誰もお腹を空かせないように
秋犬
誰もお腹を空かせないように
アサコの元に、古い友人から「今度会えないかな」というメッセージが届いた。アサコはすぐ「ダンナに相談するからちょっと待って」と返信し、早速夫に相談する。
「ねえ、マイちゃんが会いたいって言ってるんだけど」
「行ってくればいいじゃないか、ついでに泊まってこい」
アサコの夫は投げやりに答える。
「そんな、ご迷惑よ」
「マイコさんはこの前離婚したんだろう? 向こうも寂しいんじゃないか?」
「でもあなたカズヤのご飯用意できる?」
アサコは思い詰めた顔で夫に尋ねる。
「カズヤもどうせ研究室だ、俺も一晩くらいひとりで外食でもするよ」
「あ、そう……」
存外あっさりとした答えにアサコは拍子抜けする。
「いい大人なんだから、そんなに心配するなよ」
「大人、そうよね……」
アサコが心配しているのは夫ではなく、息子のカズヤのことだった。やっとのことで生まれた一人息子をアサコは溺愛していた。しかしカズヤも順調に成長し、大学に進学してから研究室が忙しいと家に帰らない日も多くなった。その度にちゃんとご飯は食べているのか、先輩や教授に失礼はないか、教授にお歳暮は持っていかなくて大丈夫かとカズヤに尋ね、研究室に泊まる日は事前に教授に挨拶しなければとカズヤを責め立てていた。
アサコは息子に関心が無い夫を薄情だと思った。一晩でもかわいい息子が飲まず食わずでいるかもしれないと思うと居ても立ってもいられず、大学院に進学しても研究室から帰ってこないとわかった日には夕飯と朝食を食べたのかをしっかり確認させていた。
「いい加減お前は子離れしろ。カズヤも23なんだ、彼女のひとりくらいいないでどうする」
「まだ早いわよ!」
「いい年して母親の弁当を持たされる男なんて、嫁のもらい手がなくなるぞ」
「今は結婚相談所も進歩しているのよ、婚活なんていうじゃない」
問題をしっかり理解しようとしないアサコに、夫はうんざりして話をやめる。一度そうと思い込んだら止まらないのがアサコであった。夫は息子に「こういう女と結婚するのはやめておけ」と言うべき時が来たら言おうと思っているし、言うまでもなく息子もうんざりしていることだろうと思っていた。
「とにかく、たまには家族のことを忘れて友達と会ってこい」
「まさかあなた、浮気してないわよね」
「そんな甲斐性あるわけないだろう」
飛躍するアサコの思考を夫は慣れたようにあしらう。そこには数十年連れ添った余裕と諦めがあった。
***
結局、アサコはマイコの家に一晩泊まることになった。
「いらっしゃい、お泊まり会なんて久しぶりね」
マイコはアサコの高校時代からの友人であった。はっきり物を言うマイコは、引っ込み思案なアサコの憧れであった。反対にマイコはアサコのことを奥ゆかしいと褒めていた。
「まったく、何十年ぶりかしらね」
マイコの家は思ったより散らかっていた。何度か訪れたことはあったが、いずれのときもしっかり片付いていて几帳面な彼女らしいとアサコは思っていた。
「やだもう。ひとりだと無精しちゃって嫌ね」
マイコがぱたぱたと手を振る。きちんと洗われてはいたが、ゴミ箱にはカップラーメンや出来合い弁当の空き容器が山のように積まれている。
「人目を気にしないと、どんどん適当になっていくのよね」
マイコの言葉に、アサコは家に置いてきた男連中のことを思い出す。
「でも急に離婚だなんて……」
「それが酷いのよ、急に弁護士なんか間に挟んできてね……」
マイコは客人に茶を出すと、それから離婚の経緯について語り出す。それにアサコは耳を傾け、彼女の苦悩に思いを馳せた。
マイコにとって、離婚は青天の霹靂というようなものだった。ある日突然夫が家を出たきり帰ってこなくなり、次に顔を合わせたのは裁判所だということだった。
「今
アサコも熟年離婚については聞きかじっていた。しかし、突然妻が夫に離婚を言い渡すものだとばかり思っていたのでマイコのように夫から離婚を告げられることもあるのかと驚いた。
