拝啓、遠い海上へ

──────




すっかり細かくなってしまった。すっかり冷たくなってしまった。

透き通るように白くて、少なくて。色付いていたあなたを、私はもうあまり憶えてはいなくて。

声の色と書いて声色と読むけれど、仮にその色が透明だとするのなら、それはきっともう逃げ水や陽炎、蜃気楼のようなものでしかなくて、相対的にしか観測できない。いや、でもそれはそんなに鮮明ではなくて、あなたの声色ももう私には、どう足掻こうとも見えないし、聞こえないのだろう。

そういうことだ。

だってあなたはもう、物言わぬむくろなのだから。




~~~~~~




見覚えがある、なんて評するには恐れ多いくらいの土地勘で、うっすらした記憶を手繰り寄せ、慣れないバスを乗り継いだ。

名前の知らない匂いを数時間嗅ぎ続けて、ほんのりと気分が悪い。待ち合わせもしていないから、降りたら近場で冷たい飲み物でも喫しよう。


夏日原なつひばら〜、夏日原なつひばら〜』


気力の抜けた気だるげな男性の声で、アナウンスが流れる。

夏日原町。奇しくも今の季節は地名とも合った盛夏で、過疎化しているとはいえ、以前の人気を感じないとはいえ、バスの窓枠に象られた積乱雲の麓には、前と変わらない広く青々とした綺麗な大海が広がっていたのだった。


『お客さん、珍しいね。夏日原で降りる人で、ここまで若い子は見たことがないよ』

「そうですか」

『帰省しにやってくる人は、大抵各々の車が足だからね。私も、いつこの仕事が無くなるかが分からなくて不安だよ、本当』

「大変ですね、大人って」

『ははは、子どもに慮られちゃ世話ないな。……ひとりでここまで来た君だって、きっと大変だっただろう。人と会うのかな? ならその人に案内してもらうといい。海くらいしか見せられるものもない町だけど、きっと悪いものじゃないから』

「いえ、ありがとうございます」


バスのへりから足を伸ばすと、そこにあったのは普段踏みしめている熱されたアスファルトではなく、表面だけが熱を持つ一面の土。田舎だ。

法のもと舗装された道路なんてものはなくて、山が流した大粒の涙で崩れるのも必至な、そんな、不安定な道。無造作に生えた雑草も、地域の人々の高齢化に伴う整備の不行き届きなのだろう。


バスの遠ざかる音が聞こえる。その音さえ遠ざかってしまえば、セミの鳴き声、知らない虫のさざめき。潮くさい海風と、さざ波のうねる響き。それらの中に私の鼓動だけが反発して、どこまでも馴染めない。

……いや、馴染んではいけない。私はこの場ではイレギュラーだ。半ばあなたの意向とはいえ、あなたの生きた証をこれから土足で踏み荒らそうとしている人間が、あなたの町に馴染んではいけないから。


「暑……」


手描きの地図。点々と染みのある、線が震えた、あの時、最初で最後の顔合わせの時、私が忘れて帰った、ラメの入ったボールペンで描かれた地図。流れる汗を垂らさないように少し高い位置で構えているおかげで、太陽の光が透けて仕方ない。眩しい。でも、明るくはない。鉛筆で何度も書きなぐっては消した後だけが、ただはっきりと見えている。


「一旦、高台を探さなきゃ」


今いる位置は、高台から少し下がった場所。この一本道を上がりさえすれば、この町が一望できる高台とやらから全てを見下ろすことができる。見上げるだけだったあなたを、見下ろすなんて。私は暑さに由来しない、ひんやりとした汗を一滴かく。あなたはこの土の下にはいないだろうけど、もしいるのなら、どうか今のは見なかったことにしてください。


「……ここか」


大して高くないじゃないか。そこで私はこの町の全体像を知る。

段々と古い家屋が並んでいて、道を外れて大きな寺がひとつ。それに付随する墓場らしきものがひとつ。公園のようなものもひとつ見えて、なんだろう、あれは。駄菓子屋なら嬉しいけれど、そもそもシャッターが降りている。そして、最後に、広い広い海。底の見えない群青が、全てを飲み込んでしまいそうで、少しだけ足がすくんだ。


「……いや、前にも見たんだったっけ」


古ぼけた記憶を探る。でも、私のことだ。さっき浮かんだ感情も、以前の焼き増しなのだろう。

そう。前と違うのは、たったひとつだけ。あなたがいないということだけ。


「…………」


あなたは、私のいないここで生きて、私のいないここで死んだんだね。




