師匠はどんな輩に言い寄られても愛弟子しか目に入らない!
やなぎ怜
師匠はどんな輩に言い寄られても愛弟子しか目に入らない!
寝起きに、鎧戸を開けばすがすがしい朝日が差し込んできた。寒さも和らいだ春の暖かさの中で、ヴィルトは朝の空気を吸い込む。ベッドシーツを整えると、姿見の前に立ち入念に身だしなみをチェック。見苦しくないことを確認してから、ようやく寝室を出る。
階段を降りてすぐの広くないリビングルームに入り、台所に顔を出す。かまどの前にはヴィルトよりずっと背丈が小さく、華奢な四肢の少女が、黒いエプロンをつけて立っていた。
「おはよう、愛弟子っ♡」
お定まりの朝の挨拶をしたヴィルトは、己の口から出た言葉の、そのあまりに甘い響きと、盛大に跳ねた語尾に気づいて「キモくなかったかな……」と心配になった。
世間的には若輩であるヴィルトであったが、まだ少女である愛弟子――チルルからすれば「オッサン」として扱われてもおかしくはない年齢であった。そして得てして「オッサン」というものは、うら若き少女たちからは煙たがられ、気持ち悪がられるものだろうとヴィルトは思っていた。
「おはよう師匠」
チルルは、ヴィルトが内心で――勝手に――冷や汗をかいていることなど知りもしない顔で、かまどから視線を外して振り返り、挨拶を返す。それは非常に平坦な声音だったが、別にチルルは師を疎ましく思っているわけでも、呆れているわけでもないことは、ヴィルトにはわかった。
いつだってチルルは無表情で、無感動的な態度で、無感情的な言葉を連ねる。しかしそれはチルルが厭世的に、意図して取っている態度ではないことをヴィルトはまた理解していた。
捨て子だったチルルは、感情を押し殺し、心を鈍麻させることでどうにか路傍で生きていた。ヴィルトに拾われて弟子になった今では、もはやそうする必要はないとわかってはいても、簡単に変わることはできないわけである。
これでも、以前よりは表情豊かになった――とヴィルトは思っている。それは決して師匠の欲目ではないはずだ。少しずつ、チルルは人間らしい感情の発露を取り戻していっている。
「今日はソラマメのスープだ」
椀にスープをつぐ愛弟子の小さな背中を見て、ヴィルトは自然と笑顔になる。穏やかな一日の始まり。色づいた毎日。ヴィルトは、自分が弟子を取るなんて少し前までは考えられなかった。そして、純情と不純の狭間で激しく揺れ動くことも。
熱いスープをひとくち胃に入れ、堅い黒パンを椀の中へと浸しつつ、今日の予定について話す。
ヴィルトは、錬金術師だ。と言っても黄金を作り出すようなたいそうな野望は、持ちあわせていない。せいぜい生きるために最低限の薬品を調合して、村々で売り捌く、半隠遁生活を送っていた。
鬱蒼と木々が生い茂る陰鬱な森の中で、チルルとふたりで暮らしているヴィルトであったが、これでも昔は宮廷に出入りをするような身分であり、「天才」という呼び名をほしいままにしていた。
だがそれも今は昔。様々な事情あって、今は宮廷とも俗世とも距離を置き、弟子を取ることもなくひとりで隠棲していたわけであるのだが……。
今は――
「危ない師匠」
「あっ、ありがとう愛弟子……!」
「雨が降ってそう時間が経っていない。足元には気をつけて」
ぬかるみに足を取られて体が傾いたヴィルト。その、男にしては頼りない腰に、さっと腕を差し入れてスマートに支えるチルル。ヴィルトは、チルルとの距離が急接近してにわかに鼓動が跳ね始める。うら若き花盛りの乙女のように恥じ入って、頬に朱を差す。
……なにを隠そう、今のヴィルトは、この小さな愛弟子に夢中だった。
夢中だったから寝起きて寝室から出るまでたっぷり時間をかけるし、不細工な寝顔を見られたくなくてできる限り早く起きるようになったし、それらしい理由をでっちあげて愛弟子を自身の寝室へは実質出入りを禁じている。
前までは本当に限界ギリギリの、「慎ましい」とは物は言いようの生活を送っていたが、チルルを弟子に取って同居するようになってからは、生活費のために精力的に薬売りをしているし、錬金術師らしい活動を再開した。
