雪魄の彼方

公達(きみたつ)

第1話 宦官

秋を知らせる凩が轟轟と唸るこの季節になると、風は遠くの砂漠の砂を攫ってきて、沈みかけた夕日もいつもより黄色に燃える。冬になればこの地方一体は白く染まり、木の実一つ手に入らない飢えと枯渇が農民達を襲う。民は皆、先の冬のことを考えると気分を沈ませた。

 王雨桐(ワンユートン)は、まだ微かに葉を残した林の中を、背負い籠を担ぎ、ぶらぶらとあてもなく歩いていた。なんとなく拾った雨桐の背丈と同じ、五尺四寸ほどの木切れで草木を掻き分ける。しかしそんな努力も虚しく、木の実一つ落ちてはいない。さほど期待もしていなかったが、今日の収穫も多くは無さそうだ。雨桐は舌打ちをして木切れを勢いよく近くに生えていた太い幹に叩きつけた。水分のない枯れ木の落とし物は、ボキと音を立てて真っ二つに割れる。その木々の残骸が地面に落ちている姿は、村で道端に捨て置かれた餓死体を連想させた。雨桐は力ない目でしばらく見つめていたが、やがてその二つに折れた木切れの片方を拾い上げると、もう一度歩を進めた。

 貧しい農村の一家、八人兄弟の末っ子に生まれた雨桐はもう十五にもなるというのに、まだ畑の手伝いはさせて貰えずこうして家の裏の林で木の実や果物を拾うばかりだ。男ばかり八人も生まれたものだから、農作業の手は足りていても、日々の食事にも、嫁を貰うにも何かと金が入用で、貧しさは極まる一途をたどっていた。

 今日もこうして朝から夕暮れ時まで、家のすぐ裏にある林に木の実を探しに出ている。これが雨桐の日課であった。この林は国境が近い。そのため、あまり付近に人は住んでおらず、雨桐達の生活する村があるのみだった。

 この林を隔てて北側は、雨桐の住む大帝国・旻(みん)の統治領土では無く、隣国である珀(はく)の領土である。旻と珀は、もうずっと国境を巡って争っていると聞いているが、今から十五年前の先帝・孝光帝の時代に何か事件があってさらに悪化し、今では一触即発の状態であると人づてに聞いていた。しかし雨桐の産まれる前のことであるし、何せ農民はその日その日を生きることに精一杯で、政事へ関心は薄い。それ故に珀のことも、旻の都のことも、雨桐にとっては架空の物語のように感ぜられた。だからこうして、雨桐は林の向こうに黄色く霞んで見える珀の都の城壁を見ると、そこにも人の営みがあるのだという事が不思議に思えたのだった。


 ぼんやりと遠くに城壁を眺めていると、東の空が段々と濃紺色へと移ろいでいく。雨桐は手に持っていた木切れを空に向かって投げ捨てると、来た時よりも幾分薄暗くなった道を急いだ。


 林を抜けた先にある門構えの立派な古い大きな家が雨桐の家であった。大きな家とはいっても、もう百年以上も前に地方の官吏が住んでいた空き家に移り住んだにすぎない。見た目も随分と古めかしく、内装もあちこちにガタがきている。この家もあと何年住めるのだろうかと、直す費用もない貧乏を呪うしかできない。雨桐が家の前まで来ると、秋も終わりであるというのに夏のように薄着をした母が外で麦粥を作っているところだった。ほつれた前髪を撫でつけた母は雨桐の姿を認めると、微笑んで手招きをした。

「おかえり、収穫はあったかい」

「見ての通りだ、全然駄目だな。だから言っているだろ、畑の方を俺にもやらせてくれ」

「兄ちゃんたちでこっちの仕事は足りているよ」

「五哥(五番目の兄)と六哥(六番目の兄)を出稼ぎにやるって話はどうなったんだ」

「それも考えたんだけど、今は都も新しい皇帝が即位されたばかりで、治安も荒れていると聞くし、都に頼れる身寄りもない。今都に行ったって野垂れ死ぬのがオチだろうよ」

 母は麦粥を入れた土鍋を持ち上げると、それきり口をきかずにに家の中へ入って行く。雨桐は少しも重くならなかった背負い損の籠を家の前に投げ捨てると母の後を追った。


 その夜、雨桐は雨の音で目を覚ました。雑魚寝している兄弟たちは雨の音など気にならないようで、イビキをかいたり、寝返りを打ったり、各々いつも通りの様子である。しかし大哥(一番目の兄)がいない。それは珍しいことであった。

