第8話

 結局学校に戻っても授業には出なかった。空き教室で時間を潰して、バイトへ行く。学校はサボっても、バイトに行く根性はあった。

 パン屋には時間通りに着いたけど顔が真っ青だったらしい。多町さんはぎょっとした顔で私を見た。そしてちょっとバックヤード行ってきます、と他のパートさんに断わって、レジに向かおうとしていた私を押し戻した。

「そんな死にそうな顔してどうしたの? 這いつくばってでも来るほどこのバイト好きなの?」

 トワちゃんにそんな根性があったとは思わなかったよ。そう言って多町さんが店前のお茶を手渡してくれた。更衣室の椅子に腰掛けると、血がどっと足元に巡っているのが分かる。頭が急に重くなってじんじんとする足先を見つめた。その場にいたときは張り詰めていたから何も感じなかったけど、今になって胸焼けしそうなぐらいに入り混じった感情がどっと体に反映されている。いやずっと前から、母の顔が変わって私になってから、なんだかいまいち調子が出ない。黒いローファーはさっきまで外にいたせいで太陽をいっぱい吸って暑い。

 体調が悪いわけではないんです。それなら良いけど。いや、よくないのか。こんなに真っ青になるようなことって体調悪い以外にそうそうないと思うんだけど。

 薄い壁だから更衣室の話声はお店に筒抜けになる。私は小声で今日のことをかいつまんで話した。多町さんはちょっと驚いた顔をすることもあったけれど、基本的には相槌ぐらいしか打たなかった。

「だから、なんか今日は気持ちが滅入ると言うか」

「凄まじいね」

 一言で簡潔にまとめられてしまった。その空々しさは私の第一希望の返答ではなかったけど、誰かの話だったらそのぐらいになるのかもしれない。

「野沢って人は中二病だね。いつまで経っても拗らせている。人に押し付けてありあるほどの中二病は、なんか面倒臭いね」

 それでもバッサリ切ってくれて私は安堵した。野沢さんの言葉を鵜呑みにしている訳ではなかった。でもこの安堵はきっと可能性の1つなのかもしれないと知らない内に考えてしまっていた証拠だ。私の感覚がずれていた訳じゃない。私は、ちゃんと怒ってよかった。

「多町さんは付け替えパーツしないんですか」

「私? 私は整形してるから無理。そのまま」

「え、どこ整形してますか?」

「人中」

 多町さんに顔を近づけると、ファンデーションの粉っぽい匂いがした。近くで見てもよく分からない。あのクリニックのレビュー書いた人は、こういう風な整形をして付け替えパーツをもらったのかもしれない。それともやっぱり私が分からないだけで、みる人が見たら分かるのだろうか。

「私は別に自分の顔がどうであれ今更そこまで気にしないけど、高校生だったらしんどかったかな。だって周りみんな可愛いんでしょ」

「そうです」

「恐ろしいわ。私だったら絶対ハブられる」

「まぁ、そうですね。現に私もぼっちです」

 多町さんの容赦ない言葉は、私だからなのか誰に対してもなのか。多町さんはどちらかというと、心配よりもバイトに支障が出たら嫌だなぐらいの気持ちでいそうだった。

 一方母について多町さんは同情的だった。蚊帳の外の人間だから、と前置きをしたものの、でも母親やってるとなんとなく見識みたいなものが小さくなるのは分かると言うのが、多町さんの意見だった。

「結局ママ友だなんだ言っても、私が喋りたいとか安心したいと思った人じゃないもんね。子どもが偶々仲良いから親同士もじゃあついでにって仲良くしてるようなものだし。5歳の方のママ友がさ、バリキャリですごく良い人なんだけど話が噛み合わないんだよね。仕事の聞いてて面白いけど、相手はパン屋の人間模様なんて少しも興味ないと思う。子どもが幼稚園卒園して同じ小学校じゃなくなったら、速攻で疎遠になるんじゃないかな」

「そんなもんですか」

「別にSNSとかもあるし、今はいろんなやり方があるけどさ、友だちを作るって結局は技術だよね。相手はどうであれ、自分が弱いのなら死ぬ気で共闘しないと」

 ね、と言う多町さんは、なんだかお母さんらしかった。私の母には全くないのに私の想う母親のイメージだった。

 落ち着いたらおいで、と言って多町さんは先に戻っていった。最後に私が「母親って、子どもの顔になりたいと思うものでしょうか」と問うと、振り返って一瞬考える素振りをしていた。

「私はないな」

 ドンと店の誰かが壁を蹴った。はいはい、といいながら今度こそ多町さんが去っていく。空元気に近い感覚で笑えた。足元にずっと溜まっていた血の巡りがゆっくりと体全体に巡り始めている。

 もうすぐ店が晩ご飯前で混雑してくる時だ。ゆっくり、とはいうものの、私も早く働かなきゃいけない。もうすぐ焼き上がりまーす、と言う声が壁の向こうから聞こえた。

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