第7話

 ファミレスを出て父に連絡したけれど、すぐに既読にはならない。母が野沢さんから変なものを買ったり、勧められたりはしていないことは何度も繰り返し聞いてようやく確認できた。

「今日私が来なかったら何をするつもりだったの」

 お母さん、と言いかけて往来でそれをするのはと思い留まった。三和子さん、と代わりに呼ぶと母がパッと振り返った。自分が不貞腐れている時、私は鏡を見たことがなかったけれど、今初めてどんな表情になるのかを知った。我ながら不細工だと頭が冷える。

「なんでも良いじゃない。ほっといてよ」

「私の顔を使っているんだから、理由がいるの。説明してもらう必要があるんだってば」

「言ったらダメって言うじゃない。あれもダメこれもダメって」

 急にしゃがみこんだかと思うと、母はガードレール脇の雑草を掴んで引っ張った。手を離すと切れた葉っぱが宙を舞う。ずっと繰り返しているのを私は棒立ちになってただ見ていた。時たま人は母の横を大きく避けて通り過ぎていく。母がぶちぶちと葉っぱを引き抜いて放しても、時々風に乗らずに手のひらについたままになっている。母の手の汗と青くささが、届く訳ないのにほのかに香った。

「腕組んでたの? 野沢さんと」

「野沢さんは十環が感じているよりもずっと良い人だよ」

「腕組んだの?」

「だから野沢さんとはね、ほんとにたまたま会ったのよ。病院で、連絡先だけ交換してたの。ほら、顔を変えるのって不安じゃない。相談にのってもらったのよ」

「腕を組んだの?」

「野沢さんも家族がいらっしゃるのよ。十環よりも2歳ぐらい年下の娘さんがいるんですって。今は全く似てないけど、パーツつける前まではすごく似てたっておっしゃってたわ」

「三和子さんは私の顔で、おじさんと腕組んだ?」

 消化不良な怒りを受け止めて、どこに流そうか。呆れはとっくに通り越していた。首筋がチリチリと日差しに焼かれる。

「え? 組んでない」

 母の目は明らかに泳いでいる。ここまで来るともう、私だけからの譲歩では限界で、英語とスペイン語みたいな似ているけど違う言語で話してる気持ちになる。なんとなく推し測れるのに、機微が分からない。けれど私の顔だから、大雑把な理解だけではダメで、ちゃんとしないとと思ってしまう。私の言葉は今も母に届かず、ボトボトと足元に落ちている。

 今日は雲ひとつない快晴で、今頃体育で外に出ていたら汗が止まらかっただろう。

 サラリーマンが通り過ぎていった。顔は真っ赤で額に大量の汗をかいて、カバンをしんどそうに持っていた。他の人とは違ってわざと母にぶつかるように道の右側を歩く。注意する前に鞄は母の背中をかすめた。

「どけよブス。邪魔だよ」

 案外声が高かった。舌打ちを残して去っていく。私はその人を視線で見送りながら、このサラリーマンが大事な会議で腹を下してそれどころじゃなくなりますようにと祈った。

 母は私を見た。まるで「ちゃんと端に寄ってたのに?」と声が聞こえてきそうな顔をしている。ホラー映画の中でもスプラッタ系が苦手な母に、突然グロテスクな映像を見せてしまったような罪悪感がほんのりと生まれた。母は、この手の暴力からは守られていた。

「お母さん、よくあることなんだよ」

 後ろを向いていたから、通りがかりのサラリーマンからは母の顔は見えていない。それでも母はブスというくくりに入ってしまう。私の顔だから該当した訳ではなくて、女子高生が蹲み込んで人通りの邪魔しているとブスになる。そういう言葉の使い方をする人が時々いる。稀にではなくてたまに。そして私もほんの少しだけその呪いのような悪口に加担していた。内心、このままずっとここに留まらずにいられてラッキーと思っている。

 ショック療法はよく効いたようで母は心ここに在らずの状態からすっかり戻ってきた。

「よくあることなの?」

「道端ではないかもしれないけどまぁ、普通にありえなくはない」

「その時どうしてるの?」

「別になにも」

 母が起こしていたスローモーションは、その分を取り戻すように早送りに切り替わる。母は両手についた草を払って立ち上がった。

「私、帰るわ」

 駅までの道のり、信号を見ずにどんどん突き進んでいく。赤信号は私が止めた。母は何も持っていなくて、ブレザーのポケットにスマホとか財布とか必要なものを全部入れていた。

「外に行くのはやっぱり荷が重いわね。くたびれた」

 本当にダメなの私。人と会うのってとても重労働だし。早口でボソッと呟いて母は真っ直ぐに前だけを見て歩いていた。

 駅までくると母は改まってしゃんとして、私の方を振り返った。

「あとは一人で帰れるから」

 本当に大丈夫かと何度も確認すると、いつもの煩しそうな顔になった。

「家に真っ直ぐ帰るわよ。こんなところに用はないもの。それより早く学校行って」

 踵を返して、ぽつりぽつりと人のいる駅へと吸い込まれていく。私は逆の線のホームへ降りて行って母が電車に乗るところまで見送った。不安定なままで問い詰めても意味がない。母の心を開くのにはコツがいるのだろうと思う。私は今までで一番母のことを考えている。母の心を砕いてしまったのかもしれないと思うと心配だった。初めてちゃんと心配した。

 父から連絡が来た。『どうしたの?』と表示されたLINEの通知を無視するように、スマホをポケットにしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る