第81話 閑話:シモン
音もなく粉雪が降り積もる一面の銀世界。
シモン・シャガールは凍結した湖を尻目に、激しい稽古に打ち込んでいた。
上裸で剣を振るい、封臣たちを次々に叩きのめす。真冬の寒さに心臓の鼓動ひとつで挑む彼の情熱は、一向に萎える気配を見せなかった。
気づけば騎士たちが仰向けに倒れている。
体力の限界だと 見て取ったシモンは刃引きした剣を従者に渡した。
「ここまでにしよう」
「まだまだっ!」
「意気は買うがな。休むのも訓練の一環だ」
若い騎士たちを追い払う。
ひとりになると、シモンは上裸のまま積雪へ寝転んだ。急速に汗が引いていくのを感じながら曇り空を眺める。
――ずいぶん衰えた。
己の記憶する最高潮の足元にも及ばない。
体力も、技量も、読み合いも、反応速度も。
頭ではわかっているのに体がついてこない場面が増えた。最初に違和感を覚えたのは、クラトゥイユ領での魔物狩りに従事したときだ。
原因はなんとなくわかる。人生そのものを引っ張っていた復讐心が大いに満たされ、糸が切れたように力が湧かなくなってきたのだ。
マルクの拷問も最初のうちは娯楽だった。
だが、今では気力を奮い立たせる儀式に近い。
別にそれでもいいじゃないか。
先日までの自分なら、きっと笑いながら自分のダメさを認めたに違いない。
「ちくしょう! やめだやめだ!」
雪を握って顔にこすりつける。
唐突に古い記憶が蘇ってきて思わず笑う。
22年前にもこの場所で同じことをした。
まだ両親が存命だった時期の話だ。
向こう見ずだった自分は従兄とくだらない我慢比べをして、ほとんど裸のままで雪の野外を駆け回った。風邪を引くからやめなさいと怒られても聞く耳を持たず、結局、ふたりして高熱を出し、苦しみながらこっぴどく説教されたのだ。
喉と腹が疲れるまで笑い、ふと考える。
――子供の頃、自分はどんな騎士になりたかっただろうか?
日々を雑に過ごしているうち、決意の思い出すら薄れている気がする。酒のせいだろうか? それとも加齢のせいだろうか?
きっとどちらもだ。
シモンは体を起こし、背中の雪を払った。
ここ数年、どうもしっくりこない。憎悪と泥酔による感覚のズレを差し引いても、万全な快調というものを感じた覚えがない。
28歳を超えたあたりから、あらゆる感覚が鈍ってきた。
10代のときは、そよ吹く風が肌を撫でるだけでも特別に感じていたものだ。毎日、毎朝、己が世界の一員として独立的に存在しているのを実感していた。
それが歳を重ねるにつれて、どんなに素晴らしい瞬間も、何気ない喜びも、徐々に徐々に、当たり前すぎて何も感じない、取るに足らない瞬間に成り下がっていく。
世界そのものに埋まったというか。
自分が溶け出して背景になったというか。
32歳の自分はすべてが希薄で、もはや生きているのかすらあいまいだ。
シモンはこの現象を、共鳴が薄まると表現していた。
慣れきって、雑になり、厚かましくてものぐさな人間になっている。
子供の目線で胡散臭く思っていた、ダメな大人そのものになっている。
どんどん望まぬ自分になり果てている。
別にそれでもいいじゃないか。
先日までの自分なら、きっと笑いながら自分のダメさを認めたに違いない。
今は違う。
それではいけない。
いいわけがない。
抗わねばならない。
自分の人生を取り戻さなければ!
シモンは手あたり次第に雪を投げ、意識が変革したきっかけに心を巡らせた。
◇
「エストケ城を包囲した?」
騎士たちが拍子抜けする。
「はい。シモネス公におかれては、独自の判断で動いてもらいたいと」
「わかった。エストケ公には背中を任せると」
「伝えます……お互いに健闘を!」
フェルタンを敬称で呼ぶと、使者は嬉しそうに去っていく。彼が旗主に任命される内意は、すでにエストを通して伝えられていた。
「馬に乗れ! ケアナ公と合流する!」
遊撃部隊だったシモン隊が移動を開始する。
道中、森や街道の影から多くの視線を感じた。焼け出された民が不安そうに部隊の様子をうかがっている。自然、手綱を握る左手にも力が入った。
民衆のすがるような、はたまた諦めたような空気に、言葉にしがたい感情を抱く。
シモンは部隊の速度を緩め、
「シモン様?」
「フロランは」
「?」
「60年以上も恨みを抱え、ついには晴らせる機会すら失った」
「はあ」
「俺にはわかる。どれだけ暴れようと、やつはちっとも納得していないだろう」
己の身になぞらえれば簡単な話だ。
シモンが最も復讐を望んだ相手はマルク夫妻。
仮にガストンやボルダンを引き渡されたところで、少しも嬉しくなかったはず。
「気を引き締めろ。敵は強いぞ」
「胸に刻みます」
もし、あのまま恨みを晴らせなかったら?
