第19話

「さて、薮崎。呼び出された理由は分かっているか?」


 人の数も随分と減った職員室で、七海は担任の平岩に凄まれる。


「私、素行も成績も良い方だと思うんですが」

「卒業式翌日にそんな理由で呼び出す担任が居るか。卒業証書だよ」


 平岩は呆れ顔でワニ皮の筒を取り出し、椅子に座したまま差し出してくる。七海も略儀でそれを受け取ると、「三年間、お世話になりました」と頭を下げた。彼が担任だったのは二年生からの二年間だが、入学した頃から学校には居て、数学で世話になったこともある。


 七海の慇懃なお辞儀に、平岩は苦笑を返す。


「お前の憎い顔を見るのも今日で最後だと思うと、名残惜しいよ」

「留年した方がよかったですか? 今から窓を割ってきますけど」

「警察のお世話になりたいなら止めねえよ」


 平岩の世話になれないのならやめておこう。七海は肩を竦めた。


「クラスの連中、お前が卒業式に参加しないのを寂しがってたぞ」

「式の夜の打ち上げには参加したので、もう大丈夫だと思いますよ」

「……家業の手伝いとはいえ、式の日くらいは学校に来いよな」


 ――夏休み明けのエクレールプロモーションのオーディションに応募してから半年が経過し、七海は卒業の日を迎えていた。式は昨日のことだった。本来であれば問題なく出席して問題なく式典を終える筈だったのだが、生憎と仕事とダブルブッキングしてしまったのだ。


 恵奈との約束を交わした後、十月の誕生日を迎えて十八歳になった七海は、将来に向けて雄二の職場で撮影のバイトを始めた。


 無論、十八歳未満の映像を撮影する仕事であるため法的な基準は潜り抜けているが、諸々の倫理的判断により『そういう』描写の無い部分での撮影補佐だ。


 雄二との間で交わされた約束は『学業を優先すること』だったのだが、役者のスケジュール的にどうしても七海の労働力が外せない日があり、卒業式に七海が駆り出されることになった。少しでも実務経験を積みたいという意思もあり、七海もそれを拒まなかった。


「まあ……お前が『目標の為に』って言葉を使った以上、俺に止める選択肢は無かったが」

「……本当に、お世話になりました」

「大学でも頑張れよ。自主制作でもいい、映画を撮ったらいつか見せてくれ」

「スクリーンに映せるほどの作品ができれば、試写会には是非呼ばせていただきます」


 そんなやり取りを最後に、七海は職員室を後にした。


 間もなく修了式を迎える高校には二年生と一年生しか居らず、学校に居る三年生は皆、部活動の関連で何らかの作業が必要な者ばかりだった。


 七海は、袖を通すのも最後になるだろう制服を名残惜しみながら、静かな廊下を歩いて昇降口に向かう。特別な思い入れはなく、流す涙も無いが、一抹の郷愁を感じていた。


 昇降口に下りると、そこには横着して靴も履き替えない真白がスマートフォンを眺めていた。彼女は真っ当に昨日の卒業式には出席していたが、卒業証書の為だけに一人で投稿するのも退屈だったので、巻き込んだ。帰り道にどこか寄っていこうと呼び出して。


「お待たせ。行こうか」

「おう」


 もう二度と使うことはないだろう靴箱から靴を抜いて履く。


「何観てたの?」


 尋ねると、腰を浮かせて一足早く外に出ようとしていた真白がスマートフォンを見せる。


 画面の中では、知った顔がスーツを着て服屋の宣伝をしていた。CMというやつだ。


 それを見た七海は目を丸くした後、細め、こぼれるような笑みを浮かべた。


「仕事には困ってなさそうで何よりだ」

「まったくだ。……今度、ゴールデンタイムのドラマに出ることが決まったらしい。主演ではないが、台詞のある役だ。SNSでも軽く話題が上がっている」

「随分と遠くに行ったものだね」


 真白はスマートフォンをポケットに突っ込みながら「だなあ」と笑って応じる。


 ――周藤恵奈はエクレールプロモーションに合格した。あの日、七海が仕上げた台本の通りの自己PR動画が選考を通過したのだ。そして、そのまま面接なども滞りなくパスし、晴れて芸能事務所所属の現役高校生女優として活躍を始めることとなった。大袈裟な祝勝会こそしたものの、それからはお互いに目標を追い駆けて忙しく、改まって話をする機会も無かった。


