり、皇帝から冷遇された妃が入るところさ。妃はろくに食事にもありつけなかったり、そこの宦官は精神的にも気持ちがいいところではないだろう」

 雨桐の質問に答える冬雪はそっと俯く。雨桐は不安を煽られて李雲を見た。

「まあ、俺なら大丈夫だ。なんとかなるだろ」

 へらりと笑う李雲はどう見ても無理をしているように感じられて、何か声をかけようかとしていると、「じゃあ、俺こっちだから」と李雲は行ってしまった。

 同じ宮廷で働くとは言えども、この広さだ。次はいつ会えるかわからないというのに、あっさりとしたものだ、とその背中を見守っていると、冬雪も「じゃあ俺も行くよ」と微笑んだ。

「ああ。冬雪、元気で」

 雨桐が言うと、冬雪はにっこりと笑う。白い腕が伸びてきて、雨桐の手のひらをそっと握った。

「君もね、雨桐。近況報告を兼ねて、こっそり連絡をとろう。時間を見つけたら君の宿舎のほうにも顔を出すから」

 雨桐がこくりと頷くと、冬雪は身を翻した。ここ数日毎日近くにいた背中が離れていくのを、雨桐はぼんやりと見つめていた。

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