第8話 入れ子の夢
清水寺で滝を汲んで、石のあいだを目をつむったまま歩いて、産寧坂で八つ橋を買って、市内の宿にやってきた。お膳に載った晩ご飯は、食べ盛りの十代には上品すぎたみたいで、あまり評判はよくなかった。集団で女子のお風呂を覗きに行ったところを、学年主任に見つかって、私たちは早々に各自の部屋へ戻った。
枕投げに、プロレスごっこ、浴衣柔道選手権……あれほどはしゃぎまわっていたのに、夜市に出かけるころにはすっかり眠たくなっていて、露天に灯るほの明かりさえ、うるさいほどに感じられた。川上くんは重たい瞼をこすって、今は懐かしい使い捨てカメラで必死に写真を撮っていた。誰か大切な相手に、見せる約束をしているみたいだった。
バスでトランプに誘ってくれた高井くんは、大振りの黒い木刀を買って、
「ゲツガテンショウ~!」
と叫んでいる。夜のせいか、異様に面白くて爆笑した。私はポーズの指示までして、彼の雄姿を写真に収めた。宿に戻ると布団にもぐって、懐中電灯の明かりでトランプをした。光が漏れていたのか、すぐに見回りの先生に見つかって、親の仇のように怒鳴られた。なぜ生徒が夜更しをしていただけで、この人はこんなにも本気で怒れるのか。私には(川上くんにも)まるで想像できない。やはり教師もプロフェッショナルなのだ。
「川上って好きなやつとかいるの?」
素直に眠るのかと思いきや、高井くんは真暗な部屋で私に尋ねた。俺も聞きたい、ともう一人の男子も食いついてくる。
「高井は?」と訊き返すと、
「決まってるだろ」
高井くんともう一人は、気の利いた冗談を言われたように笑った。
「ああ、そっか、同じ小学校の」
早く寝ろよ、と部屋の外から、生徒指導の先生が声をあげる。私たちは水を打ったように沈黙したのち、足音が遠のいたのを確認して、囁き声でまたおしゃべりをはじめた。
「なあ、誰だよ」
高井くんが声をひそめて言う。
誰だろう、と私も他人事のように(他人事なんだけれど)一緒になって考えていると、
「岩井だよ」
川上くんが少しの沈黙のあとで言った。それは偶然にも、私と同じ苗字だった。
「誰それ?」
「何組?」
二人が口々に私に尋ねる。
「岩井。同じクラスだよ」と川上くんは言った。
「は?」
「岩井なんていた?」
「教室には数えるほどしか来てない。いつも保健室で眠ってるか、ハートルームで絵を描いてる。名簿に名前は載ってるよ」
え? と私は思った。そこで眠気の限界がきた。
胸の底で青白い伙が燃えて、鏡に映したように数を増し、さらに散り散りになっていく。四角い部屋の天井のすみ、四辺から海水が流れ込み、深く深く沈んでいく。めくるめく間に神のまにまに、意識のあわいにふんわりふわり。私は散り散りになっていく。心と体は袂を分かち、五感や思考は気ままに踊る。私は深く沈んでいく。
「どこ行くんだよ?」
無理やり起きて部屋を抜け出そうとしたら、高井くんに声をかけられた。川上くんは小さく笑って、何も言わずに通路へ出る。古びた旅館に泊まっていたはずが、外はどう見ても豪華なホテルの廊下だった。巨大な動物の背を歩くような、肉厚でやわらかな赤い絨毯、点々と足元を照らす常夜灯に、覗き込む人の後姿を映す鏡の絵、毒にも薬にもならない静かな音楽……どうも記憶が混ぜこぜらしい。
優雅な鉄柵の階段を一歩ずつおりて、眩く光るロビーに出る。緑や赤紫のクッションが載ったソファのエリアに、熱帯の植物が植わった水盤、真暗な夜を映すガラス張りの壁。川上くんは広いエントランスを通って、ビニルのスリッパのまま外へ出た。
コンクリートの突堤をとぼとぼと歩いて、あずまやのベンチに腰をおろす。寄せては返す波の音が、何かの寝息みたいで少し怖い。川上くんは平気みたいで、のんびりと物憂い気分で遠くを見つめた。夜空には水色の月が浮かんでいた。映画に出てくる氷の惑星みたいな。青い光と月光が綯い交ぜになって、揺らめく海を照らしている。なんだこれ、と私は思った。でも川上くんは、ちょっとべつのことを考えていた。あれ、カメラがない。岩井にも見せたかったのに、と思っていた。
