ナスグの花咲く

しらす

ナスグの花咲く

 リタ・アーヌの峠を越えて、道がゆったりと下り始めたところで、ヨルは山を真っ白に染める花と出会った。

 細かな花びらが枝の上を覆うように広がるその光景は、故郷の雪降り積もる冬の山を思い出させるものだった。けれど陽は暖かく、道に雪はなく、足元からはリンリンと音を立てて黄色い蝶が飛んでいく。

 ようやく冬が明け、訪れたばかりの春を寿ぐように、遠くまで響く声でジュラが鳴くのが聞こえた。


「いつか私の故郷のナスグの花を、君に見せてやりたいな」

 焚火のそばでそう言って笑ったオルフ老の、わが子を見守るようなあの顔が目に浮かんだ。

 彼が幾度となく言っていたナスグという花は、結局一度も見た事がない。だからこれが老の言うナスグなのかは分からない、けれど。

「綺麗だね、オルフ」

 人気のない静かな道に、ヨルはそっと腰を下ろした。


 さやさやと風の吹く午後だ。誰もこの花を見ようと訪れないのが不思議なほど、穏やかで美しい景色だった。

 しかしそれもそのはずで、この辺りはつい二年前まで帝国の侵略を受けていた場所だ。手入れのされていない道は、丈の高い枯れ草と、春に伸びたばかりの新しい草が入り混じっている。

 元はこの辺りに住んでいた者たちが手入れをしていたのだろう、あちこちに道標や獣への注意書きがある。すっかり古びてはいるが、その道標を追ってヨルはここまで来たのだ。

「いつかは戻ってくるといいな、みんな」

 あなたは戻れなかったけれど、とヨルは胸中で呟いた。


 オルフの故郷は戦火に巻き込まれて二十年が経つと言っていた。もう帰れないと悟った彼が旅に出たのは、それから二年後のことだったと言う。

「最初は何もかもうまくいきっこないさね。わたしもそりゃあ大変だった時もあった。でも本当に困った時ほど、冷静に周りを見ておくんだよ」

 キートゥーンの街で危うく人攫いに遭いかけたヨルを助けた後、オルフはそう言って厳しい目をした。あの時はまだ旅の怖さも分からないままで、助けられた事にも気づかずにオルフを睨みつけてしまった。だが、今思えばあの時、オルフは自分の人生で得た一番の教訓を教えてくれていたのだ。


「察しの悪い生徒でごめんね、オルフ。でもおかげでここまで来られたよ」

 ヨルはそう言って立ち上がった。眼下に広がっているのは、白い花をつけた木々だけではない。民家と思しき古い家々が、木々の隙間から頭を覗かせている。遠くてよく見えないが、倒壊している家もある様子で、戦いの爪痕が残っているのが見て取れた。

 オルフがこの光景を見たら何と言うだろうか。

 悲しむだろうか、それとも戻ってこられたことだけを喜ぶだろうか。あるいは戦火の中でも生き残った木々の強さに、立ち止まって見とれるだろうか。今のヨルのように。


「お帰り、オルフ」

 ヨルは鞄の中から小さな木箱を取り出すと、軽くその蓋を撫でた。

 本当は家を探して置きに行くつもりだったが、それよりもこの眺めのいい場所に置いた方が、より故郷を、ナスグの花を感じられるような気がした。

 もう誰もいない故郷の街より、その方がオルフも喜ぶという気がしたのだ。


 しばらく良い場所を探して歩いた後、ヨルは陽の当たる丘の上に木箱を置いた。

「今までありがとう。今度は私が故郷に帰る番だよ」

 そう言ってふっと笑うと、ヨルは踵を返し峠への道を戻り始めた。

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