第2話 決意

「お前は宦官になるのか」

 一面枯草原の景色は長く続く。出発から一刻は経とうしているが、遠くに灯りが見えるようになっただけで、まだまだ人里への道のりは長い。しばらく無言が続いていたが、横眼で冬雪を盗み見ると暗闇でもわかるほどに、貧しいようには見えない。どうにもこの男と宦官とが脳内で結びつかなかった。

「そうだよ。もう浄心もしている」

 雨桐はぎょっとした。

「田舎でしてきたのか」

「うん、そうだね。家族には手伝ってもらったかな」

 平然と言ってのける冬雪に雨桐は開いた口が塞がらない。

「もし都まで行って、募集にあぶれたらどうするんだ」

「その時はその時さ。それに浄心もしてない男が宦官になりたいです、なんて訴えたって、鼻で笑われて終わりさ。応募するまでに浄心くらいしていなくっちゃ」

 そういうものか、と雨桐は頷いた。

 宦官になるには、男を捨てる必要がある。

それは後宮にいる女性たちと間違いを犯して秩序を乱さないようにということ等、様々な理由と歴史がある。男であることを捨てる―――所謂、浄心と呼ばれる行為は、命がけの行為であり想像を絶する痛みを伴うと聞く。自身の生殖器を根元から刈り取り、尿道に棒を通す。そして、そこから傷が塞がり、尿道ができあがるまで水分の補給を一切立つのである。もちろん、一度とってしまった物は二度と戻らない。

雨桐はその話を村人に聞いていたから、軽く「浄心しているよ」と言えてしまう冬雪に驚愕を隠せなかった。

「不便はないのか」

「あぁ、まあ慣れるまでは色々ね。もう半年は経つから慣れてきたよ」

 冬雪はにこりとはにかんだ。そこから暫く無言が続いたが、次に沈黙を破ったのは冬雪のほうだった。

「君は都についたらどうするんだい。宦官にはならないんだろう」

「ならない。適当に住み込みで働けるところを探す」

「そんなに上手くいくかな。こんなこと言われたくないだろうけれど、都は田舎とは違うよ。住み込みで働くにしてもアテがなくっちゃ。下手に乗り込んでは危険なことだって沢山あると思うよ」

 正論で静かに叱られて、雨桐は自分の思慮の浅さに顔が熱くなった。それと同時に、自分とそう歳の変わらなさそうな冬雪の大人な部分に驚かされる。

「確かに甘かったかもしれないな」

 雨桐が素直な気持ちを溜息とともに吐き出すと、冬雪は眉を下げて笑った。

「俺にできることなら手伝うよ。まだ宦官の募集の日まで時間もあるし、俺も特にやることはない」

「それは・・いい。そこまでしてもらう理由がない」

 雨桐は困った。会ったばかりの人間にここまで親切にされるとかえって具合が悪く感ぜられた。自分には何も返せるものがない。冬雪は「気にするなよ」と笑うと、雨桐の背中を軽く叩いた。



さらにそこから半刻ほど歩いて、やっと人里の門を跨ぐことができた。空は白く染まり始めており、朝の気配を感じさせる。二人はくたくたになっていた。

「どこか宿を探そうか」

「俺は路銀を持っていないぞ」

「わかっているよ、ここは俺が出そう」

 当たり前という顔をして冬雪は微笑む。雨桐はここまで親切にしてくれる冬雪を反って怪しんだ。

(どうしてそこまでしてくれるんだ)

 横目で冬雪を盗み見るも、飄々としている様子である。雨桐は思い切って口を開いた。

「そんなに俺に構ったって、お前に利はないと思うんだが」

「利?」

 冬雪は目をぱちぱちと瞬いた。

「俺はお前に返せるものなんて何もないぞ、生まれも田舎の農村だしな。お前はどんな生まれか知らないが、恐らくお前より貧しいと思う。都にツテだってないし、正直困る」

 冬雪はあぁ、と笑うと何やら一人で頷いたり考え込んだりしていたが、肚を決めたように口を開いた。

「利ならある」

「なんだよ」

「利っていうものには色々な種類があると思うんだ。例えば、君が言うような金銭などの物質的な価値を得るという利もあるね」

「それ以外に利なんてあるのか?」

「ただ俺は、君のように嘘をつけない正直すぎる人間が、路頭に迷うところを想像するのが嫌なのさ。だからこれは自分がハラハラしたり、後から気にしてああすればよかったと後悔することを回避することこそが利なんだよ」

