第9話

 私が家に帰っても母は出迎えなかった。ただいま、という私の声が薄暗い廊下へと吸い込まれていく。鞄を部屋に置いて洗面所に向かうと、母がお風呂に入ろうとしていた。

「おかえり」

 私の方を一瞥して、母は顔をバシャバシャと洗った。脇に置いてあったパーツは歯ブラシを使って洗っていく。傷がつきそうなくらい強く擦っていた。私は、手を洗うために洗面所が空くのを待っていた。出しすぎたのか、白いままで洗剤の泡が排水口にどんどん溜まっていく。

 母の素顔はぐっと老けて見えた。目の下がぽっこりと出ているのとか、しわの深さが増しているのとか、全体的に顔がたるんでいるのが、蛍光灯の光で際立っている。パーツについた専用洗剤を洗い流すと母は、S字フックにぶら下げてあるハンガーにパーツを干した。

「お風呂入るから」

 素顔の母は、私の返事を待たずに服を脱いでお風呂場へ行ってしまった。

 ハンガーにぶら下がっているパーツを手にとってみる。水に濡れてしんなりとしていた。すごく薄いのに、持っている指先は透けなかった。風呂場から水音が聞こえてくる。

 パーツを1つずつ自分の顔に載せてみると過不足なくぴったりと私の顔が埋まった。一層何かが重ねられていると、顔の表面が不必要な細胞とみなされて死滅していくような感覚に襲われた。そこからどんどんと自分の顔が溶け出して、もう二度と自分の顔をみることができないんじゃないか。慌てて頭を振るとずるりとパーツが洗面台に落ちた。私の顔だ。びっしょりと濡れている。

「十環まだそこにいるんだったら、シャンプーの替え取ってくれない? 棚の下にこないだの残りあるから」

 ドアが開く前に私は慌ててパーツを元どおり干して、シャンプーを手渡した。浴室をほんの少しだけ開けた母はありがとう、と受け取った。母の顔ってこんな顔だったっけ? 声に出して言わなかったもののなんだか腑に落ちなかった。母の顔はパーツをつけるための突起がイボみたいに顔中にある。

「十環、可哀想なことしたわね」

 まるで心の篭っていない言葉だったし、母はすぐに扉をしめた。シャワーを付けっぱなしだったから洗面所の床が少し濡れている。母も何か伝えようと気を張っていたのかもしれない。でも哀れんでほしいことがたくさんありすぎて、どれの話か私では判断できなかった。

 私だって私のことをわかってあげられない事は沢山ある。顔だけなら尚更。

「お母さん、なんで私の顔にしたの」

 今まで何度も何度も心の中で、言葉に出して問いかけた。その問いをもう一度だけぶつけてみることにした。タイミングの悪いところで。水音に混じって母の鼻歌がうっすらと聞こえてきた。

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今日モデルの貴方は明日 黄間友香 @YellowBetween_YbYbYbYbY

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