「普通ダンナから離婚って言う? 信じられないよね」
マイコもこれには納得していないようだった。しかし彼女の夫との協議の結果は、家と幾ばくかの財産はくれてやるから接触してこないようにという厳しいものだった。
「慰謝料というか手切れ金はもらったけど、これと年金でどうやって暮らしていけって言うのよね」
マイコの愚痴にアサコは頷く。健やかなるときも病めるときも一緒であることを誓った仲も、子供たちが巣立てばただの他人になるのだなとアサコは恐ろしくなった。
「それでね、今更どこに住むのって聞いたらマナちゃんのところで一緒に住むって言うからマナちゃんの家を探して行ってみたんだけど、警察呼ぶわよって言うの。まったく大げさよね!」
マナちゃんとはマイコの娘だった。なんて理不尽なんだろうとアサコは他人事であるはずなのに自分のことのように泣けてきた。
「そんな、自分の娘に警察呼ぶなんて言われるなんて……」
「アサちゃんが泣くところじゃないでしょう!」
そう言うマイコの目にも涙が溜まっていた。これから始まる老後の人生に、ひとりで放り出されたマイコの気持ちがアサコには痛かった。マイコもアサコも結婚するまでお茶くみを少ししたくらいで、ろくに働いてはいなかった。働きながら子育てをしているのは貧乏な証拠、とマイコはよく言っていた。PTAにも顔を出さない保育所組を感じが悪いとアサコも思っていた。
マイコは自分の時間を犠牲にして必死で2人の子供を育てていた。よりよい生活が出来るよう躾をして、毎日おいしい料理を作って子供のことをよく考えていた。そしてアサコもようやく生まれたカズヤを大事に大事に育ててきた。
しかし、マイコのそれは全否定されていた。自分を犠牲にして家族に尽くして、その結果がこの空虚な住宅とは情けないとアサコは震える。この前まで「孫が可愛くて」と喜んでいたマイコをアサコは思い出していた。しかし泣いているマイコに孫の話をするべきでないと考えたアサコは、涙が流れるままマイコのとりとめない話を聞き続けた。
マイコの話は終わらなかった。どれだけ夫を愛していたか、どれだけ娘を大事に思っていたのか。マイコの最愛の娘のことをアサコはよく聞いていた。なぜそれほど母から大事にされている娘がそんな態度を母親にとるのか、アサコには理解できなかった。
日が傾き、電灯を付ける時間になってもマイコは泣いていた。アサコはマイコの背中をさすりながら、それでも自分の家族のことをどこかで心配していた。
***
「ああ、いっぱい泣いたらすっかりお腹空いちゃった」
泣きはらした目で起き上がったマイコが呟いた。アサコに撫でられるまま寝入ってしまったマイコを座敷に寝かせてから、アサコはテレビを見ていた。
「夕飯はどうしようか?」
アサコはマイコが起きてから食事の相談をしようと思っていた。しかし、時刻は夜の8時を回っていた。なかなか起きないマイコにアサコは少し心配になっていたところだった。
「今から何か作るのは無理ね」
マイコが眠っている間にアサコはこっそり冷蔵庫の中を覗いたが、2人が満足に食べられそうなものは入っていなかった。
「そうだ、ラーメン食べに行かない? 近くにおいしいラーメン屋さんがあるの」
「ラーメン?」
マイコの提案に、アサコは驚く。こんな時間から外食をするなど、アサコにとっては全くの想定外だった。
「ね、行ってみようよ。昔みたいに」
そう言えば、学生時代は話に夢中になってお腹が空いたときに、夜中にふらふらと外へ行って屋台のラーメンを食べたような気もする。しかし、それも昔の話。乾いた還暦間近のおばさんなど場違いではないかと思い、アサコはラーメン屋に行くことに乗り気ではなかった。
「ええ、だってラーメン屋なんて」
「いいじゃない、他にどこか行きたいお店とかある?」
アサコは時計を見る。これからまともな食事が出来る場所と言えば、居酒屋かラーメン屋、それかチェーンのくつろげない店くらいしか思いつかなかった。
「ないけど……」
「じゃあ行くわよ」