 だが、少しのメッセージでお互いの近況を理解し合い、それだけで十分でもあった。


「でも、お前もこれから遠くに行くんだろう。美大なんて行きやがって」


 真白が微かな笑みを向けてくる。彼女の言いたいことは分かる。クラスメイトの多くが美大への進学を聞いた時に驚いたものだ。そして、改まって映画監督を目指すという話をした時も。そういう世界とは縁遠い生活を送っている者からすれば、遠いどこかの話に聞こえるだろう。


 会おうと思えば会えるが、明確に、ここから道は分かたれる。


 二人は昇降口から校門までの直線を緩慢に並んで歩いた。


「応援してくれる?」

「応援してるさ。私が唆したんだからな」

「そういえばそうだったね」

「で――具体的な人生設計は決まってるのか? コネを作るとか」


 軽口の応酬の後、真白はそんな疑問を口にした。ここ最近、七海の頭を悩ませている話題でもある。映画監督とは公務員のように試験を受けて仕事を貰えるものではなく、かといって芸術家のように自ら需要を創造できるものでもない。色々と、大変なのだ。


「映画監督にも細かい分類はあると思うんだけど、結局、やるからには『それで食べていける監督』がいいんだよね。そういう憧れが私の中にある」

「大ヒット映画一本撮ったら一生食えるんじゃないか? 何億とかだろ」

「そう単純でもない。映画って監督に著作権は無いんだよ。売り上げで報酬額が確実に上がる訳でもないし、基本的には契約した額がそのまま懐に入ることになる。だから、良い契約をたくさん貰えるような優れた実績を用意する必要があって――でも、そんな映画を撮るには実績が必要で」

「モ〇ハンみたいだな。ボス倒すのにボスの素材が要る感じだ」

「そう。だから最初の一個はどうしたって行き詰まる。狭き門なんだよね」


 だからといって諦める訳にはいかない。


「最終的には映像制作会社に入って雑務、助監督、監督って感じで仕事を貰えるようになりたい。で、それを円滑化するためにはどうしたって映像制作の実績が要る」

「だとしたら勝負は……三年間か?」


 話が早い。七海は頷いた。


「うん。美大の機材と人脈を使って映画を撮る。それをコンクールに出して、できれば何らかの賞を取る。就活が始まる四年目までにね。長く感じるけど――たぶん、あっという間だ」


 だから今日は束の間の休息だ。そう思いながら大きく伸びをする。


 二人が将来について議論を交わしながら校門を出ようとした、その時だった。


「え?」


 聞き馴染んだ疑問の声に、七海と真白は思わず目を向ける。


「あ」

「お」


 今、まさに校門から敷地内に入ろうとしていたのは、学生服を着た周藤恵奈だった。


 彼女は驚きに見開いた眼差しを順番に七海と真白に向け、「二人とも、どうして」と驚きを声にした。それはこちらの台詞ではあったが、七海は「昨日欠席したから。証書」とワニ皮の筒を掲げて見せた。それで納得したのか、「なるほど」と恵奈は苦笑する。


「君もか。私も、外せないお仕事があったんだよね」


 どうやら本当に売れっ子になりつつあるらしい。


 そんなことを考えながら雑談の言葉を探していると、彼女も同様に黙りこくる。お互いに話したいことはあったが、唐突な遭遇に言葉が出てこず、気まずい沈黙が数秒ほど場を包んだ。


