第18話

「ごゆっくりお寛ぎください」


 ダークウッドの落ち着いた景観をしたホテルのエントランスにて、恵奈と七海はホテルマンのお辞儀に会釈を返し、カード式のルームキーを受け取った。都内、駅近くのホテル。時刻は十五時。チェックイン開始時刻早々にツインルームを借りる女学生をどう思っただろうか。


 二人はエレベーターを利用しつつルームキーに書かれた番号の部屋へ赴く。


 部屋に辿り着いた二人は「ここ?」「ここだね」と軽く確かめ合って中に入る。


 部屋は真っ暗だったが、入り口付近にカードを差し込むと照明が点灯する。借りたツインルームは一泊七千円のビジネスホテルで、充分に広いベッドがやや広めの部屋の大部分を占めていた。七海と恵奈は担いでいた荷物を置いて一息を吐く。


「――ここまで来ちゃったら、もう戻れないな」

「いやあ、予約をした時点で引き返せなかったと思うよ」


 そんな風に視線を交える二人。どちらからともなく呆れた目を逸らし合う。


 二人が入室早々に置いた荷物は撮影器具だ。特に照明類で、前回とは異なりレフ板だけではなくコンセントを利用した簡易的なボックスライトも持参している。


 案の定、ホテルは入眠に適した暖色の照明が取り付けられており、撮影には適さない様子だった。持ってきていなければ撮影できなかっただろう。


 しかし、二人はこの場に撮影だけをしに来た訳ではない。


「……あの、シャワー浴びてくるね」


 早々、恵奈はバスローブを抱え、やや頬を染めながら浴室へと向かった。


「はいはい。準備しておくよ」


 七海は手際よく撮影の準備を始める。テーブルにノートパソコンを置き、三脚にスマートフォンをセット。ボックスライトを恵奈が利用する予定のベッドに当て、ガンマイクをそちらに向ける。諸々をパソコンに繋いだ後、レフ板を仮の位置に配置した。


 そうして準備を終えた頃、髪は濡らさずに身体だけを綺麗にした恵奈が、バスローブ一枚だけを羽織って浴室から戻ってくる。上気している頬はシャワーの熱だけによるものではないだろう。緊張からか、恵奈は無言でボックスライトの当たりベッドに向かうと、そこに座った。


 ――人間は裸で生まれてくる。つまり、原初は裸体だ。着衣とは即ちそれを覆い隠すことに他ならず、それは欺瞞と言うに相応しい、人間の『嘘』だ。その嘘の皮を一枚剥ぐことによって人間は本音を曝け出すことができ、その中には潜在的な魅力が宿っている。


 それが、雄二が世話になったある監督の至言であった。


 その人物はグラビアのカメラマンとアダルトビデオの撮影監督を兼業し、女体を撮ることにおいて彼の右に出る者は居ないとまで雄二に言わしめたらしい。


 彼曰く、『人を知るなら服を剥げ』とのこと。


 雄二はそれを一蹴した。雄二には雄二の美学があったから。


 だが、その熱を帯びて真に迫る言葉は七海に引き継がれた。そして、雄二のように『自分のやり方』も『美学』もまだ持ち合わせず、ただ、惚れこんだ女を綺麗に撮りたいという願望しか持たない七海は、そして夢を我武者羅に叶えようとする恵奈は、それを聞き入れるしかない。


「始めようか」


 七海が平静を装って切り出すと、「うん」と固唾を飲んで頷いた恵奈はバスローブを脱いだ。


 純白のベッドに白いローブが落ちる。ボックスライトが恵奈の裸体を照らした。


 思わず生唾を飲むほどに美しい身体であった。比較的やせ型ではあるが、シルエットとして柔らかい印象を与える程度には肉を残している。胸部、そしてその先端部分は大きいとも小さいとも断定できない平均程度。肌は織りたての絹の如く艶やかで、触れたくなる柔らかさを持っている。そして、下腹部――に目を移した七海は、邪な感情が芽生えてしまいそうだったから目を瞑り、意識を切り替えてから、改めて見た。秘所の体毛は生えたばかりなのか非常に薄い。脚は細くランニングによる筋肉量を感じさせる。