 雨桐にはわかるようなわからないような心地がした。しかし、そう思える冬雪の心がとても幸福で豊かなものであるような気がして、ただただ羨望するのみであった。



 旻の都にたどり着いたのは、それから二日後のことであった。冬であるというのに、活気のある旻の都は雨桐の故郷とはかけ離れた雰囲気がある。おかげで故郷を思い出すこともあまりないだろうと雨桐は思った。しかし、心身共に疲労した二人であったが、本当に骨が折れるのはここからである。

「雨桐、本当にこれから君は仕事を探すんだよね」

「当たり前だ」

「それなら先に今の時勢を知っておいてほうがいい。都で働くのであれば、何かに巻き込まれないとも限らないのだからね」

 そういうと冬雪はぽつぽつと話し始めた。

「君はこの旻と北方の珀が不仲であることは知っているかい」

「あぁ、俺の故郷は珀との国境付近だから、兵が視察に行軍することもよくあった。そこの兵がそんなことを言っていた。先帝の時代からのことなんだろう」

「まさしく。先帝の孝光帝の時代のことだ」

 冬雪が話すことにはこうであった。皇帝は現在三代目蒼光帝の世である。

先帝孝光帝の時代、南の国「珀」と江南地域の土地を巡って戦が度々起こっていた。しかし、お互いの国の消耗具合を加味して、和平協定を結ぶ運びとなった。その和平協定を結ぶため、旻と珀の皇帝と王は江南の地で謁見することになっていたのだが、その重要な謁見の日に、孝光帝を運ぶ船は謎の沈没を遂げる。そして予定通り江南に到着していた珀の国には、「旻は珀を格下に見ているから、今回は立場の違いを分からせるため、あえて遅れているのだ」という噂が流れる。

旻になんとか帰郷した孝光帝は、実態を調査させたところ、噂の出どころも、船の沈没事態もすべてが、皇帝の傍でお世話をする宦官、御前首領太監である李松文が首謀のことだと知り、激怒した。その後この事件の悔恨が消えず、宦官への不信感から李松文を含む宮中の宦官三千人を処刑するなどの大事件となった。その後、噂を鵜呑みにし、和平協定を拒んだ珀の刺客と思われる男に皇帝は暗殺された。というのも、宦官を解雇しすぎたことにより、宮中がうまくまわっていなかったため、暗殺できるだけの隙があったのだ。

珀は皇帝が暗殺された不安定に乗じて、旻を滅ぼし、新たな王朝設立を目論んでいるという噂を聞きつけ、三年前に即位した現帝の蒼光帝は、急遽有能な宦官と文官を募るに至るということであった。王朝の権威をしっかりと復興させ、珀に先手を打って戦をしかけようとしているということである。


「だから今、都は微妙な均衡を保って機能しているにすぎないということなんだ。だからこそ治安も悪いし、働き手は探せば沢山あるだろうが、その大半が怪しい仕事や危険な仕事であることも覚悟しなければならない」

 雨桐はその話を聞くと、自分が今までどれだけ世間知らずあったかを知った。そんなことは知らなかったし、都にいけば何か良い仕事について一人で生きていくことだって難しくないと信じて疑わなかったのだ。

それに珀と戦になれば、恐らく故郷は無事ではすまない。国境付近は戦場となり、民は血を流すことになる。雨桐は故郷の大哥を思い出していた。喧嘩して飛び出してきたものの、あの人が血を流すところは想像したくはない。

「戦は止められないのか」

「・・・・」

 冬雪は少し考える素振りを見せると、雨桐の肩を強くつかんで、声色を落として呟いた。

「俺は君の性質を真っすぐなものと信じるよ」

「な、なんだ急に」

「実は俺の懸念するところはそこなんだ。だから俺は宦官になるんだ」

「・・・どういうことだ」

 冬雪はあたりを見渡す。都の門に近い路地で話していた二人の周囲には少なからず通行する人間がいた。

「外に出よう、君に話したい策がある」


 冬雪に手を引かれて、二人は都の外れまで来た。雨桐の腕を掴む冬雪の指はひんやりと冷たい。緊張しているのだろうかと、雨桐は思った。

「ここまで来ればいいかな。・・悪いね、都だと誰に聞かれているかわからないものだから」

 冬雪は眉を下げて困ったように笑うと、そっと掴んでいた手を離した。都の外れのこの一帯は人の気配ない。商売をするにも都の中心のほうが良いのだろうし、閑散としている分、人が一人で歩くのは躊躇われるような薄汚さと退廃的な雰囲気が漂う。かつてはもう少し人もいたのかもしれない。空き家が多く見られた。

