第16話

「――で、その中の一つが『一緒に食事をする』だったワケ」


 七海が、雄二から『他者の魅力を知るための方法』として聞き出した内容を話している間、恵奈は湯気の立つ塩ラーメンを前に、ジト、という擬音の似合う目をしていた。


 時刻は十八時。高校の最寄り駅から下りで一つの場所にある、それなりに繁盛しているらしいラーメン屋の片隅のテーブル席で、七海と恵奈は向き合っていた。


 固い椅子に挟まれた正方形の小さなテーブルには半分サイズの塩ラーメンが一つ。七海の注文した分は未到着だ。恵奈はお行儀よく七海の分が届くのを待っている訳だが、その間の暇潰しとして、七海が急に恵奈を食事に誘った理由を聞いたのである。


「経緯は分かったんだけど、そういうのってこう、夜景キラキラなホテルのディナーみたいな話じゃないの? 都会の家系ラーメン屋じゃないでしょ。美味しそうだけどさ」

「プロポーズじゃないんだから場所は二の次だろ。本質は同じ味覚を共有して、強制的に一緒に居る時間を作ることだと思う。必然的に会話も増えるし」

「風情が無いなあ。というか、味覚の共有が目的なら、君も塩ラーメンにしなよ」

「いや、チャーシュー麵食べたいし」


 会話を聞いていたかのように、丁度、卓にチャーシュー麵が運ばれてきた。


 大きな丼に大量の麺と、それが隠れるくらいのチャーシューが乗っている。「ほぉ」と七海が思わず声を上げると、「うわ」と恵奈が驚きを含みながら気圧される。しかし、その数秒後には固唾を飲んで視線を背けるあたり、彼女も気になってはいるのだろう。


 だが、配慮などしない。ダイエットなどと言ってカロリーから逃げたのは彼女だ。


「いただきます」


 声を揃え、無言でラーメンを食べ始める。雄二が言った『相手を知るための手段』とは、間違っても家系ラーメン店で黙々と食べたいものを食べる時間などではないだろうが、友人同士の放課後と考えると、これはこれで悪くない。恵奈もそう思ったのか、ちゅるちゅると麺を啜るその表情は気分の良さそうなそれだった。


 十分ほど黙々と食べると、先に完食したのは恵奈だった。


「ごちそうさまでした」


 そう手を合わせる彼女に、七海はチャーシューを咀嚼しながら会釈を返す。


「結局、無言で食べちゃうね」

「…………うむ。期待してたよりも一段階上の味だった」

「美味しい? チャーシュー麵」

「二つと一束までならやるけど」

「いや、太っちゃうから別にいいよ」


 つんと恵奈は顔を背けて鋼の理性を見せる。


「まあ、気が変わったら言ってくれ。私の胃袋に消える前に」


 そう言うと、恵奈は顔を歪めて葛藤を抱く。それを見た七海は冗談めかした顔で、「明日のランニングを増やせばいいんだよ」と、悪魔の囁きをする。恵奈は心底悔しそうな顔で目を瞑ると、「……じゃあ、いただきます」と折れた。


「気にしないからそのまま持っていきなよ」


 言って丼を差し出すと、恵奈は申し訳なさそうにしつつチャーシューを一口。その味にだらしなく頬を緩めた後、麺を啜って口に入れた。お行儀よく口を押さえて咀嚼し、嚥下。


 目が光る。


「おいしい」

「だろ」


 そうして更に五分が経過して、二人はラーメンを完食した。


 混雑まではもう少し時間がありそうだったので、二人で摘まめるような、ヘルシーな一品料理を追加注文し、届いたそれに箸を伸ばしながら作戦会議を始めた。


「さて、さっきも軽く話はしたけど、父さんから聞いた話を整理する」


 和解が上手くいったことは既に伝えている。恵奈は頷いた。


「えっと、『私でなければいけない理由』だったよね?」

「そう。恵奈が出したオーディション動画は、お前の容姿や話し方、技術やちょっとした特技が分かる。でも、『同じくらい美形で同じくらい有力な特技を持っている人』と比較した時に、相手を選ぶ理由も恵奈を選ぶ理由も、事務所には無い」