 頭のてっぺんから爪先までマジマジと眺めていると、頬を染めた恵奈が身体を隠す。


「なんか言ってよ」

「ああ、うん。綺麗だよ」


 色々な感情が出過ぎないように、どこか他人事のようにそう賞賛した。


 恵奈は少々不服そうにしつつ身体を隠していた腕を外し、手を膝の上に置いた。


 七海はエアコンのリモコンを手に「寒くない?」と尋ね、「ちょっとだけ温度を上げてくれると」という依頼に応えて二度ほど温度を上げて、リモコンをテーブルに戻す。そして、スマートフォンの向きを少々調整してから椅子に座した。


「さて――改めて伝えておくと、カメラは向けているけども、着衣していない状態で録画は回さない。撮影終了後は撮影記録の有無についてパソコン、スマートフォン内データの確認作業を全面的に受け入れる。今回の目的はあくまでも『知らない一面を知るためのインタビュー』であり、その他、公序良俗に反する行為をするためのものではない。オーケー?」

「形式張ってるね。気にしないのに」

「大事なことだよ。将来の女優なんだから」


 お互いの今後のためにも、何らかの邪推をされる余地は省いておくべきだ。


 さて、と七海は恵奈に向き合う。何とも馬鹿馬鹿しい回り道を選んでいる自覚はあるが、それが薮崎七海と周藤恵奈の現在地だということだ。前に進むためなら阿呆にもなろう。


「始めようか。質問を用意してきた」

「はいはい。お答えしますね」




◆質問一:初体験はいつ?


「ぶつよ」

「様式美だって。アイスブレイクだよ」

「セクハラだよ、ばか。ばーか」


メモ:口では怒りを示しつつも本心から怒っている様子はない。心なしか肩の力が抜けたような気がした。結局返答は無く、聞ける雰囲気でもなかった。




◆質問二:自分の性格を一言で表すと?


「急に真面目だね。えっと――そうだなあ、色々な人に言われるから、っていう客観的な部分を含むと『努力家』だと思う。でも、自分自身では『謙虚』の方が合ってるように感じる。今もほら、努力家という肯定的な客観評価を撤回してる訳だし?」


メモ:自己評価は的確であるように感じるが、目標が高いからか、自己肯定感は低いようにも思える。自らの現在地を理解した上で、上を見過ぎて苦しくなっているように見える。




◆質問三:あなたの長所は?


「『愚直さ』かな。いや――長所か、だったら『素直で誠実』って言い替えるね。えっと、やろうと決めたことは最後までやり切るし、道理に反することは基本的にやりません。ので、初志貫徹する場合が多い。ぽっきり意思が折れたのなんて、最近だと君からのアプローチくらいじゃないかな。拒もうとしてたのに口説かれちゃった」


メモ:筆者の見解と合致しているため的確な自己分析ができているように思われる。また、臆面もなく誠実という言葉を使える当たり、図太さも長所ではないだろうか。




◆質問四:あなたにとって『幸福』とは? または、その定義を教えてください。


「……んー。うん、『幸せ』かあ。そうだね、難しい質問だよ。ちょっと前までは『夢が叶うこと』だったんだけど、夢が叶わなかった自分の将来を考えても『不幸』だとは思えないことに最近、気付いた。でも、そういう考え方をすると、私は『好きなものを好きで居続けられること』が幸せなんだと思う。好きなものを将来的に嫌いになっちゃった自分を想像したら、不幸に思えたの。……質問の趣旨からズレてたらごめんね」


メモ:最初に彼女と出会ったときは、自分の幸せは夢を成就させることだと語っていた。心境の変化があったらしい。深く悩んでいた。彼女にとって大事なテーマだったのだろう。(個人的な意見として、彼女の回答は好ましいものに思えた。見習いたい)




 一問一答形式のインタビューは滞りなく進んだ。最初こそ恵奈の表情には少々の緊張の色が滲んでいたものの、質問数が二桁を超える頃になるとリラックスしている様子が見えるようになってきた。七海も肩の力を抜きながら、適度に休憩を挟みつつ質問を続行する。




◆質問二十二:今まで生きてきた中で最も忘れたい失敗は?