「そんなことは構わないが、策というのはなんだ?戦を止められる策のことか」

「今から説明する。結論から言うと、策とまではいかないんだ。この計画はほぼ、これからと言っていいものだ」

「意味が分からない」

「そうだろうと思う。順を追って説明しようか」

 冬雪は空き家の入口の階段に腰を下ろすと、雨桐に向かって手招きする。雨桐がその横に腰を下ろすと、冬雪は話し始めた。

「俺の実家は都より北に上って行った先にある商業の町の産まれなんだ。その町の一角にある剃髪屋が俺の実家に当たる」

 その話を聞いて雨桐には思い浮かぶ景色があった。

「その町を知っているかもしれない。冬雪と会った草原の少し北にある町じゃないか?」

「まさにその町だ。もしかして、俺と出会う前に行っていたかな」

「ああ、人買いに声をかけられて大変だった」

「そ、それは災難だったな・・あの町では何でも売り物になる」

 冬雪は苦笑すると、続きを話した。

「俺はもともとそんなに食うには苦労しない家の出なんだ。剃髪屋は数が多くないからそこそこ儲かっていたしね」

「じゃあなんで宦官になんてなろうと思ったんだ」

 冬雪はごくりと喉を鳴らす。言いづらいことなのだろうかと雨桐も自然と身構えた。

「珀に従妹がいるんだ。俺より八つ下の女の子だ」

「珀に・・」

「小さいころから兄妹のように慕ってくれていた子だ。俺も可愛がっている。年々旻珀間の国交制限が厳しくなっている。最近はそのせいで会えていないが、俺にとっては大切な子なんだ」

 冬雪の表情が珍しく険しさを纏う。

「だからお前も戦争を止めたいってことか」

「そうだね」

「・・宦官は人間の扱いを受けないんだろう。そんな命だって危うい立場で国の関係を変えるなんてできるのか」

「・・そう、宦官は人間の扱いを受けない。だからそれを逆手にとるのさ」

 冬雪は普段より低い声で独り言のように吐き捨てる。今度ごくりと喉を鳴らすことになったのは雨桐の方であった。

「すべては過去に学ぶことができる。宦官というものは何もできないだろうとみくびられているから、それなりの立場を得れば朝廷の会議の場でも居ることができるし、皇帝信頼を得ることができれば、口がうまければ政治だって動かせるんだ」

「は、はぁ?そんなことって本当に・・」

「これは実際に過去にあったことなんだ。なんせ、普通は聞けない国の裏側の事情だって知れてしまうのだからね」

「・・・つまり戦争も止められるかもしれないってことか」

「官僚になることが難しいならそれしかないと思っている。俺も科挙を受けられるほどの頭はないからね。何もしないよりはマシさ」

 雨桐は拳を固く握る。

(悩むことなんてない。俺は宦官になるのが嫌でここにいるんだ。これで宦官になったなんて笑いものだ・・。俺は違う仕事を・・)

 夕暮れ時に差し掛かり強い風が吹く。黄色い砂が風と共に運ばれて、一面の景色を黄色く染めた。

 忘れようと決めていた顔が再び脳内によぎる。大哥との小さいころの記憶がまるで先刻に起きたかのように鮮明に思い起こされた。雨でびしょ濡れになって帰った雨桐を自分の袖で拭ってくれた姿。自分だってお腹が空いているだろうに、雨桐にこっそり夕餉を分けてくれた姿。夕方に帰ってきた大哥に遊んでとせがんでも、一度も断ることがなかったこと。それは雨桐にとって大切な記憶だ。そうでなければこんな風に思い出したりなんてしない。

 (あの辺りが戦になれば、まず大哥は助からないだろうな・・)

 雨桐はぼんやりそんなことを考えた。家を出た時の大哥の言っていたことは別に間違っていない。そんなことを言われて悲しかったのは事実だが、それを悲しいという理由だけであんな風に怒って家を飛び出してしまった子どものような自分自身が恥ずかしかったのだ。だが、家を飛び出さなければよかったとは思わない。それがなければ、自分は何も知らずに宦官になっていたか、井の中の蛙のままのたれ死んでいたかどちらかだ。

