さくらねこ

瑞崎はる

桜と猫

 僕は【さくらねこ】。

 僕の右耳は先がカットされている。それが桜の花びらのように見えるから、そう呼ばれているらしい。

 僕は去勢手術を受けた一代限りの雄猫だ。

 僕は子供を残せない。

 人間達の間では、動物愛護の観点から賛否両論あるみたいだけど、僕にはそれがいいのか悪いのかはよくわからない。

 ただ、僕個人としては、【さくらねこ】と呼ばれるのはそう悪くはないと思っている。



 ――――僕は桜が好きだから。



 僕が桜と出会ったのは靄が薄っすら漂う花散らしの日だった。

 僕が生まれたのはとても快適と言えない所だったけれど、屋根があり、壁があり、同胞なかまだけは大勢いた。


 ――――瀕死の。


 ガリガリに痩せながらも乳をくれていた母親が病気か何で死んだ後、同じような骨と皮ばかりで目をギョロギョロさせた仲間が群がり、母親だったモノはあっという間に骨になった。まだ食べ足りないとばかりに嫌な目付きで僕を見る奴がいたので、怯えて鳴くばかりの弟と妹を残して僕は一人で逃げた。急いで別の部屋に行って隠れた。


 その時の僕は本当に運が良かったのだと思う。逃げた先の部屋にいたのは「さくら」だった。


 さくらは白い雌猫で、年をとっていて、治らない病気にかかっていた。僕の話を聞いたさくらは、目やにだらけの目を細めて笑った。


「それは賢明な判断だ。逃げなきゃお前さんも食われてたね」


 以前のさくらは野良猫と呼ばれていたそうだ。空き家で生まれ、外で自由気ままに暮らしていて、気が向いたら立ち寄り、この家に住む人間の女たちに餌を貰っていたのだという。


「あたしがここに通っていた頃は、こんなに酷くはなかったんだよ」


 その頃、人間の女は二人いた。この家で元々飼われていた五匹の猫は外に出ることはなく、みんな首輪をつけていた。雄も雌もフニンシュジュツされていて、病気や栄養不良の猫は一匹もいなかったそうだ。


「おかしなことになったのは、人間の女が一人になってからだね」


 人間の女は親子だったらしいが、年寄りの女が突然死んだ。残った方の女は母親が死んだ寂しさを猫の数で埋めるかのように、さくらのような野良猫を拾ってきては家に閉じ込めた…


「あの女、窓もドアも鍵をかけて、猫が出入りできなくしたんだ。それまでは家の外に自由に出られたんだよ」


 年寄りの女と違って、その人間の女は糞や尿の後始末も部屋の片付けも一切しなかった。それでも餌と水を置いてくれていた間は良かった。


「十一匹目に来た雄の仔猫がヤンチャな子でね。少ない餌を独り占めにするわ、手当たり次第に乱暴するわ、さかりがついてからはさらに始末に終えなくなった。まぁ、やることやったら子供が出来ちまうんだよ。体の大きな茶トラの雄が三匹いるだろう?そいつらの親父のコテツって野郎だよ」


「大きな茶トラって、母さんを食べた奴らかもしれない…」


 母親に最初にかぶりついた大きな猫は、明るいオレンジ色で凶暴な顔をしていた。血まみれの真っ赤な口を大きく開けて、傍にいた僕らを威嚇して追い払った。「これは俺の肉だ。手を出すな」と。


「この家の猫は親子や兄弟同士でも食い合う。誰も彼も死んだらただの肉だよ。餌がないから仕方ないさね」


「そんな…」


「あたしの生んだ子もみんな誰かに食われたよ。元々、体が小さくて弱い子が多かったんだね…そういや、父親に食われた子もいたっけね」


「父さんに…?」


「春霞の空みたいな綺麗な青い目の子だったよ。たった、ひと噛みだった。あたしの目の前でね。声を上げることもなかった…」


 さくらは独り言のように呟くと、ため息をついた。


「あたしは乳をやる以外に何もしてやれなかったんだ。空も花も鳥も魚も見ないうちに死んでしまった。あの子達はいったい何のために生まれてきたんだろうねぇ。生んだのはあたしだけどさ…」


