第4話 「校正」の仕事
ルーチェに用意された席は、ヴェリタスの隣だった。
(なんで王子――校正部の長が臣下たちと机を並べているんだろう。魔導書長は独立した部屋を持っているし……以前見学に行ったとき、制作部長も独立した席を持っていたわ)
席についたときには、いつの間にかヴェリタスはその場を離れていたようだった。すると、向かいの席のミレーナがこちらに向かってひらひらと手を振ってきた。
「困ったことがあったら、いつでも言ってねぇ」
「ありがとう、ございます」
少し困惑したまま返事をして、隣席を見る。整然として物は多くない。けれど、よく見ると走り書きのメモがしおり代わりに本に挟まれていたり、進行中と思われる書類が数束重なっていたり――ついさっきまでここで作業をしていて、いつでも続きが始まるような、そんな机だった。
「お待たせしました、ルーチェさん」
声を掛けられてハッとする。一枚の紙を持ったヴェリタスが、にこやかな表情で戻って来た。反射的に立ち上がろうとしたけれど、軽く手で制される。
「大丈夫です、私もすぐ座りますから。さて、それでは……今日は初日ですから、まずは仕事について簡単に説明いたしますね」
隣の席に座ったヴェリタスが、椅子ごと近くに寄ってくる。ルーチェは膝に手を置き、背筋を伸ばした。
「私たちの仕事は、宮中で発行される書物の内容を確認することです。校正は、基本的に二人一組で原稿を担当します。ルーチェさんはしばらく研修期間ということで、みなさんと順番に組んでいただいて、一通りの仕事を覚えていただきましょう。そういうわけで、まずは私から」
そう言って、ヴェリタスはルーチェの前に一枚の紙を裏返しに置いた。
「あ、まだ
ルーチェは机の上に置かれた二本の羽ペンを見て、きゅっと口もとを結んでからヴェリタスの顔をまっすぐに見た。
「ペンは私物でもよろしいのでしょうか」
自分の仕事を進めていたはずの人たちの空気が少し揺らぐ。ヴェリタスは少し目を瞬いてから、優しく微笑んだ。
「公務ですから、基本的には支給される備品を使っていただいているのですが……私は、慣れたペンや思い入れのあるペンで作業をすることも良いかと思います」
「それでしたら、こちらで作業をしたいと思います」
腰のベルトから、銀色のペンを取り出して机にコトリと置いた。ヴェリタスは興味深そうにそれを見てから、突然身を乗り出して食い入るように見つめ始める。虹色の瞳がきらりと光ったような気がした。
「これは、もしかしてあのときの? 魔道具ですね? 銀のグリップ部分……繊細で美しい紋様ですが、ただの装飾ではありません。これは……魔力が通りやすくする魔導紋ですね?」
その勢いにルーチェは息を呑んで、こくりと頷く。まさか、一目で見抜かれるとは思わなかった。
「そのとおりですわ。これは……魔力を流せば、それが赤いインクに変換されるペンで……魔力がある限りは安定して書き続けられるので、重宝しているのです」
「なんて校正向きの魔道具なのでしょう。ぜひお使いください」
即答だった。
あまりにも迷いない一言に、思わずヴェリタスの顔を見つめる。彼はまったく真剣な顔をしていたが、ふっ、とまた柔らかな表情に戻る。
「ふふ、さあ、では早速具体的な仕事についてご説明いたしましょうか」
そう言って、机の上に置かれた紙をひらりと裏返した。
そこに書かれていたは、アルコバレー語で書かれたシンプルな――呪文のようなもの。
『光よ、淡く文に応じて光れ。』
(あら、この呪文――)
違和感を覚えて眉を寄せる。そんなルーチェの表情を見て、ヴェリタスは目を細めた。
「こちらは、御覧の通りの初級呪文です。この呪文に続けて言葉を指定すると、一定の範囲内でその言葉が淡く光る、という効果があります。気になることが?」
「ええ、その――」
言いかけて、躊躇った。次の言葉がすぐに出てこなかった。