出し抜けに、夜空を切り裂く高い笛のような音が聞こえて、月がふるふると震えて大きくなったかと思うと、そのまま海へ落ちてきた。あまりにも巨大で、眩しく、逃げることはできなかった。潰される、と思ったが、幸いにも月は海上に落ちた。助かった、と思ったのもつかの間、今度は見たこともないような高波が、私を港ごと呑み込んだ。
堪えるとか、浮かぶとか、泳ぐとか、そんな次元の話ではなかった。私は圧倒的な水の力になすすべもなく、洗濯機のなかの靴下のように、波に揉まれてもんどりを打った。大量の水を飲み、苦しくなって、人ってこうやって死ぬんだ、とむしろ潔い気持ちになったとき――、一本の手が私に差し出された。それは地獄に降りてきた蜘蛛の糸のように、儚くも美しく私の目に映った。私が握り返すまでもなく、その手は私の胸に触れ、今や記憶の世界のみにある、母の作った温かいスープのような空気を、私のなかへ送り込んだ。
私は温かい水を感じていた。ほの暗く、生ぬるい、落ち着ける狭い場所を思い起こした。体の底から快楽の芯が、何かをくすぐるように這いのぼり、次第に鋭い焦点を結んで、串刺しにしようと伸びてくる。その愉悦に、私は抗うことも逃げ出すこともできない。息が乱れ、鼓動が早まり、意識は恍惚に向かって白飛びしていく。四方の壁がじりじりと迫って逃げ場を失い、ついに身動ぎひとつできなくなったそのとき――来る、来る、来る――体の芯がひっこ抜けて、押し寄せる虚脱に体が揺れた。
……かみくん
海面に引き裂かれた陽光から、どこか懐かしい声が聞こえる。
誰だろう、とまどろみながら考える。
――川上くん? 川上くん?
「川上くん?」
はっと目覚めると、私は白いベッドに横たえていた。ここは保健室? 私の通っていた中学校の? 冬服のセーラーを着た女の子が、私の右手を握っている。艶やかな長い髪、なめらかな白い肌、吸い込まれるような黒い瞳。綺麗な子、と私は思った。右手には筆を持っていて、膝に置かれたスケッチブックには、今しがた私が眺めていた、水色の月の絵が描かれてあった。白いカーテンを揺らす晩春の風に、水彩絵の具の匂いが溶けて舞った。
「大丈夫? 息してなかったよ?」
「……ここは?」
「えー?」
彼女は少し困ったように笑った。胸の名札には〈岩井〉とある。
「……岩井?」
「あ、うん、記憶はあるよね? 体育の時間に運ばれてきて、貧血か、もしかしたら熱中症かもって話だったけど、回復したみたいで、しばらく寝てた。憶えてる?」
私は首を横に振った。
「……君は?」
「岩井だってば」
私と同じ苗字の女の子はくすくすと笑って、さっと入口の戸に視線を飛ばすと、絵の道具を棚に置いて、制服のまま私の横に来ようとした。私はさっと身を引いた。さきほどの夢の終わりに、下着のなかに何かを出してしまった感覚があった。
「どうして逃げるの?」
彼女は不服そうに眉をひそめた。
「……何か出ちゃったみたいで」
「そんなの気にしないよ」
彼女は小さく笑って、私の胸に飛び込んできた。
「これって何かの病気なのかな」
私が小声でつぶやくと、彼女は、えー? とあきれたような声をあげて、
「精通って知らないの? 保健で習わなかった?」
顔を隠すように私の胸にうずめた。私は恥ずかしさに失神しそうになった。思わず背を向けると、彼女は、うはははは、と笑って私の背中を叩いた。
これが僕たちの出会いだった。劇的な出会い、と言えなくもない。
深く、深く、散り散りになる サクイチ @sakuichi
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