第17話

 それから数日後、七海は放課後の教室でA4用紙に書かれた台本と睨み合っていた。


 父である雄二から多くのアドバイスを受け取って恵奈の魅力を分析したのだが、一向にオーディション突破の糸口は見えない。例えば、人格に優れている、などは明確に周藤恵奈の長所だが、語れるエピソードが存在しなければ口先だけの妄言になってしまい、かといってどうにか過去の経歴とこじつければ歪みが生まれて嘘に聞こえてしまう。


 単に魅力を掘り出すだけではなく、それを恵奈の口から言葉として語らせる必要があるというのが、何とも難しいところであった。


 帰りのHRはとっくに終了して、生徒達の多くが教室を去っているのだが、七海は腰を据えたまま台本を見詰め続ける。家に居ても学校に居ても作業の内容が変わらないのだ。


 そんな七海に、ふと側方から声が掛かる。


「なーなみっ」


 底抜けに明るい声を掛けてきたのは、晴れて野球部マネージャーの座を離れた田中だった。元から幽霊部員だった彼女は、斎藤を含む元野球部の男子数名とカースト上位の女子数名を背後にこちらを見ている。何名かは手を振ってきていた。どうやら話題に上がっていたらしい。


 目線を合わせた七海は、席も立たずに応対した。


「どうした?」

「息抜きする?」


 『遊ぼう』という言葉に対する断りの文句を用意していた七海は、思わず鼻白む。


 そんな七海の反応が予想通りだったのか、田中は微かに悪戯っぽい笑みを見せた。確かめたり、考えたり――そんな複雑なことまではしないが、何となく、彼女が自分の行動を応援してくれているような気がしたから、作るまでもなく自然と浮かんできた笑みを見せ、用意していた言葉を蹴り飛ばす。


「――いや、もう少し頑張るよ」


 そう答えると、田中の背後の友人達が惜しそうな顔をするから、存外に自分は良い友人を持っていたのだと気付かされる。そして、田中は彼女達を背に、笑って頷いた。


「そっか。頑張って」


 そう言って、田中達は内輪で軽い雑談をした後に教室を出て行った。


 急に静かになった教室に、寂しさではなく勇気をもらいながら台本と向き合う。


 開放された窓から吹き込む夏の夕方の風が、色付き始めた木の葉を香らせる。葉擦れの音に一瞬だけ目を細めた後、開きっぱなしのノートパソコンに繋がったイヤホンを耳に付ける。


 それから、ネットに上がっている多くのオーディション動画や有名俳優たちの過去のオーディション経験談を漁り、台本の案を詰めていく。挨拶、本題、締め。その原則を無理に壊して奇抜な動画を送り付けるのではなく、あくまでも話の内容で印象に残り、『周藤恵奈と仕事をしたい』と思わせる必要がある。小手先の技術ではなく、何を、どう売り出すか。


 女優としての武器を誇示する必要がある。


 微かな黄色を帯びた晩夏の空に溺れるように時間を過ごしていると、気付けば、空が橙色に染まっていた。気絶していたのではないかと錯覚するような時間の経過だったが、A4用紙には尋常ではない数の文字が敷き詰められて真っ黒になっていたから、笑ってしまう。


 ふと、視界の端に奇妙なものが映った。


 隣の席に、コンビニの袋が一つ置かれていた。そして、袋は一枚の紙を踏んでいる。


 先刻までは無かったものだ。まったく気づかなかったが、自分宛てのものだろうか。


 七海は袋の下の紙を一瞬だけ覗くと、そこに見知った名前が見えたから、手に取る。




 ――これ食べて頑張って。余ったら周藤さんに。 田中と愉快な仲間たち




 袋の中にはチョコレートやポテトチップス、パックのジュースが入っている。恵奈も食べられるように、それぞれ二つずつだ。教室を出て行った後、これを置きに戻ってきたのだろう。その中には先日、恵奈を小馬鹿にしていた女子も居た筈だが――そう考え、七海は相好を崩す。スマートフォンで田中に『ごちそうさま』の文字を送って、再び台本に向き合った。


