どろどろ

秋犬

どろどろ

 本当にいいの、と彼女が聞く。私はうん、と頷いて見せる。もう私の口には柔らかいボールが押し込められ、その上から黒い革の覆いがされていた。同じように私の関節という関節には幅広のビニールテープが巻かれ、その上から革製の拘束具に覆われ全ての自由を奪われてた。ひとりで動けない私はお祭りで使うような透明なプラスチックのプールに入れられている。下にブルーシートが敷いてあって、まるでこれから殺される魚になったような気分になる。


 それじゃあ、と彼女は呟いて私に耳栓をすると顔に更なる革の覆いを施す。視覚と聴覚を奪われ、これで私の全ては彼女に委ねられる。彼女が私の首を絞めれば、私は死ぬ。そのことに私は恐怖し、そして更なる束縛を求める。


 べちゃ、と冷たいものが私の素肌に纏わりつく。私は喉の奥で呻く。冷たいものは肌にどんどん擦りつけられ、私の体温でどろどろと溶けていく。その上からまたどんどん冷たいものは擦り付けられていく。その度に私はおんおんと身を捩る。私の苦悩などお構いなしに、彼女は私を冷たいものの中に埋めていく。それは私の全身を覆い、私はどろどろの中で愚かしく藻掻く。


 これではまるで焼く前のグラタンのようだ。これから灼熱のオーブンで炙られ、骨までどろどろに溶かされそう。どろどろの中で私は蠢く。どろどろは私を覆い、藻掻く自由すら重苦しく奪っていく。


 そして彼女は柔らかな両手で私をどろどろで包んでいく。まとめられた両の足、無防備な臍の中、無力な両腕、そして首筋。彼女の手のひらの中で私は形をなくし、どろどろに溶けていく。


 ああ、遊ばれている。まるで子供が粘土をこねくり回すように、彼女は私の身体を好き勝手に弄ぶ。柔らかな彼女の手のひらが何度も私を型どり、叩き潰していく。丸められ、伸ばされ、拗られて私は彼女の玩具という名の作品へと姿を変える。


 不意にこのまま彼女が心臓発作で倒れたらどうしよう、と考える。この秘め事を知る者は他になく、私は彼女が発見されるまでこの格好で放置されることになる。すぐ息絶えることはないだろうが、彼女の死体の下でじわじわと死の恐怖に飲み込まれていくことを考える。


 しかし、そんなことは絶対に起こりえない。何故なら彼女は私であり、私は彼女だからだ。どちらが死んでもいけないのだ。その甘やかな思考が私を更に蕩けさせ、無上の悦びが全身を駆け巡る。


 私と彼女はどろどろの中でひとつの存在になった。肌も内蔵も思考も全てがこね回され、身動きの取れない私は徹底的に彼女を受け入れるという暴力に身を任せている。彼女は丁寧に私の脚を撫で回す。その度に私はどろどろの思考の中に沈んでいく。


 ついに彼女は私の顔の上にどろどろを乗せ、更に手のひらで伸ばしていく。どんな顔で私を弄んでいるのだろう、と私は彼女の顔を思い浮かべる。彼女は耳の裏にもどろどろを塗りたくる。彼女の嘲り声にも似たぬちゃぬちゃと粘性の高い音が耳栓越しに聞こえてくる。そして彼女は熱くなった耳たぶをそっと引っ張る。私の中に彼女がどろりと侵入してくる。


 私が想像したのは彼女の顔ではなく、彼女の視界だった。芋虫のようにどろどろの中で藻掻く哀れな肉塊。形を無くして消滅しようとしているそれをこね回す白い手。彼女の視覚と私の視覚の境目もなくなる。彼女と同じく、私はこの愚かしい肉塊を汚らわしく思う。おぞましくて見たことを後悔する哀れな存在。しかし彼女はどろどろの中から絶望に沈む私を掬い出す。どろどろに溶けた思考を、肉体を、再び蘇らせんとある儀式を試みる。


 彼女は唯一どろどろに覆われていない顔の中央にどろどろの塊を載せる。鼻の中にもどろどろが流れ込み、私は呼吸の自由も奪われる。窒息の恐怖に怯え、私は身を震わせる。でも大丈夫、私は彼女のことを信頼している。私の全ては彼女に委ねたのだ。その事実がより私の頭を痺れされ、どろどろの中で私は更に輪郭を無くしていく。


 ぷふっ、と私はどろどろが除かれた鼻の穴から懸命に酸素を取り入れる。モノからヒトに戻った瞬間だった。新鮮な酸素が内側から私を私で満たしていく。顔を拭くタオルの感覚と共に彼女は私の視覚と聴覚を復活させる。


 私の浅ましい顔を彼女は覗き込む。どろどろに塗れた私と彼女の境界は再びぼんやりと溶ける。とても甘く切ない彼女の吐息が耳にかかる。よかったの、と彼女は尋ねる。私が応じる前に彼女はどろどろの身体を撫でる。まだじんわりとした余韻から抜けられない私の哀れな目を見て、彼女は笑う。それからもう一度私の耳たぶを痛いくらいに引っ張る。彼女の笑みが更に強くなった。私は彼女を抱きしめたくなった。この柔らかな存在を永久に我がものにして、同じくプラスチックのプールの中で彼女を溶かしてどろどろにしてその中で私も息絶えたい、と私ははっきりしない頭で考えた。


〈了〉

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どろどろ 秋犬 @Anoni

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