第15話

 夜も深くなった頃、七海は自室のベッドの上でクッションに寄りかかり、間接照明とそれが生む影を眺めていた。


 雄二や妙子はもう一時間もすれば寝室に向かうだろう。そろそろ動き出さなければ。


 そう自分に言い聞かせるも、どうにも腰が持ち上がらない。


 薮崎雄二は良い父親だと、つくづく七海はそう感じている。深い感謝の念も抱いている。映画撮影や編集用の機材、映画観賞用の家電を買い与えてくれていることに対する俗物的な感謝もあるが、それ以上に、薮崎七海という娘を、あくまでも個人として尊重してくれていることへの強い謝意があった。気まずい間柄を『生意気な娘』と叱りつけて解決するのではなく、一人の人間として間合いを見極め接してくれた。彼の選んだそれが適切な距離感であったかは別として、適切に接しようとしてくれた事実そのものが、七海にはとても嬉しかった。


 自分が、一人の人間として認められているような気がしたから。


 ふと、枕元のスマートフォンが震動した。アプリのメッセージだ。


『お疲れ様! もうお父さんとお話はしたかな?』


 確かめると、差出人は恵奈だった。レッスンは終わったのだろうか。


 七海は感情の逃げ場を探すように返信する。


『まだ。ちょっと心の準備中』


 返信すると、即座に既読のチェックマークが付く。恵奈の返信を一分ほど待つ。


『昼間も言おうと思ったんだけど、無理はしないでね』


 結局、周藤恵奈は七海に逃げ場を用意した。その文章に救われて弱い方向へ逃げてしまいそうになりながら返信の文章を考えていると、文字が続いた。


『自分の目指すものとか、目指すことそのものが誰かに馬鹿にされた時、どれくらい辛いかっていうのはよくわかってるつもり。だから、七海が今までどういう思いをしてきたかも分かる。お父さんとはちゃんと話してほしいけど、でも、今じゃなくていいと思う』


 七海は思わず笑ってしまった。素早く文字を打つ。


『優しいじゃん』


『君が優しくしてくれたからね』


 口を噤んで目を丸くすると、恵奈から照れ隠しのスタンプメッセージが一つ届く。よく分からない版権物らしきクマが、やけにリアルタッチな力こぶを作っている。


『確かに、ちょっと傷付くことは言われたけど、あの日、撮り直したいって言ってきた時の君の言葉が口先だけじゃないってことはもう分かってる→』


 送信された文章の最後に付いた矢印に目を留めていると、間もなく文章が続く。


『→今日言ってくれた言葉も凄く嬉しかった。それだけで十分だから、私の為に無理して今すぐお父さんと話す必要は無いよ。それを言いたかった。電話にすればよかった。ゆびいたい』