 「甘い」とミルクチョコレートに呟いていると、不意に教室後方の扉が開いた。


 見ると、それは二時間ほど前に帰宅した筈の真白だった。彼女は驚きに目を開いている。


「びっくりした。真白か」

「驚いたのはこっちだ。まだ帰ってなかったのか」


 呆れたような感心したような、中途半端な笑みを覗かせた彼女は前の席に座る。


「詰まってんのか?」

「まあね。そっちは忘れ物?」

「バスケ部の備品を持ち帰ってたんでな。今日、返した。これで完全に引退だ」


 そう呟く真白の横顔には充足感と寂寥感と、それから清々しさが宿っていた。


 部外者が安易に口を挟むのも憚られ、七海は「そっか。お疲れ様」とだけ呟いた。


 真白が首を伸ばしてパソコンを覗き込む。画面には現役の人気俳優が語るオーディションの合格秘訣がインタビュー形式で書かれていた。「胡散くせー」と笑う真白に「藁にも縋りたい気分でね」と肩を竦める。運も実力の内。故に、語る者の中には運だけで成功した者も居るだろう。成功例を盲目的に信頼はできないが、参考にはするべきだと七海は考える。


「で、コイツの言ってることは信用できるのか?」

「私自身が業界に詳しい訳じゃないから断言はできないけど――『誰が言っているか』っていう観点で言うと、素性も明かさないライターの話よりは信憑性と信頼性がある。ただ、話してる内容は既に恵奈が実践しているレベルなんだよね」

「まあ、既にスカウトは貰ってるんだもんな」


 芸能オーディションが簡単なものではないというのは大前提で、それでも『周藤恵奈がエクレールプロモーションで落選する』のには別の問題がある。その解決の糸口は範例を見た程度で解決できるものではなく、余計に混乱するばかりであった。


「顔は良いし、演技の実力もある。人格も問題ない。――何が足りないんだろうね」


 もしも七海がタレント事務所の採用担当だとしても、やはり恵奈は採るだろう。


 そんなことを考えていると、七海の机に頬杖を突いた真白が訊いてくる。




「そういえばお前、アイツの演技見たのか?」




 それは当たり前の疑問だった。浅い面識で『演技の実力もある』と断定する者が居れば、『コイツは実際に演技を見たのか』と考えて当然なのだ。


 そして、その疑問に対する返答は――


「……そういや、見てない」


 「はぁ?」と呆れたような真白の顔。


 恵奈が実力には自信があると断言し、また、彼女にスカウトが来ているという話も加味すると『能力は問題なく持っている』と判断するのが妥当だっただけ。そこを疑うつもりは無い。だが、実際に見たことがないものを伝聞だけで宣伝するのは少々、筋が通らない気がした。


「そっか。まずはそこからじゃん」


 当たり前の話だが、灯台下暗しであった。


 真白の呆れ顔を尻目にスマートフォンを取り出すと、七海は速やかに恵奈へ連絡を取った。








 『鳩が豆鉄砲を食ったよう』とは、突然のことに驚いた様子を表すことわざだ。だが、単に突然の事態に対する驚きを示すだけであれば、何も『豆鉄砲』に限定する必要はないだろうと七海は考える。ダンプカーに轢かれたっていいわけだ。そうでなはなく豆鉄砲に限るのはつまるところ、『本来は自分の食べ物である豆に対する油断から生じた豆鉄砲への驚き』を表現したいということで、つまり、このことわざの本質は『油断に対する奇襲』だと考える。


 ――さて、真白の助言に基づいて恵奈へ『レッスンを見たい』と連絡した当日の夜。


 七海は養成所の部屋の隅で俳優の卵達を眺めていた。


 まさか提案した初日に、講師から『生徒達の刺激になると思うのでぜひ来てください』と言われるとは思わなかった七海は、その旨を聞いた時、まさしく豆鉄砲でも食ったような顔をしていた。だが、講師の言った通りに、生徒達は挨拶もなく部屋の隅でノートパソコンとメモ帳を広げて座り込む七海が気になる様子だった。刺激になっているのなら僥倖だ。