(どうせ仕事だって決まってないんだ)

 雨桐は拳をぎゅっと握りしめた。爪が食い込んだ拳が熱く感じる。すうと息を吸い込み、ゆっくりと口を開いた。

「俺もやる」

「え?」

「俺も宦官になる。戦を止められるんだろう」

「いいのか?安全な道じゃないぞ」

「お前はその安全じゃない道を行くんだろ」

「俺には守りたい人がいるからね」

「俺にもいる」

 冬雪の切れ長の形の良い目が驚いた形に丸くなる。その瞬間、辺りの風が強く吹いて視界が濃黄色の染まり、冬雪の姿をも霞ませた。

「俺にもいるんだ」

 もう一度呟いたその声は風でかき消されていたように思えたが、冬雪は「そう」と短くつぶやいた。その後お互い口を開くこともなく沈黙していたが、先に沈黙を破ったのは冬雪だった。

「雨桐、君がいれば心強いよ」

 そう言って整った顔をくしゃりと歪めて笑った。

「やるからには成功させる」

「もちろん、俺もそのつもりさ」

「それで、だが・・」

 雨桐は口をまごつかせた。それを見て冬雪は不思議そうに眼をしばたたかせる。

「何だい、君がそんな風に言いよどむのは気味が悪いよ」

「・・うるさい、その・・浄身のことだ。俺はやり方を知らない。普通はどうするものなんだ?」

 「あぁ」と呟いて冬雪は顎に手を添えて考える仕草をしてみせる。

「そういう専門の職人もいるんだけど、そういう人に頼むとかなりの額を請求されたりするんだ。だから、俺は家族の手を借りた。・・・そうだなあ、俺が手を貸してもいいけど・・」

「本当か」

「でもこれはかなり危険だぞ。何せ俺だってやられたことはあっても、やったことはない。上手くやってやれるかの保証はないよ」

「いい。職人だろうがなんだろうが、死ぬときは死ぬんだ。俺の天命とやらをここで試してやる」

 雨桐はぐっと拳に力を入れてみせると、冬雪ははあとため息をついた。

「俺の腕にそんな重い天命がかかるなんてな・・」


 しばらくは都の外れにあった空き家で寝泊まりをすることにした。普通の屋敷よりはやや手狭ではあったが、二人で暫く身を置くには申し分のない広さがあった。さすがに数年使われていなかったと見えて、埃とカビの臭いが充満している。雨桐と冬雪は二人がかりで住めるまでにした。部屋の換気と寝具を新しいものに帰ると、日はもう暮れていた。長旅の疲れた体にこの作業は堪えた。

「それで、できれば明日にでも浄身したいと思っているが、お前はどうだ」

 冬雪が街で買ってきた饅頭を頬張りながら、冬雪の部屋と先ほど決めた部屋で二人は額を突き合わせていた。

「そうだね、身体が安定するまでに時間がかかることだから、できるだけ早くやったほうがいいだろう。ただ身体の水分をすべて抜かなければならないから、今日はもう水分を摂らないこと」

「わかった。他に準備するものはあるか」

 冬雪は口に小さくなった残りの饅頭を放ると、机の上に置いてある硯と紙を手繰り寄せて、スラスラと書き込む。

「大量の紙、紐、清潔な布、棒、鍋、油・・壺?」

 冬雪が書き込んだ文字を読み上げると、冬雪は驚いたようにまじまじと雨桐を見た。

「文字が読めるのかい」

「簡単な文字ならな。村にいた元宦官の爺さんに習った」

 冬雪はへぇといってにこりと笑った。笑う意味が雨桐には理解できなかったが、雨桐にとって冬雪はいつも飄々として見えていた。今更かと気に留めることを止めて、残りの饅頭を自分の口に押し込んだ。

「それらは何に使うんだ」

「知らない方がいいこともある」

 冬雪は「決行は明日の夜、昼にそれらを調達にいこう」とだけ言うと、どんどん寝台へと潜ってしまった。雨桐は諦めて自分の部屋の寝台へ行こうと腰を持ち上げた。

 その日の夜はなかなか寝付くことができなかった。一度決めたことだが、やはり浄身は怖い。掛け布団をを鼻の上まで、ずいと上げる。しかし浄身の怖さと戦争で失う代償を思い浮かべれば、やはり心は同じところに帰るように思われた。こんな時大哥に大丈夫だと背中をさすって欲しくなる自分が情けなく感じられて、現実から目を背けるように目を瞑った。