「空…花…?」


「あぁ、そうか。お前さん、見たことないんだね」


 さくらは億劫そうに体を起こした。鈍い動きながらもノロノロと立ち上がる。


「ついておいで。もしかしたら、お前さんなら出られるかもしれない」


 僕はわけがわからないまま、さくらについて部屋を出た。さくらは苦しげに息を切らせながら、ゴミのような何かがうず高く積まれた狭い道の隙間をおぼつかない足取りで進む。モノの間をツツツ…と走っていく平べったい黒い虫が見える。お腹はペコペコだ。あの虫を捕まえられたらいいのに。でも、さくらにも僕にもソレを捕まえるだけの素早さも体力もなかった。


「おい、婆さん、どこへ行く?」


 隣の部屋を横切ろうとした時、大きな茶トラの雄猫が、よたよた歩く老いぼれの白猫と僕を見咎みとがめて声を掛けてきた。


「ババァが行くのは天国だよ。邪魔すんじゃない、トラオ」


 さくらは吐き捨てるように言い返す。トラオと呼ばれた雄猫はちらりと僕を見て言った。


「その小さいのも連れて行くのか?隠れて食うつもりなら…」


 さくらはほとんど開いていない目をトラオに向けて「だまらっしゃい」と、不機嫌そうに言ちた。


「小さい頃、うちの子と一緒に並べて乳をやったのは誰だったか忘れたのかえ?この恩知らずが」


 トラオはひるんだように黙り込んだ。さくらはたたみ掛けるように言い続ける。


「邪魔するならお尻に噛みついてやろうねぇ。あたしが噛んだらアンタにも病気が伝染うつるだろうよ。怖いだろう?さぁ、行った行った。さっさと去ね」


 さくらの言葉を聞き、だらんと尻尾を下げたトラオはきびすを返して去っていった。


「さくらさんは伝染うつる病気…なの?」


 心配になった僕が尋ねると、さくらは苦笑いを浮かべた。


「お前さんは大丈夫。傷が出来て、血が混ざり合ったり、コウビしなければ伝染うつらないよ。そういう病気だ」


 さくらはゆっくりゆっくり歩いて行く。

 やがて、半開きで傾いたドアの前にたどり着くと、立ち止まって振り返った。


「ここだよ」


 そのドアの向こう側には狭い部屋があり、他と同じようにゴミが積まれていた。ところが、室内の天井に近い壁の一角に小さな丸い穴が空いている。


「ここは死んだ女の寝室だったんだ。エアコンが壊れた時に、もう一人の女があそこにあったのを外して持って行った。その時にあの穴を塞いでたけど、あたしがちょっと突いたらポロッと外れてねぇ…」


 さくらはひっそりと笑った。


「もう少し穴が大きいか、あたしがお前さんくらい小さかったら良かったけど…まぁ、今となっては出られてもどうにもならないねぇ」


 気を取り直したように表情を改め、さくらは僕を見下ろした。


「どうだい。ここから出てみるかい?」


「僕、やってみる」


 しかし、ゴミ山をよじ登り、穴を覗いてみて、僕はぶるっとなった。首を横に振って、さくらに伝える。


「…すごく高い。穴の向こうに落っこちちゃう」


 しかし、さくらはちょっと首を傾げた後、僕を見上げて言った。


「お前さんは猫だろう?これくらいの高さ、飛び降りても平気さね」


「でも…怖い…」


 怖気づいた僕に、さくらは優しく尋ねた。


「そこから何か見えないかい?」


 僕は穴の縁に前脚をかけ、再び外を覗く。


「あっ…」


 穴の近くではなく、少し離れた前方に、もやもやとした暖かな柔らかな光景が広がっていた。


 …白猫母さんの耳の内側や足の裏みたいな色。


「何だか優しい色が見えるよ。母さんやさくらさんの鼻みたいな色の…」


 さくらはうっとりした表情でうなずいた。


「あぁ、綺麗だろう。それは桜だよ。この家の前には桜並木があってねぇ、今の時期になると一斉に花を咲かせる」


「さくら」


「そう。あたしの名前とおんなじ」


「さくら、さくら」


「行けそうかい?」


「行ってみる」


「そうかい。達者でな」


「さくらさんもね」



 ――――そして、僕はさくらに別れを告げ、厳しくも優しい桜の咲く世界へ飛び出した。

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さくらねこ 瑞崎はる @zuizui5963

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