 部屋はやや狭めで、壁一面に巨大な鏡が貼り付けられている。床は板張りで、その上には室内履きを履いた若い生徒達。その中には恵奈の姿もある。彼女は見知った顔があるからか、少々緊張しているように見える。そして、そんな彼らに対して指導をする壮年の女性が一名。


 夜間部の今日のレッスンは、七海がちょうど見たいと思っていた演技指導だった。


 台本を持った女性がワンカットにおける要点を掻い摘んで生徒に説明を始めた。


「ここは女性が青年に復讐の念を抱いていると明かすシーンです。となると当然、女性の胸中には筆舌にし難い憎悪の念が宿っている訳ですが、これを明確に表情、そして言動に落とし込むのが皆さんの仕事です。では、憎悪とはどのように表現すればいいか――」


 そんな風に語り始めた壮年の女性は、一通りの説明を終えると実際の手本を見せた。


 台本通りに青年へと殺意を訴える女性。暖色の照明が点灯した養成所での一幕、受け取り手が没頭できないそんな状況下でも、『上手い』と分かるほど優れた演技だ。まさしくお手本と言うのに相応しいだろうと、舌を巻く。


 そして、照明が一部を残して落ち、スポットライトのように照らされた空間で生徒達が一人ずつ演技を始める。「うわ」と小さな声を上げてしまった。見知った相手に自分の演技を見られるとは随分と気後れしそうなものだが、皆真剣な表情だった。演技の巧拙はやはりあるが、それでも聞き入ってしまうのは熱が籠っているからか。


 そんな風に眺めていると、部屋の扉がこっそりと開けられる。


 顔を覗かせたのは、七海の申し出を快諾し、そして養成所を訪れた時に応対してくれた初老の女性だった。髪は白髪染めであることが窺え、穏やかな笑みを浮かべる顔には、薄い化粧で自然に隠された皺。総合的に見て加齢は隠しきれていない。


 それでも『若々しく美しい』という印象の拭えない人物だった。


 名前は青木だったか。この養成所の名前にもなっている。


 青木は七海の傍にしゃがみ込む。


「いかがですか、薮崎さん」

「まだ恵奈の演技は見られていないのですが――私個人としても、とても勉強になっています。この度は貴重な機会をいただき、本当にありがとうございます」


 歩み寄ってきた青木に丁寧に頭を下げると、彼女は声を潜め、口元を押さえて笑う。


「ふふ、いえ。生徒達には薮崎さんを『映画監督の卵』と紹介しております。慣れてくると『見られている』という意識が減っていくもので、それ自体は一概に悪いことではないのですが、やはり成長段階では必要なもの。……そういう観点からすると、新鮮な部外者というのは彼らの良い刺激になる。こちらこそ、助かっていますよ」


 そう言ってもらえると助かる。そう思いながら二人で生徒達の演技を鑑賞した。


 やがて、順番は巡り巡って最後、恵奈の番が訪れた。


 彼女は台本を置いて指示された場所に立つ。その瞬間、彼女の表情が切り替わった。


 レッスンを受ける一人の生徒ではなく、目の前の講師を心の底から軽蔑し、憎みつつもそれを苦しそうな表情の裏側に押し込んだ、複雑な表情。一目で危険な敵意を匂わせた彼女は、熱を帯びつつもどこか淡々と台詞を読み上げる。後半は講師の読み上げ方に近かったが、我流だろうか。前半はまるで違う。だが、それでも確かに『憎悪』を感じさせる演技だった。


 上手い。下手。そういう尺度で測ることはできず、ただ、その演技を見た時には不思議な安心感を覚えた。それは多くの邦画やテレビドラマを見てきた七海の知る『プロの演技』そのものだったからだ。息を呑み、ただ見惚れる。


 そして間もなく演技を終えると、講師は驚くような様子も見せず、他の生徒より少々厳しめに講評を始めた。恵奈は真剣な表情でそれに聞き入っている。褒めることで伸びる生徒と、叩くことで伸びる金属がある。周藤恵奈は後者なのだろう。


