ハートビートをさらって。

瀬名那奈世

ハートビートをさらって。

【ハートビート(heartbeat)】

 コンピュータやネットワーク機器などがアクティブである(生きている)ことを確認するために定期的に外部に向けて送信する信号やパケットのこと。



     *



 もし私が死んだら誰が最初に気づいてくれるだろうか、という他愛もないことを眠れない夜に考えるのが、いつの間にか癖になっていた。そしてそんな時、私の頭の中に浮かぶ死に方は様々だ。アパートの外階段から落ちて頭を打つかもしれないし、風呂で足を滑らせてバスタブいっぱいに張ったお湯で溺れるかもしれない。もし寝ている間に充電コードが首に絡まったら? 戸締りをし損ねて強盗が入ってきたら。まかり間違って台所にある包丁で自分の胸を刺してしまったら……と、大体この辺まで考えて、私は自分で自分の思考の埒の明かなさに閉口し、のそのそと布団から這い出てコートを羽織る。厚手の靴下を履く。さらにその上から、パジャマには不釣り合いな運動靴を装備する。



 丑三つ時の満月は高い。一人暮らしをしているアパートから十分ほどの距離にある公園を目指して、月明かりが照らす細い道をてくてく歩く。泣き叫ぶ赤子のように耳元で騒ぐ風の音を聞いて、どうやら今夜はずいぶん寒いらしいとひっそり気づく。実感はない。寒さを感じるための肌の感覚は、ずいぶん前から鈍ってしまっている。



 てくてくてくてく、とにかくゆっくり歩くものだから、徒歩十分の公園には十五分くらいかかってようやく辿り着く。そうすると、そこそこ広い公園の真ん中、ジャングルジムのてっぺんで歌う彼女の声が、かすかに聞こえてくる。わずかな振動をとらえてようやく息ができたような心地になり、少し足早にジャングルジムのふもとまでたどり着くと、彼女は歌うのをやめて片手を上げるのだ。


 

「お姉さん、また来たの?」


 

 と。



     *



 誤解がないように言っておくけれど、彼女の歌はお世辞にも上手いとは言えない。息の出方が不安定でよく声が裏返るし、ピッチが安定しなくて頻繁に転調する上、時々信じられないようなタイミングでゲップをする。前に一度、ゲップだけはやめてくれと頼んだら、代わりに盛大なオナラをしたことがあった。臭くないだけゲップの方が百倍マシだ。いやそもそも、女の子が人前でゲップだのオナラだの、本当に勘弁してほしいのだけれど――そう伝えたら、「だって、あなたが勝手に聴きに来てるんでしょう」と彼女は唇を尖らせた。「私は私のために歌ってるんだから」



 そう言われれば、その通りだった。



 私が素直に謝ると、彼女は今さら頬を紅くして、「やっぱり品がなかったかも」と呟いた。それ以来、彼女の歌からゲップもオナラも姿を消した。

 


 彼女は少し、歌が上手くなった。



     *



「お姉さん、名前はなんていうの?」



 桜の季節を迎え、だいぶ穏やかになった風にツインテールをなびかせながら、彼女は言った。おぼろげな月が私たちを見下ろしていた。



「まひろ」



 ジャングルジムのてっぺんで目の前の桜の木を眺めながら答えると、隣に座る彼女はあの透きとおった声で私の名前を復唱した。



「まひろ」



 口の中で飴玉でも転がしているかのような、まあるくとろけるような発音だった。そんな調子で「まひろ、まひろ、」と何度も続けるものだから、たまらなく恥ずかしい気持ちになってきて、私は自分の耳たぶをしきりに引っ張った。落ち着かない時に出る、幼い頃からの癖だ。