マイコに押し切られるようにアサコは身支度を調え、家を出た。時刻は夜の9時少し前で、繁華街へ行くと明るい笑い声で賑わっていた。夜の街など久しぶりに出かけてきたアサコは大声で話す若者たちに気後れしていた。
「いつもこんな時間にラーメンを?」
「まさか。来るのは昼間よ」
マイコも普段から夜に出歩いているわけではないとアサコは知り、ほっとする。年をとったというのに、この喧噪に馴染めないのは何だか世間知らずのようだと胸の奥がツンと痛む。
「着いたわ、ここよ」
マイコが目当てのラーメン屋の暖簾をくぐる。アサコも焦ってその後を追う。
「いらっしゃい、2名様で? お好きなお席へどーぞ!」
カウンターの向こうからは元気な声が聞こえてくる。アサコはマイコについておどおどと店内を見渡す。カウンターの高くて小さな椅子に座ったが、アサコはまるで自分が歓迎されていないのではと落ち着かない。店内にいるのは多くが男性で、女性もいたが男と一緒にいるような若い女だった。流行のラーメン屋におばさん2人、しかも夜に来るなんてとアサコは気が引けて仕方がなかった。
アサコは横目でちらりとマイコを見る。マイコは小さなお品書きのプレートを眺めて何を頼むか考えているようだった。
「アサちゃんはどれにする?」
「わ、私は普通のラーメンで……」
「トッピングもあるわよ。私、たまご付けちゃおうかしら」
堂々としているマイコをアサコは心の中で賞賛する。昔からマイコにはぐいぐいと引っ張ってもらっていた。今でもアサコはマイコの思うがままになっている。この距離感がアサコにはちょうどよかった。
「決めた、私この魚介だしつけ麺にするわ。アサちゃんは決まった?」
「えーと……」
悩みに悩み、アサコは一番上のメニューに決めた。普段外食をする際は、自分で決められないために夫に全てメニューを決めてもらっている。夫が言うには「その店のオススメか期間限定メニュー、それかメニューの一番上のものを頼め」ということだった。それを忠実に守っているアサコは、夫のいなくなったマイコをどう見ていいのかわからなくなってきた。
「ねえマイちゃん、私ね……」
「アサちゃん、夜のラーメン屋っていいわね」
突然語り出したマイコにアサコは言葉の先を無くす。
「だって、こんなおばさんがいても誰も何も言わないもの」
その言葉にアサコは内心ぎくりとする。確かに、誰も2人に関心を払っているようには見えなかった。1人で来ている客はスマホや漫画に夢中になり、複数で来ている客は連れと談笑していた。途端にアサコは他人からどう見られているかばかり考えていたことに気がつき、急に恥ずかしくなってきた。
「はい、黒醤油ラーメンのお客様!」
「伸びちゃうからお先にどうぞ」
カウンターの向こうからラーメンが出てくる。箸置きから箸を取り、アサコはマイコに頭を下げて先にラーメンに口を付ける。
「おいしい」
湯気の向こうで油の浮いた黒いスープが跳ねる。青々とした葱に、丸くて分厚いチャーシューと大きな海苔。それはアサコが知っている昔ながらのラーメンとは少し違っていた。少し細めの麺を掬ってレンゲの上に置き、勢いよく啜る。空腹だったアサコの腹にラーメンはするすると飲み込まれていく。
横を見ると、マイコが一生懸命つけ麺を頬張っている。つけ麺は少し太めの麺と大きめのメンマが丼に盛られている。
「ざるうどんみたいね」
「つけ麺っていうのよ、おつゆがおいしくて私は好き」
マイコの世界はいつも広いとアサコは感心した。家に帰ったら家族にもこのおいしいラーメンを食べさせたいとアサコは思い、そしてマイコの境遇をまた思い出す。
何故彼女はひとりになってしまったのだろうか。
ずるずるとつけ麺を頬張るマイコは自由だったが、糸の切れた凧のようにどこかへ飛んでいってしまいそうに見えた。
器がそれぞれスープだけになったところで、コップの水を手にアサコは切り出した。
「ねえマイちゃん、何か困ったことがあったら遠慮なく言って。私もできる限り何かしてみようと思うから」