 そんな馬鹿馬鹿しい静寂を破ったのは呆れたような真白の溜息で、彼女は七海と恵奈の背中を校舎側に突き飛ばすと、驚く二人に軽く手を振った。


「積もる話もあるだろう。駅で待ってるから、ゆっくり話してこい」


 二人は顔を見合わせた後、「助かる」「ありがと!」と、お言葉に甘えることとした。




 恵奈は号泣する担任に抱き締められた後、少々寂しそうな顔で職員室から戻ってきた。


 廊下で合流した二人は、誰も居ない三年生の廊下の窓から町並みを眺める。


「この景色を見るのも今日が最後かー! 名残惜しいよ」

「事前連絡すれば来れるだろ。たぶん、卒業生だって証明できるなら入れるよ」

「違う違う。学生の間で、制服を着て、ここから見るこの景色が良いの。分かる?」

「ノスタルジーね。そういう意味ならまあ、理解できる」


 七海は恵奈が開けた窓から遠くの町の景色を見て、春の陽気を帯び始めた空気に浸る。


「そういや、スーツのCM見たよ。バッチリ決まってた」

「……あー、うん」

「苦い顔だね」

「いやあ、こう――自然体の演技をするなら私の土俵だと思うんだけど、『周藤恵奈』としてスーツを着て格好つけるのはちょっと恥ずかしかったんだよね。まだ高校生だし。できれば知人に見られたくなかったといいますか。変じゃなかった?」


 恵奈は微かに赤い顔を両手で覆い隠す。遠くに行ったように思えても、その実、本質は何も変わっていないらしい。七海は腹を揺すって笑う。「格好良かったよ」と答えると、彼女は恥ずかしそうな、安堵したような調子でほっと息を吐く。


「CMに出て、ドラマにも出て。いつの間にか……ちゃんと女優だ」


 同じように夢を志したつもりだったが、気付けばあっという間に距離が空いてしまっている。知覚すると寂寥感が胸を支配した。だが、恵奈は窓の縁に腕を置いて微笑を浮かべた。初春の風が恵奈の髪を優しく撫で、柔らかい花の香りが鼻腔をくすぐる。


「君のお陰だよ。君に助けてもらったから、ここまで来れた」


 買い被りのようにも感じたが、彼女と違って謙遜するのは趣味じゃない。「そうだと嬉しいね」と素直に答えると、「本当に、君のお陰」と恵奈は重ねて言った。


「もっとも、まだまだ売れっ子を自称するには仕事が少ないんだけどね。マネージャーさんとも今後売り出す方向性を絞っていこうって話し合ってる状態だし、全然未熟です」


 少々自嘲を含んだ笑みに、七海は肩を竦めて言い返す。


「なら、まだ恩人面をしてもいいのかな?」

「私がお墓に入るまではいいよ。それまで君は私の恩人だもの」


 吹き出すように笑って、七海は晴れ晴れとした気分になる。


「ねえ、七海」

「どうした?」

「夏にした約束。まだ覚えてる?」


 夏とは一年を気温などで四分割した場合における、平均的に気温と湿度が高い期間を示す。主に六月から八月。その前後を示す。


 だが、周藤恵奈と薮崎七海の間で交わされる『夏』とは、高校三年生の七月と八月を示す。それだけは将来、この関係がどう変化しても変わらないことだろう。


「お前が女優になったら、私も映画監督になる。そして、お前を主演に映画を撮る」

「約束、守ってね。待ってるから」


 そんなことを臆面もなく言う。それが信頼か、或いは脅迫かは判断に難いところだ。


 肩に重い荷物が付けられた気分だ。足取りが少し重くなる。夢を追う速度がほんの少し遅くなるような気がしたが、その分だけ足跡がしっかり残るような頼もしさもある。「仕事がもらえないからって」と半笑いで茶化すと、「んふふ」と恵奈は笑った。