~~~~~~




人の気配はない。あるとしても、ひどく疎らで。

外界と関わりを持とうとする人が少ないということは前にあなたから聞いていて、だからこそ今いるさっき見えた墓場には、無縁仏らしき荒れ果てたお墓がが立ち並んでいる。

姿も手触りもない人に変な期待を持たせても悪い。汗と共に滲み出てきた、片端から掃除してあげたいという気持ちは肚の底に飲み込んだ。


「……いた」


私と同じ苗字。私と違う名前。

このお墓には、私の従姉妹であるあなたが入っている。


「……意外と綺麗だなあ」


視界を埋め尽くす無縁仏とは違い、手入れが行き届いているあなたのお墓。

叔父さんも叔母さんも、そういう面倒を受け持ってくれる人じゃない。もしかして、そうか。自分で手入れをしていたのかな。


生けられているお花があった。夏の日差しと潮風に殺されたその花は萎んでしまっているけれど、私にプレゼントしてくれた押し花と同じお花だ。好きだったのかな。好きだったのだろう。そう思ったほうが、幾分気が楽だ。


「偶然。私もこの花好きなんだ。あなたがくれたからだよ」


押し花は少し加工して、文庫本の栞に使っている。物語に入る前に、あなたのことを思い出すために。物語に取り込まれる前に、あなたに引き上げてもらうために。


「……あ、毒蜘蛛だ」


背の赤く染まった蜘蛛。私の近所ではあまり見かけないから、多少の物珍しさがあった。

私は物珍しいと感じているけれど、きっとあなたにとっては、日常の1ページの端っこに小さく写る存在だったんだよね。もしかしたら、飼ってたかも?


「えいっ」


汲んだ真水で、張り付いた虫たちに行水をさせる。散りなさい、私とあなたをふたりきりにするために。

粗方の汚れを落とし、乾いた土にも栄養が行き渡る。枯れてしまったこの花も、命尽きそうなあの草も、次第に元気になりますように。

……前者には意味がないか。1回死んだら、もう二度と同じ身体では目を覚ますことができないというのが、息をする私たちに平等に与えられた呪いだから。


「……よし。もういいかな」


隅々の汚れを擦り落として、お供えを取り出す。食べることが苦手なあなたが、たくさん食べる私を慮って一緒に食べてくれた、どこにでも売っている三色団子。

3個目のヨモギの味が苦手で、あなたが食べてくれてたっけ。あなたがこれを好きだったかどうか、幼かった私は訊くことができなかった。私の独りよがりで面目ないが、これを供えさせてもらう。


「…………はあ」


久しい水浴びで光沢をもった墓石は、傾く気配のない高い日を照り返して、網膜が焼き切れそうなほど眩しい。


そんな熱とは裏腹に、私の頭はいやに冷えていた。

これからすることは、きっと死んだあなたへの侮辱になる。私の身勝手な過ちだ。あなたが容認してくれているとはいえ、下品で、礼儀のない行いだ。

神さまは、真上から私たちを見ていると言う。高くて厚い積乱雲さん、どうか少しの間だけ、私の愚行を神様から覆い隠してください。


「……お邪魔します」


墓石の一部をずらす。小さくなったあなたの欠片が詰められた壺。えた匂いがするわけでもない、なんの変哲もない骨壺。

あなたのほとんどはあの底のない群青をぷかぷかと漂っているらしいけれど、あなたの声を形作っていた骨は、ここにある。この骨壺に耳を当てれば、あなたの声が聞こえてくるだろうか。