自分も暴挙を起こしていただろうか?
フロランの恨みの力はいかほどか?
身震いをごまかすように叫ぶ。
「ヴェルデンの民よ! 俺はシモン・シャガール、北部シモネスの旗主である!」
朗々と響き渡る声。
民衆が木々の裏や、道の物陰から出てきた。
「お前たちは俺の仲間だ! 深い怒り、消えない憎しみ、果てのない恨み! すべてをこの剣に託せ! さすれば必ず敵軍を討ち果たし、皆の無念を晴らしてこよう!」
剣を前へ掲げて進む。
「西へ向かえ! エスト卿が救ってくださる!」
民衆は呪いの力を託すかのように、次々とひれ伏し、後から後から声援を送った。
ユリアーナ隊と合流し、さらにケアナ城からの増援を加えて290人になった。
300対290。十分に戦える兵力差だ。
しかし、ユリアーナは敵に仕掛けない。
一定の距離を保ちながら追跡しつつ、睡眠妨害などの小細工に努めている。
「らしくないですね」
軍議の場、シモンは彼女と対峙した。
「決戦しましょう」
「なりません」
「このまま民を見殺しにしろと?」
「閣下の命令です」
ユリアーナは硬い表情で断った。
「なるほど……餌を与えて敵を誘い、確実に仕留める作戦ですか。閣下は相変わらず思い切ったことを考えさなる」
「いえ、別にそういうわけでは」
「ですがね。我々も紙の上の数字ではない」
シモンは背後を指差した。
「沿道で凍える民が、焼かれた村が見えないのですか!? 今ここで剣を抜かない者に、騎士を名乗る資格はありません!」
「主張は分かりますが、敵はフォルクラージュの騎士。気合だけで勝てる相手では」
「我々ヴェルデンにはケアナの白鷲が」
今度は目の前の女騎士を指さす。
彼女は首を縦には振らなかった。
「……とにかく、今は静観を続けます」
「いつまでです?」
「ガルドレードに騎士が集結次第、増援と敵を挟んで数の有利を作ります」
「なら待ちましょう。来年の年明けまででも」
シモンは自分の隊へ戻る。
「それでは遅い。遅すぎる。同胞たちは今すぐ助けを必要としているんだ!」
彼は己の隊へ戻ると騎士を集めた。
「ケアナ公はまだ戦わんのですか?」
「そうだ。だから我々は独自に動く」
誰かが口笛を吹いた。
軍令違反は死罪に問われる可能性もあるからだ。
「死に方は自分で選ぶ。不服な者は残れ」
騎士たちはくぐもった笑いを生んだ。
「我らが臆病者だとでも?」
「ちょうどいい。クルマル家にだけいい恰好されて困ってたんだ」
「ヴェルデンの騎士はケアナ公だけではない」
「セドリック殿だけでもない!」
「北部の意地を見せてやりましょう!」
示し合わせて円陣を組み、合意を形成する。
シモン隊は早めに休み、夜中にこっそり出発した。
空が白んできた夜明け、彼らは略奪されている村々へたどり着く。
「老人の朝は早いらしい」
「配下は寝ぼけ眼でしょう」
「ならば我らが起こしてやるか。突撃だ!」
40人の騎士が全力で村へ飛び込む。
フォルクラージュの兵は、敵が決して攻めてこないと考えていたらしい。すっかり油断しており、突如現れた敵襲に混乱した。
「道を空けよ! シモネス公のお通りだ!」
「我が剣と誓いにかけて! シモン・シャガールが略奪者を殺す!」
馬に乗ろうとする敵を次々に斬り捨て、一直線に村を抜ける。隊列を組み直して再突撃すると、残党を突破した辺りで村々に敵の角笛が 鳴りわたった。
「平民ども、森を伝って西へ逃げろ! ケアナの白鷲が助けてくれるぞ!」
民を逃がして村から去る。
前方ではあちこちから湧いてきた敵が集結し、軍として動き始めていた。
「あちらも逃げるばかりで飽き飽きだろう。今日は我らが引きずり回す番だ!」
シモンたちは小勢の強みを活かし、小回りを利かせて逃げ回る。しびれを切らした敵が少数で追撃すると物陰で待ち伏せて叩き、またすぐに逃げる。
コバエのように飛び回っていたが、道が雪に埋もれていたために方向を間違え、袋小路に追い詰められてしまった。