 七海は思わず息を吐く。ふと緩めた手の内側には軽く汗をかいていた。


「凄いでしょう、彼女」


 隣で眺めていた青木がそう口を挟んだ。


「ええ、スカウトが来ていると聞いたから予想はできていましたが――上手です」

「来たばかりの頃はまだ拙い部分も多かったと記憶していますが、見る度、回を重ねる度に上達しています。運動能力も発声も、そして技術も。彼女の尋常ならざる努力を示している」


 青木はそう呟くと、講評をよそに七海を見る。


「努力している人に報われてほしいと思うのは、都合が良いのでしょうかねぇ」


 そう言って自らの頬に手を当てる青木の表情は、何かを希うようなものだった。


 七海が恵奈のオーディションに協力していることは話している。つまるところこの言葉は、遠回しに『どうにかしろ』と言っているようなもの。七海は軽いプレッシャーを感じて苦笑をしつつも、「どうなんですかね」と相槌を打った。


「努力して願ったからと報われる道理が無いのが世の常だとは思いますけど――私も、彼女にはプロとして業界に羽ばたいてほしいと思いますよ」


 まるで、娘を褒められたように破顔する青木。


「それは、お友達として?」

「それを否定する気はありませんけど、一人の映像好きとしても、今日、今。彼女の演じる『誰か』をテレビで観てみたいと感じました」


 青木は満足したように「そうですか」と頷くと、そっと腰を持ち上げた。


 そのまま立ち去るかと思いきや、少しの間、その場に立ち尽くして恵奈を眺めている。良い機会だと思い、七海は青木に尋ねることにした。ここに来た本来の目的を達するためだ。


「あの、お忙しいところにすみません」

「はい。何でしょうか?」


 物腰柔らかく青木が応じるから、本題は切り出しやすかった。


「青木さんから見て、今の恵奈にプロとしてやっていく実力はありますか?」


 今回はまず、能力の過不足を見るのが目的だ。恵奈がエクレールプロモーションに合格するためには、雄二曰く『恵奈でなければいけない理由』を模索する必要があるらしいが、それについては自分達で自己分析をするとして。今求めるのは、客観的な能力の巧拙。


 そして、それについて俳優養成所の講師はうってつけと言える。


 青木は「そうですねえ」と間延びした相槌を打って期待の眼差しを恵奈に注ぐ。


「本番でやや緊張した素振りを見せる節はありますが……総合的に見て、現段階でも演技で食べている人達と遜色のない実力は持っているでしょう。技量は充分。プロとしての心構えも事務所に入れば磨かれていく。『やっていけるだろう』というのが私の判断です」


 つまるところ、やはり実力には問題が無いということだ。


「……ありがとうございます」


 そうなれば、問題は本格的に『魅力の宣伝』に限定される。


 どうしたものか。七海は膝に頬杖を突いて考え込む。


 今度は青木から七海に質問が返ってきた。


「薮崎さんは、どうして周藤さんのお手伝いを?」


 最近、似たようなことを訊かれたな。そんなことを思いながら格好つけて応じる。


「罪悪感と、それから自分の為です」


 あろうことか周藤恵奈の背中に憧れて、それを追いかけてしまったのだ。であれば、彼女がプロとしてデビューするまで七海の夢など追い駆けられない。


 青木は「ふむ」と何かを考え込んだ後、手を後ろで組む。


「既にご存知かもしれませんが、芸能事務所は場所により特色があります。音楽関係、バラエティ、俳優業――彼女の挑むエクレールプロモーションは、俳優業の中でも更に『個性』を重視した独特な場所です」


 七海達が分析した通りだ。頷いて返す。


「我々にできるアドバイスも限られており、周藤さんも苦労している。そんな時に貴女の協力を受けることができ、彼女も精神的に救われたことかと思います」

「そうですかね。……そうだといいですけど」

「ですが、優しい人ほど、人からの助力を無償で受け取ることに苦心する」


 七海は思わず口を噤んで、青木の顔からその言葉の真意を読み取ろうとした。


 何が言いたい。そう思って見ると、青木は七海と恵奈を慮る大人の顔を見せた。


「周藤さんは強い子ですが、人並みに傷付きます。どうか、支えてあげてください」


 そう言って青木は丁寧にお辞儀をした。深く、とても深く頭を下げるものだから呆気に取られ、彼女が顔を上げるのと同時に「あの――」と意味を尋ねようとした。


 だが、時を同じくして講評が終わり、短い休憩時間に入る。


 恵奈が服の襟を掴んで身体に空気を入れながら歩み寄ってきたから、それを見た青木は「では」と会釈をして質問を待たずに去って行った。七海は遮られた言葉を呑み込んで、溜息として吐き出してから恵奈の方を見た。彼女は穏やかに手を振ってくる。