すべては、愛弟子であるチルルの目に、「カッコイイオトナ」として映りたいがための行動だった。
しかしヴィルトは悲しいほどに奥手だった。「師匠という立場を利用して手籠めにしてやるぜグヘヘ」みたいな発想すらできないほどにウブだった。
「師匠、薬草の群生地まではまだ遠い。また転びそうになったら大変だから手を繋ごう」
そしてチルルの頼もしい言動にいちいち胸をドギマギきゅんきゅんさせている、恋する乙女もかくやのロマンチストだった。幼少期から錬金術だけを追っていた弊害である。
チルルと手を繋ぎ、目をつけていた薬草の群生地を目指していたヴィルトだったが、にわかに一陣の風が吹くや、気がつけば宙を飛んでいた。――正確には、空へと攫われた格好である。
「やだ~ビックリしている顔もイケメーン!」
ヴィルトを中空へと攫ったのはホウキにまたがった魔女であった。初めて見る顔で、ゆえにもちろん言葉を交わした覚えもない。これはヴィルトの記憶力が悪いとか、そういう問題ではない。
魔女は偶然見かけたヴィルトに惚れたのだ。一方的に熱を上げて、こうして拉致に及んだのだ。
ヴィルトには、よくわかった。なにせこのような展開は――幼少期から両の手足の指では数えきれないほど経験してきたからだ。
この世界に生まれ落ちた人間は、みな大なり小なり神の加護を持つ。しかしそのていどは個人差が激しい。神様の仕事というものは、かなり雑なのだった。
そしてヴィルトも例にもれず、神様の雑な仕事の餌食となった人間のひとりであった。
ヴィルトに加護を与えたのは、愛欲の女神。その加護はことのほか強力だった。ヴィルトは、愛欲の女神の機嫌がいいときに神の国を旅立ったのだろうと言われたが、ヴィルトからするとハタ迷惑なことこの上ない。
なにせ、その加護の効用は「魅了」なのだ。老若男女だれかれ構わずその心を奪ってしまう、非常に厄介な加護だった。
ヴィルトが宮廷から逃げるようにして半隠遁生活を送っているのも、おおよそこの加護のせいだった。
神様の仕事は雑だったので、ヴィルトの周囲にいる人間をひとり残らず魅了するほどの力は与えられなかった。ゆえに魅了の効能が発揮される場面にはムラがあり、魅了の効能の餌食になった人間はヴィルトに熱を上げ、運よくその効能から免れた人間は、ヴィルトの悪口を叩くのに余念がなかった。
必然、ヴィルトは錬金術師として将来を嘱望されながらも宮廷で肩身の狭い思いをすることになり、結局は逃げるようにしてこの田舎村の外れにある森へ隠棲するようになったのだ。
ヴィルトは己の魅了の効能をコントロールしようと努力した時期もあったが、いくら雑でも相手は神の仕事である。たかが人間の手の及ぶ領域ではないと悟るのに、そう時間はかからなかった。
そういうわけで、ヴィルトを拉致した魔女は、ヴィルトの魅了の加護の哀れな犠牲者だろうことは想像に難くなかった。
魔女に薪でも運ぶかのごとく小脇にかかえられたまま、ヴィルトは身をよじってみようとしたが、場所が上空であることを思い出し、動くのをためらった。
そうしているあいだにも、魔女はなにやら熱烈な言葉をヴィルトにかけながら、ぐんぐんとまたがったホウキを上昇させていく。
しかし――ヴィルトは気づいた。なにやらヴィルトの視界で豆粒ほどの大きさになった愛弟子との距離が、まったく開いていないことに。
やがてチルルが魔女が飛ばしているホウキと、同等の猛スピードで追跡している、ということに気づいた。
とうてい人間業ではないが、しかしチルルは――
「えっ?!」
地上で魔女を追い越したと見えるや、やにわにホウキで空を飛ぶ魔女の前に現れた。少なくとも、魔女には急にチルルが目の前に現れたように見えた。
だがヴィルトは一部始終を見ていた。チルルが地上で屈伸するような動きを見せるや――魔女が飛んでいる高さまで飛び上がったところを。
「ギャッ」