「えー? いや、忘れたい失敗だから言いたくないんだけど、言わないと駄目? いいの? まあ、中学一年生の頃、一回だけおねしょしたことがあります。……はい。忘れてね。誰にも言っちゃだめだよ。家族も知らないんだから」


メモ一:その後、次の質問に移る前に雑談が入る。


「あんまり自分が嘘吐きだとは思ってこなかったけど、振り返ってみると意外と隠し事は多いね。何というか、能動的に、意欲的に物事を隠匿するんじゃなくて、慢性的に目を背けるような。そういう意味では、このやり方に意味はあるのかも」


メモ二:着衣とは欺瞞であるという信条に全面的な賛同はできないが、脱衣することでやや開放的になる効果はあったように思われる。少なくとも隠し事をする素振りは見えず、ありのままの自分の内面と向き合っている様子が確認できた。頃合いだと判断し、質問を繰り上げる。




◆質問二十三――


「――どうして、エクレールプロモーションに固執するんだ?」


 七海がそう切り出すと、画面の中の恵奈は微かに目を見張って口を噤んだ。


 ノートパソコンに用意して来た多くの『質問』は大きく二つに分類される。


 一つはネット上に上がっている自己分析サイトから借用した普遍的な質問。彼女の緊張を緩和させながら、その人柄を知るのが目的だ。そして、もう一つが、女優を志望する周藤恵奈という少女を知っている七海にしか紡げない質問だ。その一つが、コレだった。


 大手プロダクションからスカウトを受けておきながら、どうしてそれを拒んでエクレールプロモーションを選ぶのか。最初にその話を聞いた時は彼女に興味が無かったため流したが、振り返ってみるとその理由を訊いていなかった。大事なことだ。


 恵奈は「えっと」と少々居心地悪そうにで後ろ髪を掻いたかと思うと、自らの身体を隠すように身動ぎをして視線を伏せる。愛想笑いのようなものを浮かべた。


「実は、大した理由は無くて……話すほどのものじゃないの。だから、流してくれると」


 そうやって欺瞞という『服』を着た。ならば剥がすのは七海の役目だ。


「……今日、色々と質問して分かったけど、お前にはたぶん、自信が足りていない」


 恵奈の顔が怯む。七海は畳み掛ける。


「最初に出会った時、臆面もなく『演技の方には自信がある』とか言ってたから誤解をした。でも、実際は自信があったんじゃなくて、『他人がそう評価しているから客観的な事実』として納得していただけだ。だからお前は『努力家』だけど『謙虚』なんだと思う」


 昨日までの七海であれば踏み込まなかった領域かもしれない。或いは踏み込めなかった空間かもしれない。


 それでもここで、一歩を踏み出して心を暴けたのは、愉快にも、欺瞞を脱がせたから。


「思えばお前は他人の評価に振り回されている。『努力家』だという評価を受けているせいか、休むことに否定的で――周囲の嘲笑なんて意に介していないように思ったけど、誰もが見過ごしていた私に対する軽口にお前だけが苦言を呈した。そうできたのは『痛みが分かるから』で、それは他人の声への過敏さを裏付けているんじゃないか? お前は……痛みに無頓着じゃないし、苦しむし、弱いし、寂しがり屋で、でもそれも、私から見たお前の評価に過ぎなくて……」


 これではどちらのインタビューか分からない。七海は言葉を切り上げて要点を告げる。


「事実はただ、お前が語った『謙虚』だけなのかもしれない」


 周藤恵奈の本質に自信など無く、彼女は周囲からの目、つまり『他者意識』で構築された集合体なのかもしれない。そんな人間が自分の努力を語り、自分の経歴を語って自己PRをして――振り返ってみると、それらはとても空虚なもののように思える。


 七海は、真っ直ぐに恵奈を見詰めた。


 恵奈は容赦なく注がれる純粋な眼差しから逃げるように表情を曇らせ、視線を逃がす。心の内側に土足で踏み入られ、知ったような口を利かれて気分が良い者は居ないだろう。七海も、少し立ち入り過ぎたかと弁明の意を伝えようとしたが、寸前、恵奈は身体を隠す手を離す。


 やや不安そうな表情で、それでも前に進もうと足掻いた。


「……そうなのかもしれない。いや、そうなんだと思う」


 恵奈はそう言うと、ぴしゃりと己の両頬を叩いた。「よし」と目が据わる。


 驚く七海をよそに、彼女は腹を括って淀みなく回答を始めた。


「小さい頃、テレビを見るのが好きだったの。番組は何でも観たんだけど、やっぱり一番はドラマとか映画かな。重役だから休めない共働きの両親から、不自由なく用意してもらった娯楽の中で、テレビの中の物語が一番好きだった。本当に、一番。友達と遊ぶよりも」