「――待ってろ。すぐに迎えに行く」


 左手の小指を差し出した。恵奈は驚いた後、嬉しそうに結び返す。


 指を切ってからしばらく、お互いが傍に居ることを噛み締めるように無言で町を眺めた。


 やがて、初春の風に恵奈の綺麗な声が乗った。


「ねえ」

「うん?」

「七海って彼氏とか彼女とか、恋人って居るの?」


 あまりにも唐突な質問に、七海は目を丸く見開いて恵奈の横顔を見た。彼女は依然として町を眺め続けているが。そこには微かな緊張が見られる。七海から注がれる視線に気付いたか、血液が上って少しずつ顔が火照っていった。


 質問がどういう意図によるものかは定かではないが、七海は素直に答える。


「居ないけど」


 すると、微かな安堵を含んだ言葉が恐る恐る続いた。


「女の子って、どう?」


 七海もそこまで鈍感ではない。ここまで続くと彼女の言いたいことは理解できる。


 自惚れでないのなら、そういう目的を含んでいるのだろう。――そこまで考えた上で、七海はマジマジと恵奈を見詰めた後に、驚き筒素直な胸の内を明かした。


「……男女ともに意識したことはないけど、忌避感も無いよ」


 事実、今まで誰かに恋愛感情を抱いたことはない。と、思っている。


 恋愛関係に対する興味のようなものも無い。


 自分を無性愛――アロマンティックではないかと考えたこともあるが、夏、彼女の裸体を見た時に情欲を抱いた。一挙手一投足に、時折、性的に可愛らしいと感じることはある。渇望に至るほどの感情は無いが、向けられたそれを拒みたいほどの忌避感も無い。


 七海の返答を聞いた恵奈は、平静を装いながら己の想いの丈を言葉にした。




「もしも将来、約束が守られるときにさ。まだお互いに独り身だったら――どうかな」




 直接的な言葉を選ばないのは照れ隠しか。


 七海が驚きに黙っていると、段々と彼女の顔が更に赤く染まっていき、耳までそれが上った頃、七海は溜息混じりに笑う。


「もう女優だってのに迂闊だな。熱愛報道が出るぞ」

「あはは! 開放感でちょっと浮ついてるのかも、ごめんね」


 少し悲しそうに眉尻の下がったその謝罪は、『今の話を忘れてくれ』という意思を含んでいたのだろうか。本当のところは分からないが、聞く気は無いし、これから知る機会も無い。


「――いいよ」


 軽く肯定をすると、恵奈は露骨に肩を跳ねさせた。まん丸く剥かれた驚きを隠せない目で真正面に七海を見据え、跳ねる心臓を手で押さえている。「……へぁ」と言葉に至らない間抜けな声を発した後、恵奈は微かに頬を染めて言葉の真偽を確かめるように見てくる。


 だから、冗談の類ではないと示す様に条件を重ねた。


「その時に、まだ、お互い独りだったらね」


 これから恵奈は女優として多くの仕事をこなしていくことになる。人気が出れば人目も浴びる。そこに恋人の存在は枷となっていくこともあるだろう。七海も、三年間という期間の間で結果を残すに向けて、パートナーの存在が支障になる可能性がある。お互いの為にも、今はまだ、早い。その間で、相手に良い人ができればそこで解消される口約束だ。


 だが、約束だ。恵奈は唇を緩め、嬉しそうに左手の小指を伸ばす。


「じゃあ……約束、二つ目だね」


 だが、七海は徐に左手を伸ばすと、結ぼうと伸ばされた彼女の小指を小指で弾く。


 困惑する彼女を無視し、その薬指・・を己の薬指で引き摺り出した。


 「二つ目だから」と言い訳をした。


 その意味を理解した恵奈は顔を真っ赤に染めて、その欺瞞に乗っかった。


「うん……そうだね」


 お互いの左手の薬指が、そっと結ばれる。


 新進気鋭の薮崎監督が名女優である周藤恵奈を撮るのは、それから少し先の話。



――完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

プリマドンナ・プロパガンダ 4kaえんぴつ @touka_yoru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