たちあおい⑤
医者は安全だと言っていたが、それでも何かのミスで死んでしまうことはある。その確率が低いと言っても、絶対にないとは言い切れない。椿はそれが怖かった。でも、それを伝える前に悠介が口を挟んだ。
「よかったじゃないですか!」
悠介はぱっと顔を明るくさせて、シーツを握りしめる椿の手に、自らの手を重ねる。その無邪気な行動に、ぞわりと背中が粟立つのが分かる。
「よかった……? あなた本当に言ってるの?」
自分の声が震えているのが分かる。ねえ、あなたにこの恐怖が分かる? あなたの目の前にいる私が死ぬかもしれないのに、よかったと言える彼の気持ちが分からなかった。悠介。あなたは優しい人だけれど、私の気持ちは。私の不安は。伝わらないのね。
「あはは……」
乾いた笑いが、口からぽろぽろと、惨めにこぼれ落ちる。
「怖いの」
「えっ?」
彼の困惑した瞳に映った自分の姿が、酷く枯れて見えた。死が間近にある人間はこのような姿になるのかと、自嘲のような薄笑いが椿の顔に張り付く。
「死ぬのが怖いの。分かる?」
椿が強い口調で言うと、悠介はもごもごと口を動かして、その言葉に対する適切な答えを探しているようだった。
「あなたはきっと分からないわよね。私の気持ちなんて、健常者のあなたには、わかりっこないわ」
吐き捨てるように言ってから、胸が苦しくなった。それでも、言ってやらないと気が済まなかった。そんな自分が醜いと思った。頭の中で自分の声が反響して、吐きそうになった。
こんなもの、ただの八つ当たりじゃない。
「出て行って……」
掠れた声で放った言葉は、自分でもぞっとするほど冷たい響きをもっていた。悠介の顔から血の気がさっと引いていく。
「あ、あの……」
「出て行ってって言ってるのよ!」
雨音だけが病室内に響き渡る。ここが個室で良かったと椿は場違いなことを考えていた。いや、そんなことを考えなければ、彼に対する申し訳なさと自分とは違う、健康体への嫉妬で泣き出してしまうところだった。
「もう、ここには来ないで……。お願いだから……」
椿が絞り出すように告げると、今まで重ねられていた手のぬくもりがそっと離れていく。行かないでと叫びだしたかったけれど、それはただのわがままだから。それに、彼を傷つけてしまっている私には、その資格はないのだから。椿は俯いたまま、逃げるように目を強く瞑った。
「わかりました……」
やがて荷物を背負う衣擦れの音が聞こえたかと思うと、出口へ向かう靴の音が聞こえた。それから、引き戸を開ける情けない音。
これでよかったのだと自分に言い聞かせる。あなたはこれから死に逝くかもしれない、特に血縁関係もない人間のことなど、忘れてしまえばいいのだから。人の優しさを踏みにじる最低なやつだったと、憎んでくれても構わない。それでもどうか、幸せになって欲しいと願う。愚かな私の分まで、どうか。
自業自得なのに、涙が後から後から溢れ出す。嗚咽を漏らしながら、自分のした行為と、彼の気持ちを考える。こんなことをしたかったわけではないのに。本当は自分の気持ちを全部伝えて、同意の上でこの病室に来ないようにお願いをするつもりだったのに。
「さいってー……」
そう呟くと、胸の奥に先程とは違う痛みが走る。病気のそれとも違う、苦くて切ない痛み。
この痛みは彼の心を踏みにじったことに対する、罰なのだろうか。
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