「私はね、みすず。『美』しいに『涼』しいで、美涼」



 美涼、と呼べば、彼女は年相応の屈託のない笑顔をこちらに向けた。美涼は小学四年生だ。学校には行っていない。両親はほとんど家にいない。母親は朝方、こっそり布団に戻っていた美涼の頭を撫でることもなく、狭い和室のテーブルにお金だけ置いてさっさと別の男の家に行く。



 父親は数年前に蒸発。以下言及なし。



 よくある不幸なの、と彼女は言っていた。名前の通り、美しく涼しい横顔で。



「まひろ、私が死んだら、あなたが一番に気づいて、歌を歌ってね」



 そんな寂しいことを、美涼は唐突に、真剣な面持ちで言った。「死ぬ予定なの?」と尋ねると「まさか」と不敵に笑う。



「私、大きくなったら歌手になるの」

「フラグ?」

「違うって。まひろの意地悪」



 ぷくっと膨らませた頬が可愛らしくて、私は思わず美涼を抱きしめていた。初めは珍しく狼狽えた様子の美涼だったが、やがて観念して、大人しく私の背中に小さな手を回した。鎖骨の辺りがじんわりと湿っていく。美涼は泣いていた。声を殺して、息をひそめて、死んだように静かに、泣いていた。



「ねえ、まひろ」

「なに」

「私をさらってはくれないの」



 身体中に電流が走った。色々な言葉が、考えが、瞬時に脳裏に浮かんでは、掬う間もなく指の間を流れ落ちていく。



 そうして私が答えられずにいるうちに、美涼は顔を上げて唐突に呟いた。



「帰らなきゃ」



 どこに、とは聞かなかった。聞かなくてもわかりきっていることだったから。



「美涼」

「なあに?」



 機敏な動作でジャングルジムを降りきった美涼が、大きな瞳でこちらを見上げた。その表面は涙で濡れて黒く光っていた。



「歌うよ」



 ささやくように言ってやる。美涼は一瞬目を見開いて、それからにっこりと笑って、私に背を向けて公園の出口へと駆け出した。小さな頭は最後まで振り返ることなく、やがて深い闇の中に消えていった。



     *



 予想通り美涼がいなくなってから、あっという間に一週間が経った。週の真ん中で大雨が降り、公園の桜は八割くらい散ってしまった。今晩も分厚い雲が空を覆っていて、月は見えない。街頭の灯りを頼りに私は一人でジャングルジムをよじ登り、残った二割の花たちをぼんやりと眺めた。そのまま顔を右に傾けて目を凝らせば、暗がりの中にごみごみと蜂の巣のように密集した団地のベランダが見渡せた。


 

 ――水色のカーテン。同じ色のタッセルに、引っかけるみたいにして、クマのペアキーホルダーが揺れてるの。

 


 歌と同じようにリズムよく、美涼はいつも言っていた。三階の角部屋のカーテンはもう外されている。あの子はもうこの街にはいない。死んだんじゃない。引っ越しただけだ。そう自分に言い聞かせた。でもどちらにせよ、もう二度と逢えないことは明白だった。美しく涼しげなひびきだけ残して、あの子はもう逝ってしまった。



 歌うのはあまり好きではない。でも約束をしてしまったからにはやらないわけにもいかず、私は渋々口を開いて頭に浮かんだメロディーを口ずさんだ。美涼がよく歌っていた歌だ。誰の曲かは知らない。タイトルも知らない。サビの入り口だけが、馬鹿の一つ覚えのように口をつく。



 ハートビートをさらって。

 ハートビートをさらって。

 あなたがいなくなったら

 わたし、わたしじゃなくなるわ



 月のない夜に響く自分の声は、獣のうなり声のように震えていた。それでも歯を食いしばって歌い続ける私を、縮れて散りかけた桜の花びらたちがじっと見つめていた。



 そうなったらおねがい

 うたをうたってちょうだい

 あなたがあなたでなくなるような

 そんなうたを うたってほしい




 〈『ハートビートをさらって。』 了〉

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ハートビートをさらって。 瀬名那奈世 @obobtf

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