「思ったことを、そのまま教えてください」
ヴェリタスのやわらかい声に、肩の力が少し抜ける。小さく息を吸って、カチリとペンを回した。出てきたペン先で、「文」という単語を指す。
「まず、対象が漠然としています。説明を必要とする対象ではなく『言葉』を光らせる呪文であれば、ここは「文字」とハッキリ書くべきでしょう。それから……」
すっ、と「淡く」を丸く囲うようにペン先を動かす。
「こちらの言葉の位置が、ややわかりづらいです。呪文の精度を上げるには、意味や指示を明確にする必要があります。つまり、『淡く』は動詞に近い位置にするのが良いでしょう。最後に……」
そう言って、ルーチェはペン先を右へ移動させる。
『光れ』。
ペン先がその単語を指した瞬間、ふっと視界が白んだ。
弾けるような閃光、髪を揺らす風。
背中に冷たい汗が流れて――。
「ルーチェさん?」
隣から、声を掛けられてハッとする。ヴェリタスが心配そうな表情でこちらを見ていた。
「顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
「あ、いえ……大丈夫ですわ。失礼いたしました」
きゅっとペンを握る手に力を入れる。シャッと勢いをつけて、「光れ」の下に赤い線を引いた。
「……呪文の要、命令の動詞が冒頭の呼びかけと重複しています。必要の薄い言葉の重複は、言葉に宿る魔力が分散され、威力が落ちることになりますから……ここは『
シン――と部屋から音が消えた。ページを捲る音も、ペンが走る音もしない。
突然の静寂に、ルーチェは心臓がきゅっと絞られたような気になった。
何か変なことを言っただろうか、と
「……素晴らしいです、ルーチェさん」
ヴェリタスの感嘆のつぶやきに続けて、前の席のミレーナがパチパチと拍手をする。
「すごいわ、ルーチェさん! 初心者は最初の、『文』と『文字』を指摘出来れば上等なのに、もう校正の視点がプロ目線ね」
「全くその通りだ。アルコバレー語の文法についての説明も完璧だった」
ファビオも何度も頷いていた。どうやら、自分は「間違えなかった」らしい。ルーチェはほっとして、長めに息を吐いた。
「正しい答えが出せて、安心いたしました」
視線を感じて斜め前を見れば、ニコレッタが何も言わずに眼鏡の奥からルーチェをじっと見ていた。その視線は称賛とも観察ともつかず……目が合うと、ふいと目を逸らされた。
「オレも配属したてのとき同じ呪文見たけど、何が間違ってんのか全然わかんなかったのに!! さすが赤――いや、何でもないッス。オレ何も言いませんからね」
両手で口をふさぐマルコを見て、テオドラがくすくすと笑っていた。
そんな光景を見ながら、ルーチェは胸の奥に残る微かな震えを、そっと押し込めた。外れてしまった箱の
(第二王子の試験で、間違えなかった。それだけでも十分よ)
自分に言い聞かせる。新しい「居場所」での生活は、まだ始まったばかりなのだ。
「では、今日の所は、残りの時間は仕事の見学をしてもらいましょうかね」
「いえ、わたくし、業務でも雑用でもいたしますわ。本日からしっかりと働かせてください。まずは、こちらの呪文に赤を入れてもよろしいでしょうか」
ヴェリタスは、一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから穏やかに微笑んだ。
「それは、とても頼もしいですね。では――よろしくお願いします、ルーチェさん」
「はい!」
ルーチェはこくりと頷き、銀色のペンを握り直す。迷いなく線を引き、修正を書き入れ始めた。
紙の上に赤いインクが刻まれるのを見つめながら、それは自分の足跡のようだと思った。
赤ペン令嬢の魔導書校正 皐月あやめ @satsuki-ayame
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