 過去を懐かしむように語る恵奈。その姿に、七海は相槌を打つことも忘れる。


 郷愁を抱く儚い表情に見惚れた。綺麗な女だと再認識させられた。


 反射的に録画を始めようとした手を止め、メモを取ろうとしていた手も止める。鼓膜に取り込み、網膜に焼き付けるべく彼女の言葉に耳を傾け、注視した。『マイ・インターン』冒頭のワンシーンを思い出す。性別も年齢も、話す内容も目的もまるで違うけれども、内に宿る情熱が身体を突き動かし、それを己の全てであることを誇りながら生きている様に、心を掴まれた。


「そんな数多くの『一番』の中で、今でも私の胸に残る『一番』好きな映画があるの。少しだけ前の邦画で、もしかしたら君も知らないかもしれない」


 そう言った彼女が語った邦画のタイトルは、観たことこそないものの、七海も知るものだった。だが、海を越えて日本に届いた名作洋画や大ヒットした数多くの邦画達に比べると、話題性も興行収入もパッとしなかった印象がある。


 「名前は知ってる」と返すと、安堵したように続けた。


「内容は、ご両親から多額の借金を継いでしまって夜職をする大学生の女性が、不思議な魔法の力を得る話。魔法で楽にお金を稼げるようになった女の人は、借金を返して仕事を辞めた。その後が、素敵だった。――もしも私だったら大金持ちになって、嫌いな人と縁を切って、好き放題、好きなことだけをやって生きてきたと思う」

「その人は?」

「旅に出た。魔法を最低限の旅費と自衛の為だけに使って、世界を一周。徒歩で」


 何とも壮大なスケールの話で、七海はインタビューも忘れて「ほぉ」と興味に相槌を打ってしまう。そんな反応から『好き』を共有できたと思ったのか、恵奈は嬉しそうに笑う。


「自由だった。しがらみを背負って生きてきた人が羽を貰って、飛ぶ話。私はテレビの中に居たその女の人に憧れて、その人の真似をして、その人のようになりたくて。そして、物語と現実の境界がハッキリし始めた年頃に、明確に、その人のような女優になりたいと思った」


 そこまで説明されれば話の続きは分かる。それでも、七海は水を差さずに耳を傾けた。


「その人が今も尚、エクレールプロモーションで活躍している女優さん」


 恵奈は自らに呆れるような笑みを見せた。それでも、その笑顔には額縁がよく似合った。




「だから私は、その事務所が良い。そこで、その人と同じように、かつての私と同じ場所に居る人達に夢を届けたい。同じような憧れを抱いてほしい。固執する理由は、それだけ」




 ――また、耳の奥に音が鳴った。再び、フィルム映写機の回る音が聞こえた気がした。


 七海は徐に腰を浮かせて、カメラ越しではない、実在の周藤恵奈を注視した。


 純白のベッドに腰掛ける、一糸まとわぬ彼女の裸体は倒錯的な美しさを孕んでいる。だが、それは悉く表面的なものだ。歯痒いくらいの自己否定と、それでも決して褪せることなく残っている夢の炎が、恵奈の顔に、水彩のような濃淡を併せ持つ笑みを浮かべさせた。


 その、清濁入り混じった顔が、七海の心を掴んで離さない。


 『些細な理由で、苦しくなっても夢を追い駆け続ける女』がそこに居た。


 少しずつ蝕むように見開かれた眼差しでパソコンに映る恵奈を見詰め、悔しくなる。


 今の七海では、彼女の持つ美しさを全て表現することができない。そう思わせるほど彼女は魅力的で、それに気付いた時、七海はようやく周藤恵奈の魅力に、個性に行き着いた。


 強く握り締められていた拳を、そっと緩める。エアコンの風が入ると、そこに汗を知覚した。


 ――周藤恵奈は、夢追い人だ。


 果たしてそれが他者と差別化できている『個性』なのかは断言できない。だが、テレビの中の一人の女性に憧れ、今度は自分がそれになろうとする生き様は紛れもなく彼女だけのものであり、彼女が最初にした『誰かになろうとする行為』、つまり演技もどきは、それなのだ。