 はっきりと伝えると、恵奈はやや険しい表情で頷いた。


「まあ、それでも消去法で顔面水準を満たしているから採用してくれる事務所が大半だろうとも言ってた。ただ、エクレールプロモーションはそうではなかった。だから……」

「選ばせる必要がある。私を――周藤恵奈を」


 七海は深く頷いてキクラゲと卵を口に放り込んだ。


「自己分析。それが私達の課題だ」


 断言すると、恵奈はそれについて疑うようなことはせずに首肯を返した。


「そうなると、『じゃあ自己分析ってどうするのさ』という話になりますが」

「そこについては私が協力する。父さんから色々とやり方を聞いたから」

「例えば?」


 訊かれたから、七海はタンと食卓を指で叩いた。


 「食事」と答えると、半信半疑の様子で恵奈は肩を竦める。


「こんな食事で私の何が分かるの?」

「少なくとも体型維持にはそれなりに気を遣ってる――つまり素人の癖にプロ意識は一丁前だってことが分かる。あと、誘惑に弱い。それと食べ方が綺麗でお上品」


 言葉にすると、意外と初めて知るものが多かったんだなと再認識する。


 同じようなことを思ったのか、恵奈は恥ずかしそうに視線を逸らした。


「……まあ、すぐに結果が出るかは分からないけど。人生の、その道の先達が教えてくれたやり方だ。信じて、今は大人しくお前のことを知ろうと思う」


 焦ることと急ぐことは似て非なるもの。同様に、落ち着くことと怠けることも。


 急ぎつつも、落ち着くべきだ。七海は地に足を付けてその判断をした。理屈は納得しても感情的には受け入れ難いのか、恵奈は少々物言いたげな顔をする。


 だが、熟考の末に嘆息をして肩の力を抜いた。


「まあ、そうだね。今の私はプロになるレベルじゃないってことか」

「そうなる。プロは自分の魅力や武器をよく理解してるってことなんだろう」

「言われてみると道理だね。……少し、視野が狭かった」


 恵奈は落胆を隠さずにそう呟くと、七海は「お互い様だ」だと平然と言う。


「人間は自分にも嘘を吐く。自分が本当はどう思っているか、自分ですら分からない奴が居る。だから、自分の魅力なんて分からなくて当然なんだ。私達はまだ、素人なんだから」


 脳裏に幼馴染の手厳しい言葉を思い出しながら、その経験に基づくアドバイスを伝えると、恵奈は少し気持ちが楽になったように唇を緩めた。「そうかも」と曖昧に相槌をした後、「――うん、そうだね。そういうことにしよう」と穏やかに返答を具体化させた。


「じゃあさ、折角だから君のことも教えてよ」


 恵奈は乗り気にそう言った。七海は眉を顰めて発言の意図を疑う。


「……私? 私の素性を知ってどうするんだよ。オーディションなんて出ないよ」

「そんなの分かってるよ。でも、よく知らない人に自分のことを教えたくはないかな」


 『めんどくせえ』と倦怠感を隠さない眼差しで顔を背ける七海だったが、恵奈に冗談を言っている様子はない。――実際、人間の魅力や価値は他人との比較により決まる。五十メートル走を二秒で走破する怪物が居たとして、世界中に生物がその人しか居なければ、それは『足が速い』とはならない訳で。相互理解も分析には有効だろう。


 「ったく」と照れ隠しに渋々であるパフォーマンスをして、恵奈を見た。


「教えるったって、何を訊きたいのさ」

「そうだねえ。じゃあ、好きな食べ物とか」

「……蕎麦」

「ああごめんごめん、そんな呆れた目をしないで。アイスブレイクですよ」


 恵奈は七海の顔を見て慌てた様子で弁明をした後、唇を濡らす。


「そうだなあ。じゃあ――どうして私を手伝ってくれるのか、とか」


 今度は真剣に捻出したらしい疑問だった。だが、七海は肩を竦めて即座に返す。


「前にも話しただろ。お前で映画監督としての経験を積みたいんだよ」

「いや、それは分かるんだけどさ。映画監督を目指すなら今からでも映像系の勉強をしたり、自主制作を始めたり、後は美大の勉強を始めるのもアリだと思うんだ。正直、私のオーディションの手伝いは――その、遠回りな気がするんだよね。だから、本心を訊きたくて」


 七海は面食らったまましばらく黙った後、視線を斜め下に逃がして後ろ髪を掻く。


 恵奈の表情からは七海を責めたりするような意思は見えず、どうやら本心から疑問を抱いているらしいことが窺えた。


「本心だよ」


 まず、嘘を吐くなんて真似はしていないことを弁明しなければならないだろう。そう思い伝えた言葉に、恵奈は意外そうに「あ、そうなんだ」と呟くが、その言葉尻に被せる。


「――ただ、考えてみると、それだけじゃなかったのかもしれない。少し時間が欲しい」


 七海は返答を聞かずに腕を組んで考え込み、恵奈は頷いてそれを見守った。


 周藤恵奈は七海にとって憎たらしいほど羨ましい相手だった。自分のようには折れず、真っ直ぐに夢を追い駆ける力強さと、それを成就させる実力を持っていた。だから現実を理解させてやりたいと依頼を引き受け、だが、自分の愚かさを知ってそれを撤回した。


