第6話
母とおじさんは、駅から5分ほど離れたファミレスに居た。窓際の席で外から丸見えなのは勘弁してほしい。すでに空のコップが2、3個あるからかなり長居している。授業中とはいえ通学圏内なのに。私は二人を睨みつけた。
世界がスローモーションのようにゆっくりと動く。こちらを見た母と、私と、窓にうっすらと写っている私が一直線になっており、目が合う。髪型まで一緒だ。
私は乱暴にドアを開けて、母たちのいる席へ向かった。昼間のファミレスは案外たくさん人がいたけど、年齢は分からない。
「いきなり来るっていうから待ってたけど、どうしたの?」
私は母を見下ろした。冬服は、夏着ると余計に分厚く見える。私の格好をしても母は母のままで、何が言いたいのかさっぱり分からないとでもいうように、私を真っ直ぐに見てくる。
「制服着んなって何回も言ったじゃん。しかも学校の近くいたでしょ!」
「嫌ね、はしたない。家じゃないんだから、大声出したら周りの人びっくりするでしょう」
会話は明後日の方向に投げられて、私の話はなかったことになる。ほら、ここ座りなさい。母はソファを叩いた。私はその腕を掴んで、思いっきり引っ張った。母の腕は皮の薄い感じがした。手の甲とかには血管が浮いているし、とても高校生とは言えない。ネクタイは母の方がきれいに結べていた。制服は私がどこに隠しても必ず見つけ出して、私の部屋はきちんと整えられるようになった。掃除の時に、丁寧に探しているんだと思う。
「帰って。お母さんもう外に出ないでよ。こんなの恥ずかしすぎるよ。家でコスプレしようがどうでもいいけど、迷惑だから」
スローモーションが再び起こった。でも今度はそれが母だけに起こって、言葉を理解するまでボーッと私の顔を見つめていた。目の奥に生気がなくて、顔だけじゃなく目まで作られたもののように見えてくる。
言いすぎたと後悔するより、程度が分かったと冷静に分析している自分がいた。母に何かを言いたい時はこのぐらいの強い言葉をぶつけないと取り合ってくれないのだろう。
私は父親似だから母とそこまで似ていない。元々母は垂れ目で、目の下にはいつも隈があった。私の鼻も形が良いとは言えないけれど、団子鼻の母よりはだいぶマシだと思う。唇の形は今まで意識していなかったけど唯一似ているところだ。骨格も何もかもが違う。
まだ私の言葉を噛み砕けていない母の意識が、だんだん遠のいていくのが分かった。このまま現実逃避するつもりだ。私がもう一度母を立たせようとすると、おじさんが止めた。
「十環さん、少し落ち着いて。せっかく来たんだからここで話せばいいよ。三和子さん、多分十環さんは授業中だろうけど、サボらせちゃって良いよね?」
ようやく標準の速度に戻ってきた母は、目を覚まそうとするように何度かうなずいた。
薄ら笑いを浮かべたおじさんは、野沢と名乗った。
「名刺いる?」
「いりません。なんで母と会ってるんですか? あ、さっきからの会話で分かるかもしれないですけど、この人私の母ですからね。50代です。制服着てるけど、本当は全然高校生とかじゃないですから」
「知ってるよ。制服で来てって俺がお願いしただけだから。それに君とも会ってるよね」
野沢さんの顔——今となっては誰でも同じことが言えるけど——は見たことがなかった。日に焼けた銀幕スターのような昭和っぽい顔だちをしている。野沢さんは首元の汗を大きなタオルで拭った。
「クリニックの待合室にいたんだよ。ゴスロリっぽい女の子の隣にいたやつ。あ、その時の顔とは違うけどね」
俺、あの時のおっさん、と爽やかに笑っている。ぽっこりとしたお腹をさすっているのが、女の子の顔を覗き込んでいたおじさんと一緒かどうかは分からない。
「お母さん、そうなの?」
「そうよ。私がクリニック行ってる時に声かけてくれたの」
母は俯いて自分の手を眺めていた。急激に元気をなくしてボソボソと喋りだすのは、気分が落ち始めている証拠だ。何か声をかけようかと口を開く前に、野沢さんは流れるように喋り出した。
「顔を変えるとさ、やっぱりかなり変わるよね。だってこんなデブでも、ある程度清潔感が出るし。あ、清潔感って言うよりは渋さかな。年相応の格好良さって言うのはあると思うんだけど、この顔立ちだと威厳もあってとても便利だよ。細身の体についてるような塩顔フェイスだとさ、俺みたいな体型全然似合わないんだよね。何パターンか試したんだけど止めた。いくらでもかっこいい奴はいるんだけどさ、あれって身体がなってないとダメなんだよね。デブになった瞬間に霞むイケメンなんて本当のイケメンとは言えないと思う。で、分かったんだけどさ、顔だけで勝負できる芸能人って驚くほど少ないんだよね。ようやくこの顔まで辿り着いたときは鏡の前で思わず拍手したもん。すげぇ、これなら大丈夫だって」
この人に向けて一言でも喋ろうものなら、その100倍は返ってくる。聞いている間に毒気を抜かれそうになる。それでも問わなければと思った。
「なんで制服って言ったんですか。母が今までずっと制服で外出てたのは貴方が言ったからですか」
頭の中でクリニックにいた時の野沢さんを思い出す。じっと女の子の顔を見つめていた人を母と二人で怪しんだ。同じ人間が、目の前にいる。人の良さそうな雰囲気を出しているのに、喋り方とか態度では誠実さは感じない。私は、今見ている顔だけで、こないだ見た人よりはマシだととっさに判断している。
母の方を見ると会話からは完全に外れていた。日差しがあたたかいのか、うとうと微睡んでいる。今のこの状況は大丈夫なのか? という一抹の不安が頭をよぎった。