「や。青木さんと何話してたの?」

「雑談だよ。色々と教えてもらっていた」


 「ふーん」と恵奈は呟きつつ、七海から三メートルほど離れた場所に腰を落とした。


 七海は胡坐に頬杖を突きながらそれを眺めると、恵奈は訝しそうに眉根を寄せてきた。


「どしたの?」

「どうしてそんな距離置くんだよ」

「いや、ちょっと汗かいたし」


 こちらは別に気にしないのだが、彼女が気にするなら納得しておこう。軽く肩を竦めた。


 恵奈は少々疲れた様子でペットボトルの天然水を二口ほど飲み、一息を吐く。


「驚いたよ。本当に上手だった。お芝居」

「そう? そうだったら嬉しいな。頑張ってるからね」

「――で、色々考えたところ、やっぱり課題は自己分析だと思う。青木さん曰くエクレールプロモーションは『個性を重視』しているらしいから、恵奈の個性をどうやって一分の動画で伝えていくかが大事だ。そうするためにも、やっぱり伝える内容を吟味する必要があって……」


 と、休憩時間を無駄にしないよう矢継ぎ早に考えていたことを話すと、恵奈は真剣な表情で静聴する。――と、一瞬、堪えかねるように目を細めると、きゅっと目を瞑って目頭を押さえた。「ごめん」と小さく詫びて目を開けた彼女は、限界を迎えつつある瞼を押し止める。


 眠気と格闘しているように見えた。寝不足なのだろうか。


 それを視認した七海は、口をぴたりと閉ざしてしまう。


 周藤恵奈は、七海が出会ってからというもの、ただの一度も信念を曲げずに目標を追い駆け続けていた。憧れるに相応しい傑物だと思っていたが――今まで休み続けた七海と違い、今まで走り続けてきたのが恵奈だ。同じように持久走を始めたとして、自分と同じように恵奈が走り続けられると思い込んでいたが、視野が狭かった。


 青木の言葉が思い浮かぶ。――『人並みに傷付きます』。


 ラーメン屋の帰りを思い出す。――『――頑張らないとなあ。私』。


 恵奈が休みたいと思っても、七海が走り続ける限り、彼女もまた足を止めることはしないだろう。『でも今は、友達だから信じたい』と彼女は言ったが、彼女にはそれを実現できてしまう精神力がある。それでも肉体は人間のものだから、考え込めば眠れない夜も来る。


 そして七海は自分の目的のため、そして彼女に対する罪悪感を拭うために協力している。


 そう、全て自分本位だった。彼女を分析するためには見ても、『周藤恵奈』個人を見ることはできていなかった。青木は、恵奈の体調からそれを読み取ったのかもしれない。


 急に黙り始めた七海に不安そうな目を向ける恵奈。


 七海は額を押さえて天井を仰いだ。


「今日、何時間寝た?」


 唐突な質問に、恵奈は面食らいながら正直に答える。


「ご……六時間」

「七時間は寝よう。できれば八時間――睡眠不足は美容に良くない」


 「商売道具だろ」と続けると、恵奈は「……うん」と申し訳なさそうに肩を落とす。馬鹿野郎、と七海は自分を責めた。彼女を責めたかった訳ではないのに。そう髪をぐしゃぐしゃと掻いた七海は、変に回りくどいことはせず、率直に言葉にすることにした。