 一番上の兄、王雨雲は元来大人しい性分の男である。長男であるのに威張ることはせず、父と母にぴったりと寄り添って生きている。今年で二十八にもなるが、家計を省みて嫁を貰わずにいた。母は大哥のことを案じているが、当の本人は「そんな余裕はうちにはないでしょう」と笑うばかりであった。末っ子の雨桐が幼いころには、実の父より雨桐を可愛がった。父は早くに兵にとられ亡くなっていたこともあり、自分が長男だという自覚がそうさせていたのかもしれないが、悪いことをした時には叱ってくれて、頑張ったときには抱きしめて褒めてくれる。そんな大哥に雨桐は幼少期よりよく懐いていたと母づてに聞いたことがある。

その大哥は一度眠るとなかなか起きることはなく、朝も弱い。だから夜中に起きてどこかに行くということは珍しいことだった。

 雨桐は身を起こすと、他の兄たちに気取られぬよう息を殺して部屋を出た。


 部屋を出て、両親の部屋の前を通ると何やら声がする。一つは母の声で、一つは雨雲の声のようだ。兄が無事なのであれば案じることもないと、部屋に戻ろうとした時、その声ははっきりと雨桐の耳に届いてしまった。


「雨桐を宦官として宮廷へと送ろうと思うのですが、お前はどう考える?」

 確かに母の声でそれは廊下へと響く。喉がひゅっと音を立て、全身が緊張で強張る。

(俺を、宦官に?)

聞き間違いではないのかと、雨桐はそっと耳を障子戸に押し当てた。

「小桐も良い年ですが、あいつはああいう性分ですから、宮中で上手くやっていけるとは思えません。宮中は色々複雑なしきたりがあると聞きますし、雨桐は良くも悪くも嘘がつけませんから」

「そう思うかい。しかし、お前も良い年だ。そろそろ嫁を貰って身を落ち着かせたい。お前は本当に良くやってくれている。こういっては悪いが、子ども達の中で私はお前が一番可愛い。幸せになってほしいのよ。雨桐も働きたがっていたし、うちも雨桐が宮中に行ってくれれば助かるでないの」

(ふざけるな、俺の人生を勝手に決めやがって!)

雨桐は戸を蹴破りたい衝動をぐっと堪えた。それは、母兄を想ってのことではない。そうしてしまったら、自分が余計に虚しく思われるような気がしたのだ。血が滲むほど握りしめていた拳をそっとおろすと、そのまま部屋には帰らず、外の小屋で一夜を過ごそうと決めた。とてもあの家で寝ていて正気を保てるような気がしなかった。

 貧しい農村ではよくある話だ。倅を去勢させ宦官にして口減らしをすれば、家族全員飢え死ぬことは免れる。宦官になった者も上手く出世できれば大金持ちだ。しかし、それまでには男を捨て、人間としての自尊心を踏みにじられるような生活が待っているのだと、以前宮中に仕えていたという村人に聞いたことがある。その話を横で母も聞いていたものだから、まさか自分がそれを勧められるとは思いもしなかった。

 その日、雨桐は小屋にあった雑巾代わりの使い古しの手ぬぐいを抱きしめるように眠った。口から吐かれる息が微かに震える。悔しいのか、悲しいのか、寂しいのか、腹が立っているのか。そんな感情が叫び声となって出たがるのを抑えたような、そんな震えであった。口から吐きだされた白い息は、現れては儚く消えた。


 翌朝まだ日も低く鶏も鳴かぬうちに、自分を探しに来た三哥に蹴り飛ばされて最悪な朝を迎えた。三哥はもともと乱暴者で、雨桐はこの兄が一番嫌いであった。小屋の入口に立ちニヤニヤとこちらを見下ろす三哥に舌打ちを返す。

