#6 Needs

 拓海と会うのは、半年ぶりだった。

 つまり、私たちが別れてから初めて。

 当時、半同棲みたいに暮らしていた拓海の家の最寄りの、私たちがよく訪れていたカフェに、拓海を呼び出した。

 経堂駅から少し歩いた、あの小さな店。付き合っていた頃、週末に必ずふたりでランチを食べに来た場所。

 店に入ると、顔なじみの店長が、より戻したのか、と満面の笑みを浮かべた。そういうんじゃないんです、と答えると、今度はばつの悪そうな顔をして、そっかそっかと、カウンターの奥に引っ込んだ。

 拓海はもう店にいて、やはり私たちがよく座っていた、窓際の一番奥のテーブルでノートパソコンを開き、脇に置いたコーヒーを放置したまま、必死にキーボードを叩いていた。

 「ごめんね、急に呼び出して」

 私は言いながら、その対面に座った。

 「大丈夫、大丈夫。誰かに呼び出されないと、週末はずっと家に引きこもってばかりだから、気分転換に丁度良かったよ」

 言いながら拓海はノートパソコンを閉じて、まだなみなみと継がれていたコーヒーに口をつける。多分もう、温かくはないんだろう。拓海はそれを、カップの半分まで一気に飲んだ。

 「相変わらず、忙しいんだね。週末もずっと仕事してるんだ」

 私の言葉に拓海は無言で薄い笑みだけを返して、ノートパソコンを座席脇に置いていたカバンに押し込む。その表情を見て、少し配慮が足りなかったな、と後悔する。私たちの別れた原因を揶揄するような言い方になってしまった。

 お互いの多忙さ。すれ違い。

 私はむかし、拓海のプロポーズを保留にしたことがあった。

 拓海がパートナーに求めていたのは、そんな多忙な拓海をプライベート支えてくれるような相手で、私は仕事を辞めるつもりはなかった。

 価値観の相違。

 だから別れは必然だった。

 何が良いとか悪いじゃなくて、ただ単純に、私と拓海は嚙み合わなかったということ。それはもう、どうしようもない。ただ気持ちだけで、好きという想いだけで、埋められない溝というものが、現実にはある。

 拓海はノートパソコンと入れ違いに、カバンの中からビアレッティのモカポットの箱を取り出した。

 それは拓海の家に置きっぱなしにしていたもので、この間までは別にもう、そのまま拓海にあげてしまってもいいと思っていた。それが、ただのその場の乗りの口約束だと思っていた、片桐さんのキャンプに行こうという誘いが、思いがけず実現しそうで、どうしても早朝のカフェラテを堪能したいという片桐さんのたっての希望もあって、拓海に返してもらうことにしたのだ。拓海もそれを、快諾してくれた。

 「理沙はどうなの?仕事、順調なの?」

 私にモカポットを手渡しながら、拓海が尋ねる。ありがと、とそれを受け取ってから、私は答える。

 「まあ、何というか、大惨敗。でも、良い経験だった。得られるものは、あったよ」

 そう切り出してから私は、拓海と別れてからの半年間で取り掛かっていた、プロジェクトのことについて話した。

 先週の夜の、すごく印象的だった首藤さんとの会話を思い返しながら。


 ◆


 「それはある意味、チートだよね」

 首藤さんの考える美の本質ってヤツを語ってもらいましょう、と聞いたことを、そうやって突き返された。まあ、確かにずるさはあった。猪瀬さんが私自身で気づけ、と言われた答えを、カンニングするみたいに、首藤さんから引き出そうとしたのだから。

 「杉岡さんが初めてメイクしたのって、いつ?」

 逆にそう尋ねられて、私は記憶をたどる。

 中二の夏休み。三つ上の姉の色付きリップを、こっそり借りた。姉には内緒で。大したことじゃない。メイクと呼ぶほどのことでもない。でも、鏡を見たとき、妙に心が弾んだのを覚えている。

