たちあおい④

「その花、どうしたんですか?」


 聞こえてきたその声に、椿は夢の中から現実に引き戻されるような心地がした。声の主である悠介に視線を向けると、彼は不思議そうな表情で、花瓶の中で色鮮やかに咲いている紫陽花を見つめていた。


「あぁ、これね。部活の友達と幼馴染みが届けてくれたの」


 ぶっきらぼうで、あまり自分の事を話したがらない幼馴染みと、自分とは違う天真爛漫という言葉がぴったりな友人を思い出す。恐らく無理矢理連れてこられたからだろう、幼馴染みの彼はいつも以上に不機嫌そうな表情を浮かべていた。そんな彼の様子を友人は茶化して椿に笑いを与えてくれた。


 彼女と出会っていなければきっと、引っ込み思案の私は今の部活に入れていなかっただろう。それ以上に、部室となっている美術室にも今のように顔を出せていなかっただろう。


「そう言えば椿さん美術部でしたっけ?」


「えぇ。全然行けてないけど、一応ね」


 少しだけしか行けてないにもかかわらず、部員は椿が訪れると暖かく迎え入れてくれた。後輩たちも時々だがお見舞いに来てくれる。


「絵が好きなんですか?」


「描く方はそこまでなんだけど、昔から絵を見るのは好きだったの」


 幼い頃に買って貰った西洋画の画集に心を奪われた。その中でも特に心惹かれたのはフェルメールが描いた『絵画芸術』という一枚の作品だった。すぐ目の前にあるのではないかと錯覚してしまうほど細かく、そして鮮やかに描かれたそれを、毎日毎日飽きもせずに眺めていた。そのせいで画集はもうぼろぼろになって表紙を開くこともままならないけれど、部屋には商店街の一角にある雑貨店で見つけたポストカードを写真立てに入れて、今も大切に飾っている。


「そう言えば悠介は部活には入ってないの?」


 ベッドに横になりながら、ふと気になったことを尋ねる。学校の様子はよく聞いていたが、彼の部活のことは一度も耳にしたことがなかった。


「いや、入っていると言えば入ってるんですけど……」


 歯切れの悪い言葉に、椿は首を傾げる。言いにくい部活にでも入ったのだろうか。そんな変わった部活はうちの学校には無かったはずだけれど……。


「友人が作った同好会に名前だけ所属してるって感じです」


自分で同好会を立ち上げる。それは自分の中には無かった考えで、少しだけ彼の友人が羨ましくなった。


「どんな活動をしてるの?」


「活動……ってのは実はよく分からないんですよね。人数合わせで入っただけですし。俺は自分が何をしたいか決めかねてるうちに他のに入り損ねちゃっただけです」


「なら、その友人さんのサークル活動に参加しちゃってもいいんじゃない? こんな陰気くさい場所に来るよりもそっちで活動してる方があなたにとって有益だと思うけど?」


 声が少しだけ意地悪くなっているのが自分でも分かった。それでも、ここに来るよりもと思ったのは紛れもない椿の本心だった。病人のところにわざわざ来る必要なんてないのだから。


「い、いや陰気くさいだなんて……。俺はここに来るの……楽しいんで」


 どんどん尻すぼみして行くその声に、椿はけらけらと明るい笑い声を上げた。


「お世辞でもそう言ってもらえて良かった。私もあなたと話すのは楽しいから」


 椿は満足げに言って、視線を窓の外に投げた。どうやら雨はいよいよ本降りになっているらしく、窓を打ち付ける雨脚が、室内にも強く響いていた。


「雨、強くなってきましたね」


 悠介がぽつりと呟いたその言葉に、椿はゆっくりと頷いた。胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚がして、そっとシーツの端を握る。


 あの話を、言わなければ。


 ずっと先延ばしにし続けた、あのことを。


「あなたがここに来るのは、今日が最後になると思う」


「……えっ? どういうことですか……?」


「そのままの意味よ」


 椿はそっと目を伏せて言葉を探す。なんと言えば彼を傷つけないだろうかと考えを巡らせるが、結局どう言ったとしても結果は変わらないのだと諦める。だから、正直に話すしかないと思った。


「私が特発性心筋症で入院をしているのは前にも話したでしょ?」


 その言葉に悠介は重々しく頷く。どこまでも真剣なその目が、私のことを心配してくれているのだと、少しだけ椿を安心させた。それでも、怖かった。口にしてしまうと、心の何処かで拒絶していた事実を、受け入れてしまうような気がして。きつくシーツを握りしめる。自分の黒髪に相反するように白い肌。日に焼けてない、見ただけで病人と分かる青白いその色が憎かった。


「ドナーがね……。見つかったの」


 それは言い換えてしまえば手術をしなければいけないということだった。最初は薬で症状を抑えていたが、発見が遅かったこともあり、心臓移植のドナーが見つからなければ人工心臓でしか回復の見込みがなかった。今回は運良くドナーが見つかっただけという話だ。

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