「どうします?」
「降伏はしない。退路がないなら前へ進むのみ」
出口に260人近くの敵がひしめいている。
ここが死地なのは明らかだった。
突破を諦めたシモンは、生き残った25人の騎士を横に並ばせ、馬を駆ってひとりひとりの槍に剣を打ち合わせた。軽快な音がリズミカルに鳴る。
「北部の騎士よ、勇気を示せ! 我らがひとり殺すたび、同胞の敵が減る! 我らがひとり死にゆくたび、故郷と家族が名誉を得る! 父祖に武勲を自慢するぞ!」
騎士たちはゆっくり馬を発し、やがて速度を上げて敵へ斬りこむ。
接敵の瞬間、妙なことが起きた。
後方にいた敵の主力が一気に移動を開始したのだ。
残されたのはおよそ30人ほど。
「ナメやがって!」
ヴェルデン、フォルクラージュ、両家の騎士は激しく衝突する。お互いの馬体がぶつかり、骨折の音や血しぶきにいななきが重なり、次々に地面へ転げ落ちる。
両軍は馬を捨てて徒歩で殺し合った。
シモンたちは内心で焦る。フォルクラージュの騎士たちは想像以上に強い。
見たところシモンに並ぶ腕前の者はいない。彼ひとりなら3人相手でも勝てるが、全体的には、ほとんどの味方よりも敵のほうが達人で連携も取れている。
このままでは負ける……!
末路を悟った味方のひとりが敵の兜へ雪を投げた。視界を奪われた敵の動きが鈍った瞬間、体当たりを決めて体勢を崩す。
「卑怯だぞ!」
味方は次々に同じ行動を始めた。
「シモネス公!」
要するに、敵の動きを封じているうちにシモンが少数の敵を倒せ、というわけだ。理解した彼は、隙を見つけては敵を殺していく。
「くそっ、こちらも雪を!」
敵も雪玉を投げ始めた。
四方八方からシモンめがけて飛んでくる雪を、味方が盾で防ぐ。
数十キロの鉄の塊を着用したまま全力で雪玉を投げ合うのだ。そのうちお互いに疲弊して、攻めかかっても逆に討ち取られそうなほどになった。
どちらからともなく休憩時間となる。
騎士たちは互いを警戒しながらせっせと雪玉を作った。
やがてやんわりと戦いを再開。
雪玉を投げながら隙を見て殺し合い、数を減らしてまた休憩。
実質的な少数戦闘だけに決着が見えない。
シモンは愕然としていた。
息が切れる。想像以上に動けない。
持久力がまったく足りない。
なんだこれは?
なんだこれは!?
頭と気持ちに体が全然ついてこない!
端から見れば、もはや老人の喧嘩である。
そんなことを繰り返しているうちに、 敵の背後で雪煙が巻き上がる。味方は絶望しかけたが紋章を見て色めき立った。
「フォルクラージュの騎士よ、フロラン卿は敗北して捕虜になった。このうえは貴公らも潔く降参なされよ!」
決戦に及んだユリアーナの使者だった。
◇
シモンはその辺の雪を口に運び、咀嚼してから“ぺっ”と吐き出す。
……勝ちきれなかった。
確実に勝利を飾らねばならない場面で。
世間では独断専行から始まる一連の流れを“シモネス公の雪合戦”などと持てはやしているらしいが、はっきり言って恥の上塗りだ。
雪合戦なんてあだ名は断固拒否したい。
生き残った12人、全員の総意である。
こんなはずじゃなかった。
自分はもっとやれるはずなのに。
世間に背を向けているうちに、信じられないほど弱くなっていた。
13年間をドブに捨てた結果と直面し、シモンの中に焦燥感と危機感が芽生える。
自分はどんな騎士になりたかっただろうか?
少なくとも、こんなダサい騎士ではない。
自らに怒りを感じると同時に、長いこと他人事だった意識が現実に戻ってきた。
「このままじゃダメだ。本当の俺に戻らないと……!」
そして汚名を返上してみせる。
シモンは人生の再始動を固く決意すると、立ち上がって城まで走るのだった。
俺の悪党貴族転生! ~処して殺して戦って~ 杷礼務 仙人 @remember2009
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