 「中二のときです」

 そのときの感覚を思い出しながら、そう答えた。

 「メイクをした。鏡を見た。今までと違う自分がそこにいた。そのとき、どう思った?」

 すかさず、首藤さんが続ける。

 「なんというか、妙にワクワクして、テンションが上がって……」

 言いながら、はっとする。

 ワクワク。

 最近、どこかで聞いた言葉だ。

 「そのあと、どうした? 初めてメイクして、そのあと、何をしたくなった?」

 私が少し考え込む間もなく、首藤さんはさらに問いを投げかける。

 「外に出たくなった。誰かに見てもらいたかった。実際、家を飛び出した。ちょっと怖かったけど、それよりも、この新しい自分を誰かに見てほしい気持ちのほうが強くて。でも、見られたときにどう思われるかっていう不安もあって……そのふたつが混ざり合って、なんだかドキドキした。」

 何かがつながった。

 ワクワクと、ドキドキ。

 そう。片桐さんの言葉。

 美しさを纏うことで、ほんの少し強くなれる気がして、ワクワクすること。そして、それを誰かに評価されることで生まれる緊張、不安と期待が入り混じるドキドキ。

 メイクをするって、きっとそのふたつがセットになってる。切り離せない。

 なのに、私はプロモーションテーマを考えるときに、それを切り離そうとした。ワクワクだけを強調して、ドキドキを置き去りにした。それじゃ、だめだ。

 「まあ、いろんな解釈があるとは思うけどさ」考え込む私を見ながら、首藤さんが言う。「美しさに触れると、不思議と心が強くなる。でも、その強さって結局なんなのかって考えると、それはただの理屈じゃなくて、もっと根源的なものなんだよね。どんなにきれいな言葉を並べても、その先にあるのは、結局、生きるための衝動みたいなもの。 フロイトが言ってたような、人を突き動かすエネルギー、つまりリビドーとかエロスってやつ。俺はそう思うんだ。」

 その言葉は、風が吹くみたいに自然に、すっと心の奥に染み込んできた。

 欠けていたピースが、ふいに埋まった気がした。


 ◇


 「なるほどね」

 拓海は静かに、でもどこか夢中になったみたいに、私の話を聞いていた。そして、私が話し終えると、ふっと小さく笑って、ぽつりと呟いた。

 「何だかちょっと、理沙らしくない感じも、するかな」

 そう一言、付け足して。

 「私らしくない?」

 私は、聞き返す。

 「本来の理沙なら、初めからその結論に達していたような気がするというか。これはちょっと、下衆な勘繰りかもしれないけど、俺と別れたことが、変な方向に理沙をひっぱっちゃったんじゃないかな、と思って」

 言われて、はっとする。

 あの頃の私は、拓海と別れたことでかなり落ち込んでいた。正常な心理状態じゃなかった。それでも仕事は目の前にある。その中で大きなプロジェクトを振られて、とにかくその心の不安定さを拭い去りたくて、仕事に没頭した。没頭したつもりだった。でも、私の思考の方向性は、無意識に、拓海と別れたことへの抵抗感が働いて、不自然なくらいに、自立という心的な事象を追いすぎていたのかもしれない。

 「確かに、冷静じゃなかったかも。ちょっと悔しいな。で、そんな自分が自分で、なんかムカつく」

 私がそう答えると、拓海は少し声を漏らして笑った。

 「そういうのは、理沙っぽい」

 少しからかうような口調だった。

 「うるさいな」

 少し苛立つような雰囲気でそう言って、でもこらえきれず、私も思わず吹き出して、笑ってしまった。

 なんだか清々しかった。

 私が主張したかったこと。その芯の部分は、今も変わらない。でも、その思考に固執してしまうと、視野が狭くなる。その視野の狭さは不要な歪みを生んで、荒んでいく。それでは駄目なんだ。誰も何も、救われない。それが判った。それが判ったことが、たぶんきっと、これからの私を支えてくれる。

 窓の外の空を見た。

 ひしめき合う建物と電線の向こう側にある東京の空は、狭いけれど、無限に広がっていた。

 空の前に立ちはだかってその事実を見失わせようとするものに、心を奪われちゃいけない。

 そうありたいと、静かに思った。

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