 幼い頃に見た綺麗な女性に憧れただけで、何年も、プライベートを押し殺して努力をし続け、涙を呑んで、苦しくなりながらも歩き続けた。それができる人間だ。


「本当に、それだけなんだ。笑えるでしょ」


 少々自嘲気味にそう言った恵奈に、七海は相好を崩す。


「……まあ、面白くはある。それだけの憧れで、そこまでするのかって」

「私自身、自分でも変なことしてる自覚はあるよ。だから言いたくなかったの」

「本当に笑える。――でも、嗤うつもりはない」


 七海が言い切ると、恵奈は意外そうな目で「どうし――」て、と疑念を口にしようとした。だが、それが紡がれる前に、七海は小さく手を伸ばして言葉を封じる。インタビュアーとしては酷く失格な気がするが、「だって、それが『周藤恵奈』だろ」と言い切った。


 恵奈は戸惑いを隠せない様子だったが、一秒、また一秒と経つにつれて意味を理解するように驚きを顔に宿していき、何か報われたような、そんな安堵と疲弊の滲む表情を見せた。


 そして、七海は最後の質問を繰り出す。


「質問、二十四。お前は女優になって何をしたい?」


 恵奈は何度か瞬きをして考えた後、改めて今の話をまとめた。


「今度は私が、誰かに憧れを届けたい」


 満足だ。七海は目を瞑ってその言葉を噛み締めると、ドサリと椅子に座り込んだ。


「台本を仕上げる。服を着て」


 それだけ言い残して直ちに執筆作業に取り掛かった七海を、恵奈はしばらく呆然と眺めていた。「え、あ」と呟いた彼女は、「分かった」と了承の意を告げて素直に持ってきた服に着替える。今日、このままインタビューの後に撮影をする予定だったため、それに合わせたラフ過ぎない部屋着だ。着替えてバスローブをテーブルに置いた恵奈は、スマートフォンのカメラを覗き込んだり、ボックスライトの電源を切ったりと忙しなく動きだす。


 視界の端で小さな物音を立て続ける彼女を見過ごすこと一分、七海は溜息を吐く。


「……気が散るからベッドで寝てなよ。スマホ触ってても文句言わないから」

「あ、いやあ……台本、気になっちゃって。何が分かったのかな、とか」

「台本が出来たら全部伝えるよ。気になるならパソコン見ていてもいいから、大人しく」


 言われた恵奈はきょろきょろと周囲を見回すが、椅子は一脚しか用意されていない。


 恵奈は仕方がなく七海の椅子の後ろで膝立ちをしようとするから、流石に見かねて、七海は椅子に浅く座り直して股を開く。そして、片方の足をパシンと叩いて座るように促した。恵奈は恐る恐る、どこか楽しそうな表情でそこに腰を置いた。七海の股の間に彼女の両足が置かれ、その片手が七海の腰に回される。下手をすると人目を憚らないカップルのような様相だ。


「私は勘違いをしてた」


 七海は文字を打ち込む傍ら、思考の切れ目を縫うようにぽつぽつと喋る。タイピングの間隙での台詞であり、台本制作と会話を並行できる訳でないことは分かるから、恵奈は「うん」と必要最小限の相槌で先を促す。不要な情報を差し込まない。


「私もお前も、『周藤恵奈』という人間から、魅力や個性を探し出そうとしていた。理屈で考えていたんだ。でも、個性はともかく、魅力って探し出すものじゃないと思う」


 考え込むような恵奈の目が台本の文字列を辿った。


「言語化に苦心することはあっても、魅力の本質は『その人が、相手の何に惹かれたか』に終始するべきなんだよ。探し出そうとした時点で、それは自分ではない誰かが感じた魅力で。その魅力を私やお前が表現しようとしても、紛い物なんだ。人は――知らないものを表現できない。味わったことのない感情を言葉にできない。魅力を、伝えられない」


 十数秒の沈黙の間に、台本が二行出来上がる。


「だから、私が感じた魅力をお前に伝え、お前がそれを心から理解する必要がある。そして、そこに自分の個性を見出して、言葉にするべきだ」


 更に十数秒。一行の台詞が刻まれた。隙を縫って恵奈は尋ねる。


「じゃあ君は……私の何が魅力的だと感じたの?」


 七海はキーボードに置いていた指を離す。邪魔をしてしまったかと、「あ、ごめ」と恵奈が謝罪をしようとするが、「いや」と遮った。ここから先の台本をブラッシュアップするためにも、今一度、言葉にする必要があるように感じた。