「痛ぇな・・」

「何でこんな所で寝てんだよ。大哥が心配してたぞ」

「へえ、何を」

「何をって?」

「あの人が心配なのは母さんのことだけだろ。本当に俺が心配だっていうなら、昨日のうちに探しに来たって良かったんだ」

「お前、本当にかわいくねぇよなぁ。大哥が夜中に起きるわけないだろ。お前が居なくなってることに気が付くものか」

「どうだか」

 三哥は「腐っているなよ」と笑うともう一度蹴りを入れて、蔵を出て行った。「蹴るんじゃねぇ!」と雨桐が叫ぶ声は恐らくもう三哥には聞こえていなかったであろう。虚しく小屋に木霊していた。


雨桐が外に出ると曇り空の下、小屋の前で農具を洗っていた大哥は花が咲くような笑顔で駆け寄ってきた。雨桐の頬に泥がついていることに気が付くと、それを自分の袖で拭う。

 大哥は色の白い柔和な顔立ちをしている。目が大きく吊り上がっている雨桐とは対照的に、細く優し気な眼だ。その瞳に心配そうな色を滲ませながら、袖でぐいぐいと弟の頬を拭われると昨日のことは何だったのかと余計に腹の底が重くなった。

「小桐、どうしてこんなところで寝ていたんだい」

 雨桐は雨雲をキッと睨め付けると、雨雲は困ったように眉を下げた。

「大哥が一番わかっているだろ、人のことを狗か何かだと思ってる!」

「どうした。二哥と三哥が幼いころお前のことを小猫(シャオマオ)だとからかったことか。それなら冗談だぞ。お前の目が大きくてつり目だったから、そうやって可愛いお前をからかっていたんだろうに」

「はあ?そんなことで今更騒ぐもんか!」

 雨桐があまりに朝から大声を上げるものだから、遠くから野次馬に来た二哥と五哥が野次を飛ばした。

「また小猫が鳴いてるぞ」

「声変わりしたって、ああやって鳴いてると子猫が鳴いてるみたいだよな。全然怖かない」

「あんまりからかうなよ」

 いかにも長男らしく、それを一言戒めて雨雲は雨桐に向き直る。

「場所を変えようか」

 雨雲の提案に雨桐は黙って頷いた。


 雨雲は雨桐の手を引いて林の中に入ると、朝露で湿った落ち葉の絨毯の上を颯爽と歩く。家が見えなくなった辺りまで来ると、雨桐の肩の両手を置いて視線を合わせた。大哥がゆっくり深呼吸をするのに合わせて呼吸をすると、自然と少し落ち着いた。

「小桐、怒らないで話してごらん。どうしてそんな態度をとる」

「昨日、大哥と母さんが話しているのを聞いた」

 大哥は分かり易く目を大きく見開くと、「そうか」とだけ言って、少し俯いた。

「いや、本当は何となくそうかと思っていたんだ」

「・・・そんなことはもうどうだっていいよ。それより、母さんは本気だったのか?」

 雨桐が上目で大哥を見ると、困ったように眉を下げた。

「いいかい、小桐。もしも母さんが宦官になるようにお前に勧めたら、その通りにするんだ。親孝行と思うんだ」

「はあ?」

 雨桐は勢い良く大哥の腕を振り払うと、憎悪の瞳で大哥を睨む。

「冗談じゃあない、宦官になることがどういう事か、大哥もわかってるだろ」

「落ち着けよ、よく聞いてくれ。うちは現実的に言って今年の冬を越せない。お前もそれは薄々わかっているだろう。母さんだけではとても八人も養えない」

「だから俺に犠牲になれって?」

「そうじゃない、お前のその何事も斜に構えて物を言う癖は改めろ」

 雨桐はかっとなって雨雲の胸を押し返した。自分でも子ども染みたことを言っているのはわかっている。普段からひねくれて物を考えることだってわかっているが、それを兄弟の仲で誰より慕っていた大哥から指摘されるということは何より胸を苦しくさせる。

「そうさせたのは誰だ、大体出稼ぎに行かせるのは五哥と六哥のはずだっただろ!それを二人は危ないからと言っておいて、俺には宦官になれなんて可笑しい話だろうが」

 すがるように大哥の胸元に握った拳を押し付ける。大哥ならば自分を庇ってくれると無意識に期待していたことへの失望と、それを裏切られたことへの虚しさとで心が暗くなる。それをこうして怒りという手段でぶつけることしか、雨桐にはできなかった。雨雲は雨桐の手を取ると、自身の額をそれに押し付ける。そんな大哥のその姿はなんだか祈っているみたいだと雨桐は思った。