 七海は諸々を加味し、己の中の答えだろうと思われるものを言語化する。


「根底には、罪悪感があったと思う」


 そう呟くと、恵奈の双眸が驚きに見開かれる。


「それは……」

「……うん。恵奈に酷いことを言った、その償いだ」


 それを聞いた恵奈は眉尻を下げた後、「あの」と何かを言おうとする。短い付き合いだが、その性格は分かってきた。どうせ、無理に手伝わなくていいと言い始めるのだろう。だが、償いだけでここまで自分の人生を棒に振れるほど健全な人間ではない。


「でも、それだけじゃない。私は――お前に憧れているんだ」


 先ほどよりもいっそう大きく目が開かれ、恵奈の頬に微かな朱が差す。


「一度はお前の愚直さに怯んで逃げ出したよ。お前が羨ましかったんだ。周囲の反応や孤独に折れずに戦い続ける奴が格好良くて、自分はそうなれないからと卑屈に逃げた。自分は本気じゃなくて、お前に現実を教えてやるだけだって、絶望で先輩面をした」


 自嘲気味に笑う七海に対して、恵奈は寂しそうな顔をする。


 だが、七海は自嘲を含んだ笑みを穏やかなそれに変えて目を瞑る。


「でも、お前や親友に夢を思い出させられた」

「……七海」

「だから、今度は。憧れた友人の背中を押したい。それじゃ――不服かな?」


 恵奈は寂しそうだった顔に少しずつ、表現しきれぬ淡い笑みを宿し、それを噛み締めるように目を細める。好きな楽曲に没頭するように目を瞑って俯いた後、首をそっと横に振った。


 目を開いて視線が交わると、お互いに言葉は要らないことが分かった。


「君は……自分の弱さを認めて言葉にできるんだね」


 それは恵奈だって同じだろう。彼女もまた、自分に足りない部分を認め、その上で実力が足りずともできることを懸命に尽くし、夢を追っているのだから。そう思いつつ謙遜をする。


「ダサいだろ。開き直ってるんだ」

「でも、格好いいよ」


 間髪を挟まぬ反論に鼻白むと、恵奈は臆さず面と向かって重ねた。


「格好いいと思う。君は、凄く強い人だよ」


 七海は照れ隠しに前髪をくしゃっと掻いた後、視線を壁の方に逃がす。目が泳いだ末に、壁に貼られたレトロな手書きのメニュー表を見付ける。


 「なんか、頼むか」と話題を逸らすと、「照れ隠しだ」と笑いながら見透かしたようなことを言う恵奈が、七海は憎くて仕方がなかった。


 そうして、二人は空席が無くなる頃までまったりと食事と雑談を堪能した後、混み始めた頃にそそくさと店を後にした。




 店を出た二人は駅に足を運んでいた。


 お互いの行き先は正反対だ。どちらかの電車が来たらお別れだが、その時まで、人の少ないホームで並んで立って、静かに屋根の下に覗く空を眺める。真っ黒なキャンバスに散りばめられた白い星と黄金の月が美しい。湯に浸かるように、鮮やかな晩夏の温もりに浸った。


 ちらりと横の恵奈を見た七海は、一瞬、その美貌に見惚れる。宝石で作った目を嵌め込んだような、吸い込まれるような瞳、端麗な顔のパーツと絶妙な造形美をした輪郭。その美しさに気圧された七海は、これだけ容姿に優れ、そして演技の実力もあって性格の良い人間なのだから、遠からずプロの世界に足を踏み入れるだろうということを確信する。


 恵奈はエクレールプロモーションに拘っている。本人がどう思っているかは別として、それが叶わなかったとしても、引く手は数多だ。


 そう考えた時、一つの可能性が七海の心を蝕む。


 ――私は彼女の足を引っ張っているのではないか。


 考えると止まらない。特に思考を介さず、唐突に口が開いた。


「恵奈」


 恵奈は沈黙を名残惜しむことなく、穏やかに相槌を打った。


「なあに?」

「その……真面目な話なんだけど、私は映画監督として――それ以前に、何かを撮る者として、未熟だ」


 恵奈はそう卑下する七海を寂しそうに見るが、七海の真剣な眼差しを前に、単なる自虐で終わる話ではないと理解し、相槌として頷く。あくまでも相槌だ。彼女のむっとした表情は、そこに肯定の意を含んでいる訳ではないぞと弁明するようだった。