アサコはカウンターに置いてあるポットから、マイコのコップにも水を注ぐ。
「アサちゃん、あのね……さっき言わなかったんだけどね、ノリくんももう会わないでくれって言うの」
落ち着いた口調で、マイコはもう1人の子供である息子にも絶縁された旨をアサコに伝えた。
「ノリくんと会わないって、エミちゃんはどうするの?」
内心で激しく動揺しながら、アサコはマイコの話の続きを聞く。アサコはよく孫娘のエミルの写真をマイコから見せてもらっていた。
「だってノリくん、サナエさんの言いなりになって、もうエミちゃんには会わせないって言うのよ」
「なんで急に」
「わからない。急にみんな冷たくなって、人が変わったみたい」
「そんな、私がノリくんと話してみようか?」
「そうね、必要になったらお願いするかもね……」
アサコはマイコの直面している境遇に更に同情する。先ほど泣きまくったマイコはすっきりした表情でアサコに告げる。
「でもね、何だかもうどうでもいいかもしれないって思ったの」
アサコはコップの水を飲み干す。
「私のやってきたことは無駄だったかもしれないけど、こうやってひとりになるのも悪くはないかもって」
「でも、今からひとりなんて……」
「いいのよ。かっこよくない? おひとりさまよ、私」
こちらお下げしますね、と器が下げられる。アサコの前にはうっすらと丸い油の跡だけが残った。
「アサちゃんも思い切って離婚しちゃいなさいよ。いいわよ、気軽で」
マイコの言葉に、アサコも離婚をした自分の姿を思い浮かべる。夫の食事も息子の心配もしなくていい、好きなときに好きな物を食べていい。ラーメンでもカレーでもいつでも、好きな物を。
「そうね、気軽よね」
離婚をしなくても、夫が明日にでも死んだらどうしようとアサコは想像を膨らませる。専業主婦の身の上はいろんなものに縛られていた気もするが、その束縛がアサコの存在証明だった。その全てから解き放たれたマイコを、アサコはやはりどう見ていいのかよくわからなかった。
「さて、気軽になったところで今日はお酒でも飲んじゃいましょうか」
マイコは伝票を手に立ち上がる。アサコも慌ててそれに倣い、急いで財布を取り出す。
「あ、お会計は別々で」
「いいのよ、ここは私が」
「離婚されたばかりの方にそんな」
「いいえ、私が呼んだみたいなんだからここは私が」
結局アサコは、マイコにラーメン代を支払わせてしまった。
「ごめんねマイちゃん……」
「いいのよ、愚痴に付き合ってもらってるんだからラーメン代くらい」
声はしっかりとしていたが、マイコの背中に不安の2文字があるのをアサコははっきりと見て取った。
「じゃあコンビニにでも寄って帰りましょうか」
店の外に出て、マイコは大きく伸びをしながら言う。
「やだ、不良みたい」
「何言ってるの、私不良だったのよ」
おどけて見せるマイコの手をアサコはしっかりと握りしめる。温かなマイコの手は震えていて、昔に比べて痩せていた。
「マイちゃん」
「なあに?」
「困ったことがあったら、いつでも言ってね」
アサコはそれしか言うことができなかった。具体的にマイコの痛みを取り除く術をアサコは知らないし、拗れてしまった家庭内の諍いをどうすればいいのかなど思いつくこともなかった。ただアサコにできるのは、マイコに寄り添うことだけだ。
「……うん」
コンビニでスイーツを買い、繁華街から出ると一気に辺りが暗くなった。アサコはコンビニの袋を握りしめながら、マイコの行く末の安全を願った。どうか誰も彼女を恨まないように、そして自分も誰かに恨まれないように。
アサコは祈ることしかできなかった。
今眠っている子供たちが幸せであるように。
起きている大人たちが安寧であるように。
そして誰もお腹を空かせないように。
これからひとり道を行くマイコの隣を歩きながら、アサコは心の中で息子の手を強く握りしめた。
〈了〉
誰もお腹を空かせないように 秋犬 @Anoni
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