「母さんはお前を見込んでいるんだ。気もしっかりしているし、根も真面目だ。それに、浄身するには齢は若いほうが命の危険もない。家族の中ならお前が適役なんだよ、わかってくれ」

「わかりたくない!」

 雨雲の手を振り払うと、雨桐は距離をとるように後ずさりをした。湿った落ち葉を踏む感触が心地悪い。

「俺はこんな家のせいで死ぬくらいなら出ていく、一人だってなんとかしてみせる。あんた達に迷惑をかけたりしない。だから、もうこれきりだ」

「どこへ行くつもりだい」

「教える義理はない」

「やめなさい、馬鹿な真似は」

「やめない、俺は自分の意志で生きていたい!」

「小桐!」


 雨桐は雨雲の制止を振り切って、駆け出した。こんなことをしては親不孝者だとか、不義理であると言われることは必至であったが、そんなことはどうだってよく、ただ雨桐を支配するのは怒りで誤魔化された悲しみであった。

 

 

 冬の近いこの地域の夜は底冷えする寒さである。雪こそまだ降らないものの、冬が間近に迫っていることを知らせるような空気を雨桐は肌で感じた。

 大哥と喧嘩別れをしてから南に歩くこと半日。旻国の統治する領土の北中心部に差し掛かろうとしていた。産まれてこの方、雨桐は村を出たことがなかったため、勿論この北中心部の町に訪れるのも初めてであった。

 町はそこそこ栄えており、村の雰囲気とは打って変わって明るい。もうすぐ夜だというのに、そこら中に人が歩いている。果実を売る者、絹を売る者、路地裏に入れば人を売るような輩まで、ありとあらゆる商売が繁盛しているようだ。細い路地にいる人買いには度々声をかけられたが、雨桐はそれも振り切って逃げた。足の速さだけは村の子どもにも兄弟にだって負けたことはないから追いつかれるような事はなかったが、それでも今晩は野宿というわけにはいかないだろうな、と頭を悩ませた。

(路銀は持ってないし、どうしたもんかな)

気の強さが取り柄の雨桐であったがこの状況は流石に参った。自分が井の中の蛙であったことを半日で痛感させられようとは。路銀がなければ商売の町であるこの町に長居するべきではないだろう。

(今晩のうちに立つとして、一先ずは目的地を決めないとな。長期間滞在できるような住み込みで働ける所を探すには、職の多く集まる場所が良いんだろうが)

 途方に暮れて大通りを歩いていると、何やら町の南門の方が賑わっているのが見えた。

(何だ?)

 雨桐は目を細めて視界を凝らしたがよくわからない。南門からまっすぐこちらに歩いてくる初老の男性を雨桐は引き留めた。

「なあ、あそこでは何が見られるんだ」

「ああ、南門のところか。あれは都の官吏が来ているんだ」

「都の官吏が?」

「なんでも蒼光皇帝陛下が宮中での働き手を沢山募っているらしい」

「へえ、そりゃあまた何で」

「おらぁ急いでいたんでよく聞いてねぇけど、行ってみたらわかるんじゃねぇか」

 それは願ってもないことだった。あまりに運がいい。雨桐は腰元で手のひらを握って喜ぶと、短く礼を言って南門に向かって走りだした。


 南門はこの町で一番大きな門だった。門の周りにはこの町の売りであるようなお菓子や骨董品の店が立ち並ぶ。いつもはその客で賑わっているのだろう。しかし今日の客は店の周りではなく、仰々しく警備兵に囲まれた官吏の周りに集まっていた。

 しかし間が悪かったのであろうか。雨桐が到着するころにはほとんど話の終わりに差し掛かっていた。

「以上、皇帝陛下よりお達しである!我こそはと思う者はひと月後、都まで集え!」

 それだけ言うと、官吏と兵は南門から出て行ってしまった。引き留めようにも、あの兵の数では声をかけるだけで騒動になりそうで、引き留めることさえ叶わない。

(もっと早くに気づくんだった)

 しかし、雨桐にとって一つの目標ができた。

(ひと月後、旻の都に行けば宮中での仕事が見つかるってことだ!)