 次の日の朝、雨桐は雨の音で目を覚ました。眠りが浅かったのか頭痛がしたが、身を起こして部屋を出ると冬雪は既に起きていた。冬雪の部屋の前で何やらごそごそと手元を忙しなく動かしている。

「なにしてるんだ」

 雨桐が声をかけると「あぁ」と微笑みながら振り返った。

「おはよう」

「・・・おはよう」

「質問に答えろって顔だね」

 ははと笑うと、冬雪は手を止めると作業していたものを差し出した。それは油をなみなみと入れてある鍋であった。

「これはどこにあったんだ?」

「鍋は倉庫を漁ったらあった。油は朝一番に街で買ってきた」

 まだ朝早いというのに、そんなに早くから行動していた冬雪に驚く。冬雪の顔をまじまじと見つめると、目の下が薄黒くなっていた。あまりよく寝ていないのだと察せられる。緊張しているのは自分だけではないらしい。

「あとは何が足りないんだ?」

「清潔な紙と布が欲しいな。それらはあればあるほどいい」

「わかった。それは俺が探してくる」

 そのまま部屋を出ようとする雨桐の背に冬雪の声が飛ばされた。

「紐はあったからいいよ」

 冬雪の言葉に手をひらひらさせて返事をすると、そのまま街に向かって歩き出した。

 外の空気は冷たく、雨も肌に当たると突き刺すように感じられる。吐き出す息が白くなるのを眺め、家を出た日から数日経っていることを実感した。故郷の冬はもっと厳しかった。飢えによる腹の痛みと、不摂生からくる風邪などの病、それを凌ぐための防寒具さえ無い生活は灰色の思い出となって深く心に沈殿するようだ。

(自分が都に足を踏み入れる日が来るとは思わなかったな)

 都の喧騒は故郷の村とは似てもに似つかない。自分たちが毎日働いても働いても手に入らないような美味しいそうな食べ物が並ぶ屋台に、それを簡単に買って最後まで食べずに残せる人間がいることを、都のこうした日常の流れる風景から雨桐は知った。そんな風景を横目にその理不尽さたるやと奥歯を噛み締めた。

 胡同を奥に進んでいくと、紙や布を売る行商に出くわした。あるだけほしいと雨桐が伝えるとぎょっと目をむいたが、へぇへぇと言ってすべてを売ってくれた。背負った籠が重くなるのを確かめてから、雨桐は空き家に戻ろうと踵を返した。

 

 空き家に着くと、雨桐の部屋が全然違う部屋と化していた。寝台の布は清潔な生地へと変えられており、部屋に置いてあった壺類などは見当たらなくなっている。寝台脇には二本の紐が括られていて、それ以外は殺風景な部屋になっていた。

「おかえり、雨桐」

「ただいま、ほらこれだ」

「おお、いいね。十分十分」

 冬雪は満足げに微笑むと、受け取った紙の束を寝台の横にドサリと置いた。

「今少しだけ近所の様子を見てきたんだけど、あんまり人は住んでいないみたいだ」

「へえ、まあそうだろうな」

「ここに決めて正解だった」

「どういう意味だ」

 雨桐が首をかしげると冬雪は誤魔化すようににこりと微笑んだ。

(こいつのことを何だかわかってきた気がする。都合が悪いと笑って誤魔化す悪癖がある)

 雨桐はじとりと冬雪を睨む。当の本人は、そんな気持ちを知ってか知らずか、ははっと笑い飛ばした。

「夜までまだ少し時間があるから、今夜の手順でも説明しておこうか」

「昨日は知らない方が良いとかなんとか言ってなかったか」

「気持ちのいい話じゃないからと思ったけれど、うん・・そうだね。君が決めて良い。聞くかい、聞かないかい?」

 雨桐は迷う間もなく口を開いた。

「聞く」

 冬雪はコクリと頷いた。

「まず君は夜になったら裸で寝台に横になってほしい。そこからの大まかな手順は知っていると思うけれど、基本的に処置は俺がやる。君は痛みでそれどころじゃないと思うからね」

