たちあおい⑦
部屋には降り続く雨の音だけが響いていて、椿も悠介も、お互いに何を言って良いのか分からなかった。
「あの……」
その沈黙を破ったのは、聞き逃してしまいそうなほどか細い声だった。もし、ここにもう一人別の誰かがいたならば、椿は誰が言ったのか分からなかったかもしれない。
「調子、どうですか?」
控えめな声に、思わず吹き出してしまう。それは、どこか安心してしまういつも通りの声音だったからだろうか。それとも、想像していた言葉とは違うかったからだろうか。椿本人でさえ、それは分からなかった。
「良いと言えば良いけど、悪いと言えば悪い、かな?」
「なんですかそれ」
悠介も笑う。二人の間にはわだかまりは当然横たわっていて、それに対する違和感は拭えないけれど。それでも、お互いに話そうという意思があることはちゃんと伝わった。だから、椿は言わなければならないと思った。本当の、気持ちを伝えるために。
「私ね、手術受けることにしたんだ」
「同じクラスの、美術部のヤツが教えてくれました」
悠介が目をそらして言った。ぶっきらぼうなその物言いが、不器用な彼らしくて椿はほほえましかった。
「そっか……」
それ以上は続けず、椿はベッドにゆっくりと倒れ、そのまま目を閉じる。暗闇の中にあるのは雨の降り続く優しい音色と、彼の緊張した息づかいだけ。
「決心できたのは、あなたのおかげ。感謝してる」
それは同時に、恨んでも、いるのだけれど。だから、全てが終わってから、あなたに怒りをぶつけてしまった日から、自分が考えてきたことをゆっくり伝えようと思う。
「あ、あのっ……俺……」
「言わないで。あなたは何も悪くないんだから」
その言葉に悠介は声を詰まらせる。その言葉を言わなければならないのは椿本人だと自覚していた。
「あなたの気持ちを少しも考えずに怒鳴ってしまって、ごめんなさい。こんなわがままな私だけれど、また話をしてくれるかな?」
「良いんですか……?」
「質問してるのは私なんだけど?」
椿は軽く握ったこぶしを口の前に置いて、朗らかに笑う。それは椿自身でさえ驚くような暖かい気持ちが込められていたものだった。
「もちろんです!」
満面の笑みを浮かべて言う悠介に、椿は安堵の溜息を漏らす。
「いっぱい色んな所に行きましょうよ! 夏休みに秋雨神社でお祭りがあるんですよ。知ってますか?」
「学校裏の?」
「そうです! そこです!」
彼の純粋な瞳には涙が溜まっていて、必死にこらえているのだとわかった。あぁ、この人は本当に私のことを思っていてくれているのだな。椿はそのことが、ただただ素直に嬉しかった。
「お祭りかぁ……」
幼い頃に両親や友人。幼馴染みと何度も訪れたその祭りを思い出す。高校に入ってからは一度も訪れられなかった空間。そこに再び行こうと誘ってくれた彼の心に、自然と胸があたたかくなった。
「行こうか。二人で」
だから、椿も自分の今できる最上級の笑顔で彼の気持ちに答えた。
「頑張るからね」
「はい」
悠介は目に涙をためつつも、真剣な面持ちでその言葉を受け止める。彼女の決意を深く心に刻み込むように。
「手術が無事終わっても、リハビリなんかでしばらくは会えないと思うの」
「お見舞いは……」
「もちろん禁止」
悪戯っぽく笑って、彼の言葉を遮る。意地悪だと思う? それでも、ごめんね。
「私、自分が弱っているところを見られるのは苦手なの」
だって、私が大切に思うあなたの前では、強がっていたいもの。精一杯、笑っていたいもの。あなたにだけは、綺麗だって、思われていたいもの。
「だから、手紙を送って欲しいな」
「手紙……ですか?」
「そう。手紙」
機械のそれとは違う、温もりのあるもの。彼の体温を感じることはできないけれど、彼の心は感じられる。
「私、手紙が好きなの」
――だから、どうか。
悠介は徐々に顔をほころばせると、力強く頷いた。
「書きます……俺、いっぱい書きます!」
「私なんかのわがままにつきあってくれて、ありがとう」
病室という名のこの宿はあなたにも、そして、私にも。きっと、今は必要がない場所。
「この長雨がやんだら、また会いましょう」
五月雨がやむまでここであなたと話していたいけれど、それは叶わないことだから。なら、せめて雨があがったときのことを。訪れるはずの未来を思わせて欲しい。だって、願ったところで雨は必ずやんでしまうもの。それならば、雨が上がった後のことを考えた方が楽しいでしょう?
「はい……約束ですよ」
「えぇ、もちろん。私、昔から約束はちゃんと守る女だから」
悠介はその言葉に明るい笑みをこぼす。それにつられるように椿も微笑みを浮かべた。
「それじゃあ、雨がやむときに」
どちらともなくそう言って、笑い声を上げる。
梅雨明けはきっと、もうすぐそこにある。
〈了〉
たちあおい 海 @Tiat726
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