「三和子さんもさ、そういう意味で変わりたかったんだよ。奥さんとして家にいて、自分のことは随分ほったらかしにしてたみたいじゃない。三和子さんの人生は奉仕だけじゃないよって誰も言ってくれなかったんだよ? 苦しんだままじゃあ可哀想だから、俺が言ったの。十環さん知ってる? 貴方のおばあちゃんは元々体が丈夫じゃなかったから、三和子さんは学生の頃からずっと看病してたんだよ。それで短大でた時に亡くなるでしょ、その次は赤ん坊の貴方だよ」
幼い頃、家には沢山のてすりがあった。だんだんと取り外されていったのは、祖母の七回忌の時だった。そして私のベビーグッズは、まだ家の物置にしまってある。次来るいつかのためのものではなかったのかもしれない。
家を出る時稀に見る、老け込んだ母の姿が私の頭をかすめた。空いた時間があると、母はよくリビングの椅子に座ってぼんやりとしている。猫背で焦点の合わない目で、テーブルの辺りに視線をめぐらせる。口は少しだけ動いていて、何かを呟いていた。
「三和子さんはずっと誰かのために生きてるんだよ。じゃあその失った時間を戻せるようになったら、戻りたいでしょ。俺だったらそう。だって癪じゃない。見返りを求めてやっている訳ではないかもしれないけど、誰もツケを支払ってくれないんだもん。十環さんもう高校生でしょ? 親孝行だと思って、貴方の青春分けてあげなよ」
「新たな犠牲者になるのは、親孝行ではないです」
野沢さんのふふっと笑った感じが嫌だ。顔がいい。でも気持ち悪い。野沢さんは待合室にいたおっさんと同じ、じっとりした性質を持っている。野沢さんにはきっと弱い人間をより分けるレーダーのようなものが備わっていて、母は見事に引っかかってしまった。
「十環さんは三和子さんのこと好き? 別に母親としてじゃなくて人間としてでも良いけど」
母がメロンソーダを飲んだ。半分残して、私に差し出す。コップは口紅が付いていた。
「十環、これ飲んで」
校則で禁止されているから、普段私は化粧をしない。似せようとしている割には、少しずつ違いを出してくる。
「いらない。私ドリンクバー頼んでないし」
「いいから。一緒に飲もうよ。久しぶりに飲むと結構いけるよ。私最後に飲んだのいつだろう。こんな緑だったっけ?」
常識まで置いてきたんだろうかこの人は。コップを突っ返しながら野沢さんに返事をした。
「母のことは別に好きも何もないですよ。母は母ですから」
「知ってた? 十環さんがなんの感情も持たない前に、三和子さんは貴方の事好きじゃないんだよ」
傲慢だなぁと野沢さんが薄ら笑いを浮かべると、目尻の無数のシワが浮かんだ。パーツ上で存在するシワは、ひだのように重なりあっていて、本来の顔のそれとは少しだけ違って、余計に不気味だった。私に向けての感情はどうであれ、母の機嫌を取るのは私の仕事ではない。会話の外にいた母が、ようやく覚醒して媚びるように言い訳を並べた。
「そんな事はないですよ、野沢さん。私は十環の事きちんと育てるように頑張りますし、母親は皆子どもを可愛がるものですから。だから、そんな事ないです。そんな事ない」
「三和子さんは娘さんと同じ顔をしてらっしゃるけれども」
自分の顔でおどおどされると、余計に苛立ちが募る。野沢さんはそれからも色んなことを際限なく話し続けていた。母に話が向いてしまったので、私はだんだん耳に蓋をしてフェードアウトすることにした。
野沢さんも私も、母自身も言葉にはできない『何か』をテーブルの上に置いて、私たちは不毛な会話をしている。
野沢さんがようやく飲み物を取りに行った。
「お母さん、若さを取り戻したいんだったらもっと可愛いJKになればいいじゃん。新しいパーツとってきて欲しかったら私がクリニック行くから。制服だって違くていいよ。東京行ってさ、制服専門店みたいなとこで私立の可愛い制服みたいなの変えばいいじゃん。買ってあげるよ。今月バイトがっつり入ってるから。だからもうこれ以上惨めにさせないでよ」
返事は来なかった。母は受け入れることを面倒がって、また遠いところに意識を持って行っている。手元のお手拭きは、母がずっといじっていたせいでぐちゃぐちゃだった。ねえ、話聞いてよと声をかけるとついに顔を背けて窓の外を眺め始めた。食器の割れる音とスプーンとかフォークとかが大量に落ちる音が聞こえた。失礼いたしました、と誰かが言った。
野沢さんは、コーヒーを入れて戻ってきた。
「横槍入れて悪いけどさ、三和子さんともっと対話をする姿勢を取らないと。さっきからただキャンキャン怒ってるだけだよ。俺はね、別にあなたがた母娘がどうなろうとなんだって良いんだけど、優しさだけで包まれた関係ってやっぱり端から見ていても苦しそうなんだよ。それを軽減する手助けがしたいだけ」
「こちらの話なんで、野沢さんは少し静かにしてもらえますか?」
野沢さんの言葉が少なからずガツンと頭を打ったのは、私がすぐにその意味を理解したからだった。
私が何を話しかけても生返事しかしない。都合の悪いところは耳を塞がれるのはストレスが溜まる。母がふわっと持っていたグラスをひったくってメロンソーダを飲み干した。
「それにしても、二人が横に並ぶと十環さんはやはり若いね」
「すみませんけど、お会計お願いしますね」
ドリンクバー399円×2。野沢さんが肩を竦める姿はなんだか映画のようだった。
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