「わかった」

「この油は君から切り取ったものを入れる。揚げるんだ」

「は、揚げる?」

「そう。防腐のためにね。それをこの小瓶にいれて保管するんだ。これは絶対大事に持っておくこと、いいね」

「・・わかった」

 雨桐が素直に頷くと冬雪も優しく微笑む。

「そのあと傷が塞がるまで数日は水も飲めないし痛みに耐えることになる。この寝台の紐で君の手足を縛らせてもらう」

「そこまでする必要があるのか」

「暴れられたり、水を飲んでしまう恐れがあるからね」

「万が一、水を飲んでしまったら?」

 雨桐は少しだけ声が上ずる。それを誤魔化すように冬雪を睨んだ。冬雪はいつになく真剣な顔をする。その瞳で真っすぐ見つめられると恐れからなのか、呼吸さえ上手くできないような気がした。

「死ぬよ、簡単にね」

 いつもより低く響く冬雪の声音がゾクリと背筋を凍らせた。雨桐の表情が固まるのを察知してか、冬雪は慌てたようにいつもの表情に戻った。

「ごめん、不安にさせるつもりはないんだ」

「なってない。気にしなくていい」

 不安になったことを気取られたことに対する羞恥で耳が熱くなる。歳の近い冬雪は何ともないように浄身したと話していた。自分ばかりが怖がっているのだと思うと情けないように思われて雨桐は心が沈んだ。


 日が沈んで夜になると、冬雪は部屋中に蠟燭を灯した。雨桐は寝台に腰を下ろして冬雪が準備する後ろ姿を見つめている。暗くなった部屋に煌々と揺れる光は美しくも恐ろしく感ぜられた。

「そろそろ脱いだ方が良いか?」

 雨桐が声を掛けると「ちょっと待って」と冬雪が近づいてくる。何か準備に不備があったのかと眉間に皺を寄せると、冬雪はにっこりと微笑んだ。そのままどんどん近づいてくる冬雪に雨桐が驚いて仰け反ると、そのまま両腕に包まれた。自分が抱擁されていると気が付くまでに時間がかかった。

「・・・冬雪?」

 驚きのあまり声が緊張する。

「お互い頑張ろうね、雨桐」

 冬雪の声は優しい。もしかして自分を励ましてくれているのかと思ったが、冬雪の肩が小さく震えていることに気が付く。

(冬雪も怖いんだな)

 雨桐はそっと冬雪の背中に腕を回す。顔が見えないからだろうか。今なら聞きにくいことも聞ける気がした。

「冬雪」

「ん?」

「冬雪も浄身するときは怖かったのか?」

 冬雪の肩がぴくりと跳ねる。素直に答えようか、どうしようか。そんな躊躇いが伝わってくるような沈黙が流れる。暫く黙っていたが、やがて観念したように冬雪は口を開いた。

「・・そうだね、怖かった」

「そうか」

「怖かったし、今も怖い」

「悪いな、手間をかける」

「ううん、今からすることもだけど、それだけじゃなくって、未来のこと全部怖い」

 冬雪の言う「全部」が昨日話してくれた計画のことだと雨桐にはすぐに分かった。

「・・・だから、君が一緒に来てくれて助けられたのは俺のほうってわけだ」

 そっと腕が雨桐から離れる。ぬくもりが離れた身体は寒く感じた。雨桐は蠟燭の灯りの中照れたように笑う冬雪の顔が小さな子どものように見えた。

「さ、やろうか」

 気恥ずかしさを誤魔化すように冬雪が立ち上がるのを雨桐はじっと見つめていたが、こちらを振り向かないことを察して観念して帯を解いた。冬雪のおかげか体の緊張はすっかり解けていた。


 その夜は想像を絶する痛みが雨桐を襲った。下腹部に一息に突き立てられた鎌が猛烈な痛みを連れてきて、生まれて初めて痛みで気が遠くなった。尿道へ棒を通すまでを処置を手際よくしてくれたおかげでなんとか成功はしたものの、叫びすぎて喉は乾くのに水を飲めないという乾きとの戦いは拷問に等しい。冬雪が「近所に人がいなくて良かった」というのは叫び声が聞かれないということだったのだろう。

そんな中でも冬雪は「水をくれ」以外の要望はなんでも叶えてくれた。「痛みはどうだい」と毎日聞いてくれる。痛いに決まっていると雨桐は思うのだが、冬雪に抱きしめられた時の肩の震えを思い出すと何も言えなくなった。


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