「私はしばらくお前の魅力が分からなかった。無論、外見や行動、性格の類で世間一般に長所と言われる部分を列挙することはできたけど、『周藤恵奈』でなければいけない理由、お前だけの、お前に感じた魅力を自分の中に見出せなかった。――けど、忘れているだけだった」


 恵奈は七海の膝の上で丸い目を向けてくる。


「思い出したんだよ。視聴覚室で……一度は断ったお前の頼みを引き受けた時を。理由は、色々と話したよね。二転三転した。ただの気まぐれだとか、嫌悪感だとか」

「あ-、したね。昔の話みたいだ」

「でも、自分でも忘れている感情が一つだけあった」


 七海は面と向かって伝えることに一抹の気恥ずかしさを覚えつつ、想いを言葉に紡ぐ。




「夢を語る、お前の姿に惹かれたんだ。妬ましいくらい、強く」




 それを聞いた時の恵奈の顔は、羞恥やら喜びやら複雑な感情が入り乱れて赤く染まっていた。腰に回された彼女の手が熱く、シャツを一枚隔ててもその熱は伝わってきた。


「私は――お前が夢を成就させるために積み重ねてきた努力と、その根源である動機こそが『周藤恵奈』の個性であり、魅力だと考える。誰かにとっては呆れるくらい些細で、でも、お前にとっては自分の、他の全てを投げ出してでも成し遂げたいくらい大切な宝物だ」


 腰に回された恵奈の手がそっとシャツを掴み、そして恵奈は静かに頷く。もう一度、繰り返して頷いた後、「うん」とそれを大切にするように認めた。


「これは、雑談なんだけどさ」


 七海がそう切り出すと、それが意外だったのか、恵奈は呆けた様子で頷く。「うん」と相槌が来たから、キーボードに乗せた指を止めた。


「私も、私の夢を大切にしようと思う。――お前に会えてよかった」


 打鍵音が再開する。ノートパソコンに向けたきり、その顔を恵奈へと向けるつもりはない。


 だが、黒髪から覗く耳が微かに赤く染まっているのを見た恵奈は、それを茶化そうかと頬を緩める。しかし、思っていたよりも自然な笑みが浮かんでしまったから、恵奈も自分の感情に素直になることにした。


「今は私も、君に頼ってよかったと思ってる。変な人だとは相変わらず思うけどね」


 ――変な人に頼っちゃったんだなあ、私。


 かつて非礼を詫びて和解した日、恵奈はそう言った。そんなことを思い出した七海は、ほんの数週間前の出来事がやけに昔のように感じられて、口元だけで笑う。


 やがて、台本が書き上がる。


「これでいこうと思う。どうだろう」


 七海は膝の上の恵奈に改めて台本を読ませる。些細な言い回しの修正はあるだろうが、大まかなトークの内容を指示するためのものだ。お互いに細かくは言及しない。


 執筆作業を傍らで眺めていた恵奈は、最初から、丁寧にそれを読みなおす。


 彫刻品を吟味するように。音楽に浸るように。絵画を味わうように。


 頭から爪先まで読んだ。


 そして、七海は読み上げた頃を見計らって、情けなくも予防線を引いた。


「正しいとは断言できないけど、これが、エクレールプロモーションがお前に求める『個性』だと思う。ここに、私が今までお前と向き合って知った上澄みを詰め込んだ」

「澱は無いんだ?」

「私の中にあればいい。それとも、これじゃ不安?」


 尋ねると、「ふふ」と笑って恵奈は首を横に振った。


 そして、膝の上にある七海の手に自分の手を繋ぐ。


「言ったでしょ、信じるって。死ぬまで付き合ってくれるから、私は死ぬまで信じるよ。君は私のお墓に入ってくれないかもしれないけど、私は君と一緒に埋葬されても構わないから」


 随分と重い話をするものだと笑いつつ、彼女と共に土の中に眠るのなら、賑やかで心地よさそうだと思った。「準備をしよう」と伝えると、「はーい」と、恵奈がいつもの笑みを見せた。


