グッドラック

いちはじめ

グッドラック

 二人の血相を変えたガタイのいいおとこが、通行人を突き飛ばしながら大声をあげ、彼らの少し前をとぼとぼと歩く、みすぼらしい格好の痩せた男に突進していた。

 が、異変に気付いた男は、後ろを確かめるや否やはじかれたように走り出した。その漢たちに見覚えはなかったが、男がいくつか抱え込んでいる金銭トラブルに関係していることは明らかだったからだ。


 ――捕まる訳にはいかない。


 もしそうなったら今度こそ命の保証はないだろう。男は、傍らの交通量の多い四車線の幹線道路を横切ろうとした。渡り切ってしまえば、そこに地下街に通じる階段がある。そこでうまく撒けるはずだ。しかし男はそこまでたどり付くことはできなかった。中央分離帯を乗り越えたところで、左から直進してきたトラックにはねられてしまったのだ。


 気が付くと男は、何の変哲もない見知らぬ街を歩いていた。


 ――はて、中央分離帯を越えたところまでは覚えているが、ここはどこだ。それに俺を追いかけていたおとこ達はどうなった。


 見渡しても自分以外誰一人、いや犬猫の類さえいなかった。

 そんな状況でも男は、戸惑いはあるものの、なぜだか不安を感じることはなかった。

 男は何かに導かれるように、街の大通りを歩きだした。

 しばらく歩いていると、目の前に三階建ての小さな白いビルが現れた。その建物の前に立つと、正面のガラス製のドアが男を誘うように音もなくゆっくりと左右に開いた。

 男は一瞬躊躇したが、ここに入ることはすでに決まっていることのように感じ、ゆっくりと歩を進めた。

 入るとそこはホールとなっており、正面にエレベーターのドアがあった。近づくと男を待っていたかのように扉が開いた。

 男は乗り込んだ。扉が閉まるとエレベーターは音もなく上昇を始めた。

 内部には、止まる階を決めるボタンもなければ、エレベーターの位置を示す表示もなかった。ただエレベーターのかすかな振動が上昇し続けていることを伝えていた。

 エレベーターが突然停止した。実際のところは分からないが、かなりの時間昇り続けていたように感じた。


 ――三階建てのビルのはずだが……。


 扉が開くと、あまりのまぶしさに男は両の手で目を覆った。

 目が慣れてくるとそこはガランとしたとても広い部屋だった。大きなオフィスビルのワンフロアーをぶち抜いたような感じであった。天井と床以外は全てガラス張りで、しかも支柱や窓枠の類もない。そこから青い空とゆったりと流れる白い雲が見えた。部屋の真ん中には、一卓の事務机と前後に椅子が二脚あるだけで、他には何もなかった。

 男が一歩踏み出すと、エレベーターの扉が閉まる音がして後ろを振り返ったが、そこにはもう何もなかった。

 男がおずおずと周りを見回していると、「ここに座りたまえ」と声がした。

 声の方を見ると、いつの間にか事務机の傍らに、いかにも公務員風な、黒縁眼鏡を掛けた地味なスーツ姿の男が立っていた。

 男は呼ばれるままに事務机の前の椅子に腰かけた。男が座るのを見届けた彼は、小脇に抱えていた資料を机の上にドスンと置いた。

 その音がやけに大きく響き、男はビクッと体を震わせた。


「状況はご理解いただいていますか?」

「ええ、まあ……何となく」

「それは話が早い。ここはこの世とあの世の境界です。ここであなたの人生を査定します」


 男が何かを言いかけたが、彼はそれを遮った。


「いいえ、あなたの行先を決めるのは私ではありません。私はあなたの人生を吟味するだけです」


 彼はそう言うと椅子に座り、眼鏡の位置を微妙に修正した。


「資料によると、あなたは安易に約束や誓いを立ては、そしてそれを簡単に破っていますね」


 彼に言われた通りで、誓いや約束は破るためにするもんだとうそぶいていたほどだ。思えば自分の人生はいつもその場しのぎだったのだ。先のことを考えることも、後ろを振り返ることもほとんどしたことがない。

 男は今、初めて自分の人生を振り返っていた。多くの誓いを立てたが、どれ一つとして守ったことはなかったように思う。小さい頃、『嘘をつかない』と母親に誓ったことも、そもそもそれが嘘のつき始めであったし、ギャンブルのために必ず返すからと言って同僚から借りた金は、ことごとく踏み倒していた。そして居づらくなって逃げるように会社を転々としたが、そこでも同じことを繰り返した。最後に闇金融に手を出し、とうとう追われる身になってしまった。


「ここまで不誠実な人は初めてですよ」


 彼が呆れたように言葉を投げた。

 男は俯いたまま微動だにしなかった。


「あなたのせいでどれだけの人が迷惑を受け、そして苦しんだと思っているのですか」


 彼は一つのファイルを男の手元に滑らせた。そこには、男の誓いを信じたがために相手がどれだけの迷惑を被り、そしてどのような結果になったかが記した資料が詰まっていた。男はその一枚一枚を手に取り、つらそうに目を通していった。

 そのうちに男の目にみるみる涙が溜まっていき、そしてついに嗚咽と共に男の頬に流れ出した。

 彼は向きを変え、横目で男をとらえながら憐れむように言った。


「今更遅いのですがね……。ただこのまま悔いを残したままこの先に進むことはできないのですよ。だからあなたの立てた誓いを一つだけ選んで、それを全うしてください」


 男は涙を拭うと、分かりましたと頷き、資料の中から一枚を選び彼に手渡した。

 それに目を落とすと、彼は初めて表情を緩ませた。


「おやおや、これを選びましたか。もっと軽いものを選ぶと思っていました。本当にこれでいいのですか」

「……ええ」

「いいでしょう。では、グッドラック」


 次の瞬間、男は病院のベッドに横たわっていた。傍らで女性と幼い女の子が泣いている姿が目に入った。

 ――愛想をつかされ、別れた妻と娘だ……。

 男は目を閉じ、初めて本気で立てた誓い――二人を幸せにする――をもう一度深く胸に刻み込んだ。。

                                   (了)

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グッドラック いちはじめ @sub707inblue

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