中空にいるとは思えない動きで、チルルは魔女のみぞおちに蹴りを放った。その衝撃は、魔女の小脇に抱えられていたヴィルトにも伝わるほどのものだった。魔女の右手がホウキの柄から離れる。チルルの蹴りの衝撃に引っ張られて、魔女の体が吹き飛び、左腕に捕らえられていたヴィルトの体は宙に投げ出された。
しかしなんの支えもなく放り出されたヴィルトの体は、すぐにチルルに抱き寄せられた――お姫様抱っこの形で。
チルルに抱きかかえられたまま、ヴィルトは落下を経験する。恐怖はなく、ただ間近にある愛弟子の顔を吸い寄せられたかのように見続けることしかできなかった。
やがてチルルが地上に着地する。衝撃はすさまじかったものの、ヴィルトに怪我はなかった。また、遠くで森の木々に突っ込むように落ちる魔女らしき音が聞こえたが、ヴィルトはそのことに意識を避けるほどの余裕はなかった。
「師匠、無事?」
「う、うん……♡」
ヴィルトの喉から、甘くかすれた声が出てしまうが、ヴィルトはそれにあれこれと気にかけられるほどの冷静さはなかった。チルルに助けられた上、お姫様抱っこまでされて、まるで壊れものでも扱うかのように優しい手つきで地面へ足を下ろしてもらったのだ。もうヴィルトの心の中にいる恋する乙女は大騒ぎである。
「ハッ――愛弟子は?! 怪我はないか?!」
しかしかろうじて、師匠としての、大人の男としての意識を取り戻す。自分より小さな背丈のチルルを見やるが、彼女も怪我の類いは一切していない様子だ。
「だいじょうぶ。加護があるからそう簡単には傷つかない」
どこか誇らしげな顔で言い切ったチルルに、ヴィルトはホッと安堵に胸をなでおろした。
そう、チルルももちろんこの世界に生まれ落ちた人間であるから、神の加護を持っている。ヴィルトとは違い、武神の加護を持っているのだ。かつてのチルルはその力を使って悪漢の用心棒をしていたのだが、ヴィルトと出会って――正確には助けて、礼をしたいと言うヴィルトに乞うて弟子にしてもらったという経緯がある。
もちろんヴィルトとて愛弟子の加護がどういうものであるか知ってはいた。しかしここまでのものだとは思っていなかったのだ。チルルはもはや悪漢の用心棒として力を振るう必要性がなかったので、彼女が他者を暴力で制圧する姿を見るのは、ヴィルトにとっては二度目になる。
「……師匠」
「――え、なに?!」
ほかごとに気を取られていたヴィルトは、チルルから名を呼ばれてようやく我に返る。チルルはそんな風にうわの空だった師の態度をどう受け取ったのか、どこか叱られるのを恐れるような、年相応の顔で言う。
「……本当は、この加護の力はもう使わないつもりだった。でも、師匠を助けるためとはいえ、使ってしまった……」
「愛弟子……。愛弟子が後ろめたく思う必要はない。……でも、どうしても罪悪感をもってしまうのなら、私も背負おう」
「……師匠が?」
「私を助けるために加護を使わせてしまったわけだし……」
チルルは大きなまなこをパチクリと瞬かせた。
それから――
「ありがとう、師匠。師匠の言葉で胸の中にあった重いものがすこし軽くなった。……やっぱり、師匠はすごいな」
今の彼女ができる、精一杯の微笑みを見せてくれたのだった。
いつもは無表情なのに、頑張って口元を持ち上げて、笑みを見せてくれている――。それだけでヴィルトの心の中は、それはもうお祭り騒ぎであった。
「師匠、さっきみたいにさらわれたら困るから、やっぱり手を繋ごう。今度はなにがあっても手放さない」
そしてその大騒ぎなヴィルトの心へ、追い打ちをかけるようなチルルの言葉。ヴィルトは口元がだらしなくゆるまないように力を込めて、余裕のある「カッコイイオトナ」ぶった微笑みを浮かべて「よろしくたのむよ」と愛弟子の手を取った。
――師弟以上、恋人未満。超奥手なヴィルトと、その手の話には超鈍感なチルルの関係は、まだまだ変わりそうにはないのであった。
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