 雨桐は「よし」と呟くと、南門を飛び出した。終秋の寒さも今は感じるはずもない。




 この町から旻の都まではそう遠くない。二日程度歩けばおそらく辿り着くことができる。しかしたった二日とは言えども、路銀を持たない雨桐はどう飢えを凌ぐかという問題がある。

 町を飛び出し一晩を経た翌朝、雨桐はただひたすらに枯れた草原を歩き続けていた。町という町もない。

 一晩寝ずに歩き続けた身体は重く、朝日は寝不足の眼に堪えた。

(そろそろどこかで休憩しないと、いい加減身体が重いな)

 身体の限界を感じて、雨桐は平原の真中で大の字に寝そべった。もういっそ此処でいいから眠りたい。ゆっくり瞼を下すと、凄まじい眠気と心地よさで、雨桐は意識を手放した。



「・・・もし」

「・・・・」

「もし、旅の方」

「・・・んん」

 雨桐は男の声で目を覚ました。重い瞼を開けると満天の星空が目に入った。どうやら一日寝通してしまったらしい。上半身をなんとか起こすと、自分の足の向こうに一人の男が覗き込むように座っていた。

 左目の下にある黒子が妙に印象的な色白の美丈夫である。凛々しいというよりは柔和な顔立ちであるが、育ちの良さそうな品を感じさせる。

「良かった、死んでいるのかと思った」

「勝手に殺すな」

 男はにっこりと微笑みかけてくる。顔が似ているわけではないのに、何故だか故郷の大哥を思い出した。

「こんなところで何故寝ていたんだい」

「昨日は寝ないで歩き通しだったから、限界だった」

「ははっ、宿にでも泊まらなかったのかい?」

 大きく口を開けて楽しそうに笑う美丈夫に、雨桐は目を細めてじっとりと睨んだ。

「俺に路銀があるように見えるのか」

「いや」

「それを否定されたらされたで腹が立つな」

 男は面白そうにケラケラと笑うと、「どこにむかっているの」と首をかしげて尋ねた。

「旻の都だ」

「へえ、何しに」

「職を探しているんだ。どうやら都では宮中で働く者を募るらしいからな」

「えっ、じゃあ君も宦官に?」

「・・・・今なんて言った」

 男は目を丸くしていた。しかし、雨桐も恐らく負けず劣らず、目を丸くしていただろうと思う。何故なら、その男の口から発せられた言葉は、雨桐にとって今一番聞きたくない言葉だったのだ。

「俺もその募集に参加するところだったんだ。都で募集されているのは宦官だろう」

「募集されているのは宦官だけなのか?」

「官僚も募集されていると思ったけれど、君の身形を見るに恐らく裕福ではないだろう。まさか官僚志望なのか。四書五経を諳んじているの?」

 嘘だろうと言わんばかりに男は驚いて見せる。この男はどうやら品はあるが、わざとなのか天然なのか、皮肉めいたところがあるようだ。しかし男の反応はごもっともなもので、官僚になるためには科挙という難関な試験に合格しなくてはならない。それには勿論のこと学が必要であり、学を身に着けるためには多額の金がいる。つまりは官僚は金持ちの家に生まれない事にはなりえない。

「・・・そんなわけないだろ」

「今の宮中の政事の窮地は知っているだろ。そう悠長にもしていられないのさ。質の良い人材を求めているのだから、そんな状況で官僚にしてもらえるとも思えないしなぁ」

「窮地?」

「そんなことも知らないのか!」

 今度はため息をつかれた。

「好了好了・・まあいい。ここで会ったのも何かの縁だろう。都についたら説明してあげるよ。危ないから野宿はやめておきなよ」

 男は眉を下げて苦笑すると、近道を知っているから一緒に行こうと提案をした。

「俺は謝冬雪(シェ トンシュエ)。君は?」

「王雨桐だ」

 冬雪はその返事を聞くと満足そうに頷いた。「それじゃあ行こうか」と歩を進める。雨桐はこの男との出会いに、この後の人生を大きく変えることなるのであるが、この時の雨桐はまだ知る由もない。

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