「――悪い、責めたかった訳じゃないんだ」


 そう伝えると、恵奈は膝を抱えながらこちらを見る。


「学校で好き放題に課題を言って危機感を煽って、プライベートにまで踏み入って。その上でレッスンの休憩時間に作戦会議をするとか、少し、お前を蔑ろにし過ぎた。ごめん」


 頭を下げると、「へ?」と恵奈は驚いたように声を上げ、否定するように手を振る。


「い、いやいや! 七海は悪くないよ。私がちょっと、色々考え過ぎて寝不足だっただけ」


 言葉尻がやけに脳に残って、七海はそれを言及する。


「何か、悩み事?」


 メンタルケアも監督の仕事だ。雄二はそう言っていた。


 恵奈は言うか言うまいか迷った様子で黙った後、やがて呟くように答えた。


「や――ここまで手伝って貰ってるんだから、頑張って合格しないとな、って」


 七海は瞑目して天井を仰ぐと、葛藤だけを腹に残すように溜息を吐き切った。


 彼女の意気込みに応えて最後まで走らせ続けるか、彼女の夢のノイズになると分かっても休ませるか。彼女を想えばこそ、何が正解かは分からなかった。だが、間違いなく言えることは『周藤恵奈は今まで頑張ってきた』こと、そして『これからも頑張っていくこと』。最後に、『そうするくらい大切な夢だということ』だ。監督というのは制作における品質の保証、そして現場における諸々の責任を負う立場である。


 七海には、恵奈を支えつつその夢を成就させる使命がある。


 やがて、七海は腹を括って恵奈を見た。


「今回のオーディション、締め切りはもう近い。でも、その後は冬だ」

「う、うん? うん。それはそうだけど……それがどうかした?」

「だから、今回落ちたらお前の夢は、だいぶ未来の話になる」


 そう言うと、恵奈は気負うような様子で頷いた。


 それを、七海は壊すように言い切る。


「――でも、落ちてもいいと思う」


 恵奈の双眸が大きく見開かれ、口が半開きに何かを訴えようとした。言いたいことは分かるが、七海は苦渋の決断が正しかったと信じて言葉を重ねる。


「夢を叶えるために頑張ってる奴に言うべき言葉じゃないのは分かってる。でも、『合格したい』という気持ちはあっても、『合格しなければいけない』って責任はないはずだよ。もしもお前が、誰かの期待に応えて目的を達さないといけないって、自分を追い込んでいるなら……それは大きな見当違いだ。的外れも甚だしい。いいか、自分を追い込むな。何のために頑張ってきたんだ? ここで、知ったような口を利いている馬鹿女の為じゃないだろ」


 恵奈は驚愕の表情に少しずつ理解を滲ませていき、少し弱った顔を見せる。


 七海は恵奈の方に座り直して向き合い、飾らぬ言葉を積み重ねた。


「お前がどれだけ努力してきたかは知ってる。私だけじゃない。大勢が知っている。駄目でも、誰も責めたりなんてしない。結果を出せって無責任に期待もしない」


 期待は力になるが、時に重荷になる。それを理解するべきだった。


「この前の言葉は撤回するよ。私はお前の背中を押したいんじゃない」


 互いの脳に、ラーメン屋を訪れたあの日が過る。


「お前と一緒に頑張りたい。だから、疲れたら頼ってくれ」


 今までは一人と一人が手を組んで同じ方向に進んでいた。


 だが、違うはずだ。手を組まなくてもいい。必要なのは『二人』であること。それを両者が認識していること。七海は今日、初めて『周藤恵奈』を見たから、彼女にも自分を見させる必要がある。脚本家の書いた通りに役者が演じて、カメラマンの撮った映像に音響担当の音声を入れて――映画は一人一人の技術と情熱の結晶でありながら、『チーム』として互いの意思を理解し合い、支え合ってできている。それを失念していた。


 恵奈の双眸が微かに見開かれたかと思うと、ほんのりと水気を帯びた気がした。彼女は誤魔化すように笑みを浮かべようとして、段々と目が潤んでくるから、今度はどうにか押し殺すように唇を噛む。それでも溢れた雫が目尻に膨らんだから、手の甲でそれを拭った。