聞こえてくるのは数多の虫のさざめきだけで、仮にどこかであなたが消え入りそうな声で囀っていたとしても、愚かしい私がそれに気づくことは、万が一にでもなさそうだった。


~~~~~~


潮騒に耳を傾ける。少しだけ、うるさい。

小さな蟹が砂の上を横切って、小さな穴ぐらへと身を潜めるけれど、それは二度と出てこない可能性も秘めている。摂理なんてそんなものだ。もう一度、何度でも会えるはずだったあなたと、私はもう二度と会えないのだから。


靴と靴下を脱いで、あなたを片手に錨を抜く。

足首まで浸ったところで、思っていたより水が冷たいことに気がついた。


「……どう? 一緒に入る? 結構気持ちいいと思うけど」


返事はない。あなたを軽く左右に振ると、カラコロと無機質な音が聞こえるだけだ。それすらもさざ波の響きに掻き消されて、いや、もしかしてもうあなたの全てはこの海に生きていて、絶え間ないさざ波は私へのレスポンスなの?


「じゃあもうちょっと大声のほうがいいかなー!」


きっと、数回の返事はあった。でも、何を言っているのかが分からない。

周波数が違うのかな。隔たりが思っているより大きいことなんて、とうの昔に理解している。


「……はあ」


あなたは、こんなに潮臭くなかった。

あなたは、こんなに冷たくなかった。

あなたは、こんなに煩くなかった。

……あなたは、こんなに私を放っておかなかった。


「……あ」


潮に目がやられたのかも。視界がぼける。しゃっくりのようなものが抑えられない。鼻の奥がつんとして、情けない嗚咽が止まらない。そんな中でも、あなたは喋ることを止めてくれなくて。


「……っありがとう」


きっとあなたは、この情けない泣き声を隠すために、波をうねらせてくれているんだね。

あけすけに話し合えるほど時を過ごさなかったけど、人に泣き声を聞かれることが嫌いな私を、とうの昔に話したそのエピソードを、あなたは忘れていないようで。どこまでも思慮深くて、私のことを想ってくれているあなたの虚像が水平線に見えては消えた。


「……よし」


あなたは大部分は、この海に溶け込んでいる。

私の手の元に、残りのあなたはいる。


「っ、ばいばい……!」


骨壺の蓋を取り、中を覗くことなく、目の前に広がる青へと撒き散らす。


水平線に揺らめく懐かしいあなたの姿が、いっそう鮮やかになった。

そんな幻覚を見た。




~~~~~~




【地図、或いは遺書の残響】

(消した跡と乾いた水滴のせいでぐしゃぐしゃになった文章を消した上から、鉛筆で地図が描かれている)


■ちゃ■へ


メールや■話でのや■■■は割と■繁にして■■ど、実■に会■■のは一度きり。そ■■変な従姉妹■■姉さん■■、■■■変な手紙■送ら■■きたこ■に驚かない■。


長った■■くなるから、本題■■。

や■■り、■は先が長く■さそ■。■■はい■って健■■よ?

だけ■、やっぱり生きるのはつら■て。明日に前向きに■■生き方ばかり■えられ■■ど、私には向いてなかったみたい。


陳腐な■■フだけど、言■■。

「■■たがこの手■■■んでいる頃■は、■■もう■■でいます」

不■慎かな。■■■っかく言える機■■来■ってことで。


■■■両親はあ■■り私のことが好きじゃ■■から、■墓を作って■■■ないと■■。だから、もう今住んでる場所にお墓を作ったんだ。

御骨は■■んど海に■■てもらう予■だけど、多分喉■と他少しの■骨だけは、■■の中に入■■れると思う。その御■が本題。


その■■、■ちゃんにあげ■■かなっ■。

どう■■くれ■■いい。加■■てア■セサリにしてくれて■■いし、肥料代わ■に撒い■く■■もいい。な■■ら海に撒いて、海の中に完全体■■を作ってくれて■■いよ。


本■に、■■■■■■■ごめん■。

■ちゃんが■■■■■■、■■■■■■ごめん■。

■■■■■■、■■■許して■■■■。

■■■■■■■■■■。


大■きだよ。


■■より

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町はずれの百合畑(とまそぼろの私有地) とまそぼろ @Tomasovoro

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