省略国家ニッポン

宇多川 流

省略国家ニッポン

 Y氏がD氏を訪ねたとき、友人は荷造りの最中だった。旅行鞄のチャックを無理矢理閉めようとしながら、D氏は振り向く。

「やあ、悪いところへ来たね。これから出かけるところだよ」

「出かけるはいいけど、きみ、そう無理に閉めなさんな。壊れてしまう。それで、どこへ出かけるんだね? 月面基地か、宇宙ステーションにでも飛んでいきそうな風体だけれども」

「そうだな。ある意味、そこよりも遠いところだ。距離的にはさほどでもないが」

「距離的にはそうでもないが遠いのかい。まさか〆切から逃げ切ろうと夜逃げか、身投げでもする気かね」

「身投げのためにこんな準備なんてするかい。わたしが行くのは〈未来体験館〉だよ」

 未来体験館と聞いてY氏は納得した。今はあちこちでその宣伝を目にする。今よりほんの少し未来の日本を体験できるという触れ込みで、テーマパークのような乗り物体験ランドは一般客であふれかえっているようだ。しかし、Y氏にはひねくれものの小説家であるD氏がテーマパークに興味を持つとは思えなかった。

「小説のネタ作りのために未来シミュレータを使うというわけだね?」

「未来シミュレータは使うが、ネタ作りではないよ」

「じゃあなんのために行くんだい? バカンスか?」

 その質問に、D氏は大げさに両手を広げて肩をすくめた。

「嫌気がさしたのさ。この日本という国はどんどんどんどんことばを省略していってしまう。これではどういう経緯でそのことばができたのかという由来も失われていくぞ。それは歴史が消えていくということだ」

「しかしきみ、そうやって何もかも古いままで残しておくのが良いとしたら、実物をかたどった古き良き象形文字しか残らないんじゃないかね?」

「では、国語辞典にこの単語の省略前はこれでその省略の前の省略の由来が云々、と並ぶのが健全だと思うかね。長く使われている単語は単語自体の美しさも親しまれてきたのに、現代の若者にはワビサビがわからんのだ」

「不要なら、省略形自体が廃れていくと思うが……しかし、それがどう未来シミュレータにつながるんだい?」

「未来シミュレータには、未来の伝達手段も想定してある。とても効率的で情緒的な伝達手段だそうだ。やはり言語伝達には情緒が必要なのだよ。わたしはそれを体験して皆に伝えるのだ」

 そう言って山積みの原稿の隙間から取り出した右手には、未来体験館のチラシがなびいている。

 興味をそそられたY氏は、友人の旅行についていくことにした。


 二人は未来体験館に着いて数時間後には、未来シミュレータのコーナーに入っていた。体験者は椅子に座らされ、ヘルメットに似た装置を着けられる。

「現在考え得る最も快適で効率的、情緒的な伝達手段です。ごゆっくり体験ください」

 二人は並んで、お互いに対話を試みる。

 Y氏は『気分はどうだね?』と話しかけようとした。すると、声を出す前に目の前に曇り空が広がる。ここは一体何なのだ、と思えば目の前に映し出されるのは未来体験館の内部地図。

 それには、声もことばも必要なかった。映像そのものがコミュニケーションの手段だ。映像は見る者に伝える要素が多く、確かに効率的でただ思考すればいいだけなので快適だ。情緒もある……。

 となりで、D氏が声をあげる。

「これじゃ象形文字と同じじゃないか」

 その嘆きはむなしく響いた。



   〈了〉

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