「ちょっと……寝不足で。最近頑張りすぎて、疲れちゃったかも」

「なら休もう。誰にだって日曜日は必要だろ」

「でも、少しサボって、そのせいで落ちちゃったらどうしよう」

「そしたら、それが私達の実力だってことだろ。体力も人それぞれ、サボるのと休むのは違うよ、恵奈。疲れたら休むべきだ」


 毎日頑張れる人間も居れば、そうでない人間も居る。『もう少し頑張る』はなまじ自分で調整できる部分だから軽視されがちだが、できないことは、どうやってもできないはずだ。


「駄目だったら盛大に休んで、また一緒に頑張ろう。乗りかかった舟だからね。死ぬまで付き合う。だから――焦らなくていいし、自分を追い込まなくていい。傍に居るから」


 そうハッキリと言い切った途端、恵奈は濡れた眼差しを大きく見開く。


 その頬が少しずつ紅潮していく。表情が別の理由で強張り始めた。


 七海にとって、もはや恵奈は一人の友人と呼ぶには大き過ぎる存在だ。


 憧れた相手であり、夢を追い駆ける切っ掛けをくれた恩人でもある。彼女が落ち込んで膝を抱えて居る時に、見捨てて前を向くことはできない。


 プロの世界では時に情を捨てる必要はあるのだろうが、ここで恵奈を見切って歩き出した自分の撮った映像に、七海はきっと期待できない。


 恵奈は、赤い顔にしばらく困ったような表情を浮かべた後、そこに淡い笑みを覗かせる。


「ほんとに、死ぬまで?」

「そういう意気込みって話だよ。同じ墓には入れないだろうから」


 そう茶化すと、恵奈は「ふふ」と穏やかに笑った。


 恵奈はしばらく考え込むように目を瞑ったかと思うと、据わったまま、手と足を使って器用に七海の方へ迫ってきた。肘が触れ合うような距離に近づいた恵奈は、照れながら言う。


「でもあと少しだし、もうちょっと頑張るよ」


 そう告げる彼女の顔に無理は無かったから、七海はそれを快諾する。


「そっか。じゃあ頑張ろう」


 周藤恵奈は――努力家だ。手垢のついた表現だが、それでも、そう呼ぶことに何ら躊躇いを感じない努力家である。それから、人を頼るのは得意だが、同じくらい自分を追い込んでしまう性格だ。『頼ろう』と決める切っ掛けがあれば、出会ったときのように人を頼り、そんな機会がなければ今日のように抱え込んでしまうのだろう。そして、ストイックに見えて甘えたがりなのかもしれない。自分を追い込むときの顔は張り詰めているが、それが緩むと、心身ともに距離を近づけてくる。器用だが、不器用な部分もしっかりと持ち合わせている。


 少しずつ、恵奈の核心を掴み始めているような、そんな感覚がした。


 それでもまだ浅い。もっと深く、視て、恵奈を識るべきだ。それが表現者だ。


「――取り敢えず、課題はさっき言った通り。ただ、具体的な解決策は分からない」


 七海は歯痒い表情でそう語る。数学のように解き方と答えが用意されているものであれば、先達の足跡を辿って正解へと行き着ける。だが、かつて人類が月を見上げるだけだった頃のように、求めるべき答えを理解していても、そこに行き着くための手段が分からない。


 宇宙服を着てロケットに乗り込むには、七海も恵奈も、まだ、少し未熟だった。


「応募の締め切りが三日後。一次の書類選考は一週間で終わって、それから三日以内に電子で動画データを送付。多く見積もって二週間かぁ。短いね」

「他人事みたいに言うな?」

「君のお陰で肩の力が抜けちゃった」


 あっけらかんと笑った恵奈は、両膝を伸ばして長座の前屈をする。驚くほど身体が柔らかい。


「なんか裏技とか無いの? こう、『猿でも分かる自己分析』みたいな」

「『○○というサイトの診断で努力家と出たので、私は頑張る人間です!』」

「たぶん今後二度と、書類選考すら通してもらえなくなるね」


 呆れ顔で肩を竦める七海と、溜息をこぼす恵奈。


 目的は合格。その為の課題は個性の主張。個性とはつまり、広義的に個々人の魅力であると解釈でき、それを知るための手段が分析。では、どのように分析をすればいいのか。雄二の教えに従って一緒に食事をし、一緒に過ごす時間を確保して多くのことを知ってきた。