「だから、お前の協力者として見合った能力を提供できているとは思えない」


 すると、恵奈は少々ムキになった様子で反論を試みる。


「そんなの――それは……不釣り合いとか、そういうのは無いと思う」

「でも、実際に幾つかのスカウトを受けている女優の卵だ。私なんかじゃなくて――例えば本業の監督だったり、他の養成所の講師だったり。もっと有意義で効果的なアドバイスをくれる人は居ると思うんだよ。それに気付いた。気付いたからには、言うべきだとも思った」


 恵奈は先ほどの談笑の時とは打って変わって不満そうに複雑な顔を見せる。


「だから。これは私から頼み込んだ関係だけども――嫌なら断ってもいい」


 頼み込んだのはこちら側だが、強制をする気はない。その意思を言葉に伝えると、恵奈は僅かも葛藤を示すことはなく返答をしようとするから、七海は手を伸ばしてそれを遮った。


「でも……まだ私を信じてくれるなら、私もできる限りそれに応える。それだけは約束する」


 建前と、それから本音。しっかりとどちらも伝えると、恵奈は反論しようとしていた口を閉ざす。やや不機嫌そうだった目は不思議そうなそれに変わり、やがて、何かに勘付く。


「……もしかして、君。不安なの? 私が失望するんじゃないかって」


 ドギ、と心臓が鈍く跳ねて七海は肩を震わす。焦点が一瞬にして五十メートル泳いだ。世界記録だ。顔の熱を自覚しながら苦い顔をして目を逸らすと、ホームの蛍光灯の下、ハッキリとそれを見た恵奈は顔面に愉快の色を見せ、腹を揺する。「ふふ、あは――あははは!」と笑い出した彼女は、やがて口を押さえながらお上品な笑い方にする。


「そっか。うん、意外と小心者なんだね。いや、誠実って言ったほうがいいかな」


 変なことを口走ってしまった。七海はそう後悔しながら不貞腐れて黙るが、恵奈は倒れ込むように七海の身体に真横からぶつかり、自分へ振り向かせる。


「……能力はさ、お互い様だよ。君もさっき言ったでしょ、私達は素人だもの」


 見とれるほど鮮やかな目が七海だけを映している。


「前までは、こちらから頼ったからって理由で、信じなきゃ失礼だと思ってた」


 喧嘩の前の話だろう。そして、今に繋がる話が続く。


「でも今は、友達だから信じたい。信じてる――今も昔も、そこに腕は関係ないよ」


 どうやら、自分は些細なことを気にしてしまったらしい。


 そういう意味でも恥ずかしくなって溜息で誤魔化す七海に、恵奈は笑う。


「まあ、友情を優先して合理性を欠くなんてプロとして失格かもだけど」


 そう自虐するから、七海はそれを許さない。


「……でも、それがお前なんだと思う」


 そしてそれは、恐らく非合理的でありながらも魅力と言えるような気がした。


 ゲームだったら序盤で手に入るアクセサリーを付けて上昇する程度の、僅かな数値の『魅力』ではあるが、言葉として、触れ合って理解できるそれは数値以上の意味と価値がある。


 恵奈は「ふふ」と笑って己の胸に手を当てた。軽くウインクが入る。


「確かに。もしかして、こういうところも私の魅力?」


 同じようなことを考えていたらしい。だが、素直に肯定するのも癪で、七海は「どうだか」と小さく呟く。そんな七海の顔と、それを見る恵奈の顔には小さな笑みが浮かんでいた。


「――頑張らないとなあ。私」


 恵奈はそう自分に言い聞かせるように呟く。彼女は、少々気負うような表情をしていた。


 やがて、アナウンスが響いて電車が駆け込んでくる。恵奈が乗る列車だ。


 停車した電車の扉前に立ち、恵奈はこちらを振り返る。「じゃね」と手を振るから、手を振って見送った。別れの言葉よりも先に、そっと呟く。


「ありがとう、恵奈」


 その言葉は聞こえないギリギリの声量で放たれたが、彼女はちゃんと聞いていた。聞いた上で、恥ずかしがり屋のために返事をせず、ただ、笑顔で手を振り直す。


「また明日」

「また、明日」


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