 恵奈は台本をスマートフォンで読み、七海は傍らで先ほどセッティングした撮影機材を微調整。レフ板の角度と位置は早くも決まり、後はどれくらいズームアップするかで悩む。


 プッシュしたい点は夢を語る恵奈の顔。故に近付けたいが、あまり近すぎても露骨で不自然だ。良い塩梅を探す必要がある。


「私さ」


 恵奈がそう口を開く。早くも台本は覚えたようで、スマートフォンはベッドに置かれていた。


「うん」

「自分の動機を矮小なものだと思ってた」


 思わず恵奈を見ると、彼女は穏やかな表情で語る。


「なんか――色々な人が、俳優としてどういうことを表現したい、みたいな格好いい目標だったり、将来性とか収入とか、地に足を付けた現実的な理屈を掲げていたの。だから、いつの間にか私の憧れは俗的で、ちょっと子供っぽいんじゃないかって思い始めてた。自己PRとしても相応しくないと思って、オーディションで言及することはなかったの」


 彼女の挙げた動機は確かに格好いいものだ。だが、憧れるようなことではないと考える。目標も夢も、誰もが自分の内側に抱えているもので、それは裸と同じ。どれだけの欺瞞で覆い隠したところで変わる訳ではなく、嘘を吐くこともできない。ただ、隠すことしかできないのだ。


 だから、そんなことはしなくてもいい。七海は恵奈にそれを学び――恵奈も、七海に学んだ。


「でも、君が認めてくれるから、胸を張っても良いんだと思えた」


 そう言って恵奈が破顔したから、七海はカメラの位置をビタリと決めて目を細め、笑う。


「憧れるくらい、綺麗で自由だったんだろ」

「うん」

「同じだよ。私も、スクリーンの中の、宇宙の広さに憧れた。だから、それでいいはずなんだ」


 難しいことを色々と考えて遠回りをしてきた自覚があるが、結局のところ、事はそう難しい話ではないのだ。ただ、誰かに憧れたから、憧れたままに走り出せばよかっただけ。薮崎七海は誰かの目を気にして足を止め、周藤恵奈もまた、人の目を気にして自信を失っていた。


 自分は、自分だ。誰にもそれは替えられない。


 だから、自分の内に宿る夢も自分だけのものだ。


 ――準備ができた。七海はパソコンで映像と音声を確かめる。どちらも問題はなく、後はエンターキーを押すだけで撮影が開始することだろう。台本を覚えた恵奈がそれを忘れてしまわない内に、という配慮で彼女に「準備は……」と尋ねる。だが、恵奈がそれを遮った。


「順当に行くと、私は遠からず女優としてデビューすることになるんだと思う。それがエクレールプロモーションかどうかは、分からないけどね」

「いきなり大見得を切ったね。それで?」

「だから君も、いつか必ず映画監督になってね」


 思わず言葉を失った。世界から音が消え、全てが色褪せてモノクロになったような錯覚を覚える。そんな世界の中、ただ一人、色を持って言葉を発する彼女は、驚く七海に続けた。


「そしていつか、女優になった私を主演に、君が映画を撮ってよ。監督」


 ジワジワと、緊張と興奮が蝕むように全身を襲う。焚火にガソリンを放り込まれたような気分だった。大事に、大事に、消えないように抱えていた炎が爆発して、七海は参ったと苦笑する。苦手だった『カントク』というあだ名が、そんな些末なトラウマを全て叩き潰すくらいの勢いでプレッシャーを与えてきた。だが、それが不思議なほどに心地よい。


 心臓が動き、血管を通して血液が全身を巡る感覚を、生きている実感を味わう。


 適当な大学名を書いた進路調査票はまだ出していない。修正はできる。


 映画なら、美大だろうか。技術は現場で学ぶことができても、様々な横の繋がりを得ることができるという点で専門的な大学に通ったほうがいいのかもしれない。今頃になって両親に相談して、果たして学費を出してもらえるか。バイトと勉強を並行することになるかもしれない。


 考え始めると止まらない。だが、驚くべきことに、拒絶の選択肢は浮かばなかった。


 七海は吹き出すように笑って、腰に手を置いた。


「今から営業かよ。気が早いね」

「駄目かな?」

「いいや、全然構わないよ。その時のお前の実力が要求水準を満たしてるなら、ね。でも、そうか――そうなると、これが監督としての私の処女作になる訳か」


 そう言ってベッドの上の恵奈を眺める。指先でフレームを作った。


「なら、私のデビュー作でもあるね。タイトルは?」


 恵奈は可愛らしくポーズを取る。七海はそんな恵奈を眺めながらタイトルを黙考する。


 実に十秒間、唸りながら吟味したタイトルを堂々と宣言した。




「『プリマドンナ・プロパガンダ私の最初の主演女優』」


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