第18話
「お兄ちゃんっ」
もうとっくに起きる時間なのに、兄はベッドで爆睡中だった。さっきはすぐに起きるって言ったくせに。せっかく朝ご飯を作ったのに冷めちゃうじゃないか。
「おい、哲己っ!」
私は兄の顔面を思いっきり引っぱたいた。
バチンと言う小気味良い音が快感だ。もう一度聞こうと左手を振り上げると、兄は「起きる起きる」と情けない声で飛び起きた。
「夕葉、病み上がりなんだから、もう少し優しくしてくれよ」
「病み上がりってずっと昏睡してただけじゃない。しかも三年、三年よ。良いご身分よね。その間の生活のために私がどれだけ村に頭を下げたと思ってるんだか」
「それは……感謝してるけど。仕方ないだろ、事故だったんだし」
「何も覚えてないくせに口だけは回る。早くご飯食べて村長のところ行って。隣村の連中は血の気が多くて嫌になっちゃう」
「またか。なんか僕、用心棒扱いされてない? 争い事は向いてないと思うんだけど」
兄はブツブツと言いながら階下に降りていく。
私はため息をつきながら、兄のベッドのシーツを綺麗にした。悪態をつきながらも顔が綻ぶのをいまだに我慢している。
私が求めて、求めて、願った生活がいまここにある。
誰もが諦めろと言った。でも私は探し続けた。兄が生きていると信じて。そして私は手に入れたんだ。当たり前にあった日常を。
あれからちょうど一ヶ月が経っていた。
兄は無事に帰ってきたけれど、あちら側で積み重ねた三年間の記憶は置いていかなければならなかったようだ。あちらでのことは何一つ覚えていない。
元々、二つの世界は干渉することが出来ない。あれは向こうが消滅しかけたせいで起きた偶然の重なりだったんだ。
私が三年かけてその偶然を無理矢理引き寄せたわけだが、干渉に過ぎたんだろう、私の右目は未だに失明したままだ。右手も痺れて思うように動かない。
多分、これは代償だ。治ることはきっとない。私のちょっとした介入でこれだから、身体を完全に行き来した兄が五体満足で帰ってきたことはまさに奇跡。記憶くらい安いものだ、むしろあるだけ迷惑、必要のないものだった。
私が一階に降りると兄は朝食を美味しそうに食べていた。
「夕葉、この目玉焼きにかかってる粉ってなに? 塩じゃないよね」
「あぁ、私の特製。もう作れないから味わってよね」
「作れないの?」
「まぁ努力してみるけど」
何を言っているのかわからず、兄は首を傾げていたけどすぐにまた食事を再開した。
あれはあちら側の世界で、お兄ちゃんが持っていた木箱に入っていたものだ。無機物とはいえ、破損なしで世界を行き来するとは、これも偶然だったのだろう。
中身は小瓶が三つ。それぞれが調味料で何にかけても美味しくなった。三種類あって味がそれぞれ地味に違う。今日使ったのはスパイスが利いていて辛みが強く、お酒が好きな大人に合っていた。どうやって作ったのか聞いてみたいけど多分、兄ではないのでもう知りようはなかった。
私は兄のはす向かいに座って、頬杖をつく。この光景は私が何より欲し、選んだ結果だった。けれど胸のほんの隅を針で突かれているような気分になる。
選択、選択か。
結局あの人は、最後まで兄を選ばなかった。
ただ、それだけの話なんだ。
兄も忘れてるし、世界は消滅した。今頃は生命の誕生のためにゆっくりと時が進んでいるのだろう。
兄にとっては辛い過去だ、覚えていないならそれでいいと思う。何か思い出す気配も今まで一度もなかったし、村のみんなにも口を合わせてもらっているから問題はない。これで一件落着なんだ。
兄に目を向けると、彼は朝食の手を止めて私をぼーと見つめていた。
「どうしたの?」
「いや、なんかコーヒーが飲みたくなってさ」
「また随分とお高いものをお求めね。行商が来るのが来週だからそのときに交渉するわ」
「そうだね、ありがとう」
兄は、依然として私を見つめていた。
「夕葉、いつもそこに座ってたっけ?」
「ううん、いつもお兄ちゃんの隣りだよ」
兄は隣りを見つめる、どこか、切なげな表情で。
「どうしたの?」
「最近さ、同じ夢を見るんだ」
「夢?」
「顔も何も覚えていないんだけど、その人と手を握って。その手は優しくて温もりがいっぱいでさ。でもどこか懐かしい感じがして……なんなのかなって」
「……そう」
誤魔化すのは、簡単だった。
優しい兄はきっと他人を優先するから、自分の中だけの疑問は時間をかければきっといつか無くなる。記憶なんて、思い出なんて触らずに放っておけば消えてしまうものなんだ。私はそう決めつけた、決めつけたかったのかもしれない。
だけど、記憶は本当に失われるのだろうか。
言葉にできない、だけなんじゃないだろうか。
「……」
「夕葉、どうした?」
「なんでもない。早く食べてよ、片付かないから」
私はそう言い捨てて立ち上がる。兄は「ごめんごめん」と食べる速度を上げた。
会えてよかった。
それがあの人、天瀬夕里亜の最後の言葉だった。
兄にはちゃんと届いていただろうか。
確かにあの人は兄を選ばなかった。でもそれは兄を好きじゃなかったとは結び付かない。顔を見ればわかる。あの人は、兄を心から愛してくれていた。
いやだな。言いたくない。
私は兄の顔を見た。人畜無害な顔をしている。比べて私は顔がきつくて怖いと影で言われていることは知っていた。
こんな優しい顔の、兄が泣くところは見たくなかった。
けれど、兄の心は何も忘れていない。記憶はずっと残ってるんだ。あっちの世界で、私のことを思い出したように。大切なおもちゃを箱にしまって忘れても、無くなったりはしないのと同じで。
私は悩んで決めたことをまた悩み始めていた。
このまま触れずにずっと私と一緒にいてほしかった。でもそれは、私のワガママなのかもしれない。
息を大きく吸って、吐き出す。
これを、最後にしよう。
きっとこの話は、兄が涙を流すに値する話だ。
私の視線に気付き、兄はきょとんとした顔で私を見ていた。「どうかしたか?」と眼が言っている。私が何か悩んでいることに気付いたのか。鋭い兄だ。
思い出した暁には聞いてみよう。
私が知らない兄の三年間の思い出を。
姉になるかもしれなかったあの綺麗な人のことを。
小姑らしく、嫌々な顔で聞いてやろう。
私は微笑みながら、口を開いた。
「お兄ちゃん、あのね」
[了]
終末の対岸 名月 遙 @tsukiharu
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