たちあおい⑥
あれから数日が経った。あの日以降、悠介は一度も病室には現れなかった。そのことに安心する反面、どこかうら寂しさを感じていた。
「先生。私、手術を受けます」
毎日の検診とは違い、三日に一回のペースで行われる担当医の検診中、椿は呟くように自らの決めたことを伝えた。
「分かりました」
まだ若い担当医はカルテに何かを書き込みながら、神妙な面持ちで頷いた。
手術を受ければ、死ぬかもしれない。それでも、この手術が成功したら、彼に謝ろうと決めたから。頑張ろうと思った。生きたいと願った。
だから、どうか神様。わがままな私を助けてください。チャンスをください。私のことを思ってくれた彼に、謝罪と感謝の念を伝えるために。
どうか――。
それから手術の日までは流れるように過ぎていった。相変わらず外は雨景色が続いていて、雨がやんだとしてもどんよりとした雲が空を覆っていた。
「調子はどう?」
着物に身を包んだ母が、心配そうに尋ねる。梅雨特有のじめじめとしている気候でも着物に身を包んでいる辺り彼女らしいなと思う。反対に父は無地の白いポロシャツに黒のスラックスと無難な格好で訪れているのも彼らしいと思えた。
「大丈夫だから。気にしないで」
雨音が淡く響く病室で、そんな静かな会話が交わされる。もうすぐ麻酔をかけられる手はずになっていて、手術前の最後のひとときをそっと過ごしていた。
控えめなノックの音が病室に響く。
あぁ、もうそんな時間なのかと椿は目を伏せる。思い返せば後悔だらけの人生だったように思う。もっとああしていれば。もっとこうしていれば。まるで海底から浮き上がってくる泡のように、懐かしい記憶が浮かび上がってきて、小さくはじける。
もし、手術が成功して生きることを許されるならば、今度は今以上に笑いたいと頭の片隅で願った。
「どうぞ」
覚悟を決め、そっと震えるまぶたを閉じながら、掠れた声で迎え入れる。未来をくれるかもしれない人を。もしかしたら、私の命を奪うかもしれない人を。
「どなたでしょうか?」
母の声が耳に届いたとき、椿ははっと顔を上げた。それは反射と言うよりも本能に近いものだったように思う。
「来てくれたんだ……」
あふれた言葉に、どうしてはなかった。それは心の何処かで、来てくれるように感じていたからかもしれない。だから今この空間にとって、これが一番正解に近い言葉だと思った。
視線の先に立っていたのは、身長が低いことを気にしていた、大切な後輩。
「お母さん。少しだけ、彼と二人きりで話がしたいの」
視線で許可を願うと、母は隣に立つ父に意見を求めた。
「少しだけだぞ」
椿の真剣な瞳に、父はそれだけ言うと呆れたような溜息を吐き出して、母を連れて病室を後にした。
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