 他に、何があるだろうか。




「――――あ」




 ふと、雄二が『参考程度に』と教えてくれた一つの例を思い出す。


 そして、少々馬鹿馬鹿し過ぎるから、口を噤んで忘れることにした。恵奈には聞こえていなかっただろうか。そんな風にちらりと横目に見ると、ハッキリと聞こえていたらしい。少しの期待を宿した眼差しが七海を射抜いていた。


「『あ』?」

「小林〇薬」

「私知ってるよ。君が冗談を言う時は滅茶苦茶機嫌が良いか悪いか、何かを誤魔化すときだって。――何か思いついたの? 突拍子が無くたっていいから、教えてよ」


 先ほど汗をかいたからと距離を置いたのを忘れたか、ぐいと身を寄せて詰問する恵奈。


 七海は苦々しい顔を背けて押し黙るが、「ねえ」と顔の良い女が面を近付けてくるから、逃げきれずに「なんだよ」と返事をしてしまう。「言ってよ」と半ばのしかかるような状態で恵奈が言うから、七海は視線を壁の方に逃がして数秒考えた後、自分の落ち度だと諦めて話す。


「……父さんがお世話になった監督に、その、変人が居るんだ。曰く『人類の大半が一様に、根本的に吐き連ねている欺瞞がある。それを暴くのが我々の使命だ』と」

「なんか、随分と崇高な理念だね。監督なの? ジャーナリストじゃなくて」

「そう、監督だよ。それも父さんと同じジャンル。だから、ね。欺瞞とはつまり――」


 七海は目の前にある恵奈の顎を掴むように顔を引き寄せ、耳元で一つの案を話す。


 聞いた恵奈は驚愕に目を見開くと、その顔を、じわじわと茹でられるように赤く染めていく。「は」と何を言いたいのかも分からない呟きをする頃には顔は真っ赤に彩られ、「はい?」と疑問を紡ぎきった頃には、見るだけで体温が上がりそうなほど顔が遠赤外線を発していた。


 恵奈は口元を手で覆い隠し、動揺に揺れる眼差しを七海に注いだ。「あの、それは」と、どうにか言葉に意味を持たせようとする恵奈に、七海は溜息を返す。


「AV流――というか、その人の思想が極端なんだよ」


 ぐい、と恵奈の身体を押し返してシャツの襟を直すべく摘まんだ七海は、そのままどうにか別の案を模索しようと意識を切り替えることに努めた。だが、恵奈は心ここにあらず。


 熟考の末、頬を染めたまま視線だけ七海に投げた。


「……君は、効果あると思う? 本当のところを答えてほしい」


 七海は口を噤んで返答を拒む。だが、注がれる視線がそれを許さない。


 根負けしたように真剣に考えた七海は、思った通りに返す。


「成果を保証はできないけど、息抜きに散歩をしたり旅行をしたりするように、非日常の環境で、自分を隠すものが無い状況だからこそ見えてくる本音はあると思う。それに――」


 何とも情けない話だが、その人物のやり方を拒めない理由が一つ。


「――選べるほど、今の私達にはやり方がある訳じゃない」


 自分達に呆れるようにそう言うと、恵奈は面食らったように天井を仰ぐ。


 息継ぎをするように顔を戻して嘆息した恵奈は、赤い顔をしばらく両手で覆う。その熱を確かめるように頬を手で挟んだ後、顔を微かに上気させたまま切り出した。


「持論があるんだけど」


 嫌な予感がした。


「『無駄に決まっている』って言うより、『無駄だった』って言える方が格好いい」


 格好いい持論だ。ここで聞かなければ賛辞を送っていたに違いない。


「正気?」

「正気だよ。やるだけやってみたい。駄目かな」


 どうやら決意は固いらしい。何とも馬鹿げた話である。


 だが、もっと馬鹿馬鹿しい話だが――七海もまた、何もせず机の前で唸り続けるよりは有意義だと感じ始めてしまっている。お互いに呆れるような気分で、七海は観念した。


「……分かったよ。色々手配しておく」


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