 「お疲れ様」と呟き、精一杯文章を打ってくれた恵奈に七海は笑う。


 しばらく返信の文章を考えた。そして、頭を抱えて溜息を吐く。文字を打ち込んだ。


『恵奈の為でもあるけど、自分の為でもある。だから、頑張って前に進みたい』


 続ける。


『応援してほしい』


 周藤恵奈は逃げ道を用意してくれたが、それでも選ぶのは七海だ。


 彼女の用意した道を進めば、それはつまり七海が逃げ出したという結果だけが残る。もう、言い訳はするべきじゃない。自分が正しいと感じた方を進まなければ。


 そう考えて返信を待つこと十数秒、スマートフォンが震動したかと思うと、届いたのはメッセージではなく電話だった。画面には『周藤恵奈』の文字。驚きつつ応答する。


『あ、もしもしー』


 緊張に間延びした声が聞こえた。


「こんばんは。急にどうした?」


 急に電話を掛けてくるものだから、何か込み入った話をしようとしているのだろうかと勘繰る。それこそ、どうしても七海に無理をさせたくなくて説得を試みているだとか。


 そんな風に考えた矢先、彼女は珍しく張りの無い声で言った。


『が……頑張って。それだけ言いたくて』


 七海はしばらく驚きに黙って目を丸くした後、細めて微笑を浮かべた。


「……さんきゅー、勇気が湧いてきた」


 一拍を置いて、決意表明をした。


「だから、行ってくる」


 そう宣言してしまえば、もう後には退がれない。


 ベッドから腰を浮かせると、『行ってらっしゃい』と声が掛かる。


 スマートフォンを耳から離し、通話を終了した。




 ここ最近、雄二とはどれだけの会話をしてきただろうか。


 朝と夜、家族として当然の挨拶と、簡素な雑談。世間一般の父親と娘の間で交わされる会話がどの程度のものなのか比較対象を知らないから、七海はそれが適切か否かさえ分からない。だが、お互いがお互いに対してどれだけ負い目を抱いているのかは分かっている。


 和解――と、言うよりも『清算』か。


 自室を出てリビングの扉を開ける。


 リビングダイニングでは、雄二が食卓で本を読んでいた。母の妙子と妹の綾香がソファに並んでイケメン俳優の出ている番組を眺めている。いつも通りの光景。もしもこれが一つの映画だとすれば、主人公が帰るべき『日常』として描写するような、そんな平凡でかけがえのない情景であった。七海はそれを網膜のフィルムに焼き付ける。


 腹を括った。


「父さん。ちょっと、相談があるんだけど、いいかな」


 いつかの焼き直しか。三人は三者三葉の驚きを表情に浮かべる。


 雄二は動揺を隠せない様子で手にしていた本に栞を挟む。


「あ、ああ。構わないが……」

「よかった」


 七海は神妙な面持ちで食卓の向かい側の席へ腰を下ろす。


 そんな二人の様子を黙ってみていた妙子と綾香は、そそくさと私室へ退散していった。それは二人が喧嘩をするのでは、という緊張からではなく、会話を邪魔しないようにという心遣いだろう。言葉にはせずとも感謝の念を抱き、七海は雄二と向き直る。


 数秒の沈黙があった。七海が言葉を選ぶ中、雄二は緊張しつつ急かす真似はしない。


 何を、どう言うべきか色々と悩んだ七海は、果てに要件から伝えることにした。


「友達に、女優を目指している女の子が居る」

「……ほぉ! それはまた、随分と志が高いな。良い事だ」

「で、私がオーディション用の自己PR動画を撮影している。手伝ってる」


 そう伝えると、雄二の瞳が大きく動揺に揺れた。


 自分のせいで映像の世界から去ってしまったのではないかと考えていた娘が、また何かを撮ろうとしている。それが映画ではなかったとしても、雄二にとっては大きく心を動かすに足る話だった。雄二の口が微かに開き、閉じる。一瞬だけ抱いた期待を、しかし自制心に押し殺して、努めて冷静に応対しようとする。そこには言い得ぬ安堵が見えた。


「ただ、オーディションが上手くいっていない。客観的に見てもその子は女優として充分な資質を持っているように見えるけど、どうしても動画の選考が通らない」


 概ね想定の範疇だったか、雄二は些末な驚きもなく納得に頷いた。


 業界人として様々なノウハウを持っているのだろう。雄二が居るのは、多少方向性が違えども、いずれ七海が行き着く場所と同じ高みなのだ。この時代、無から技術を開拓していく人間は極稀。巨人の肩に乗っかり、上を仰いで知識を得るべきだ。


 七海は深く頭を下げた。


「だから、父さんの知恵を貸してほしい。映像分野の先達として頼りたいんだ」


 一秒、二秒。五秒間、返事が無かった。呆れたのだろうか。


 七海が顔を上げると、雄二は絶句して目を見開いていた。目が合うと、「ああ、いや」と判然としない言葉を口先で紡いだかと思えば、その口を手で覆う。揺れる瞳でテーブルの木目を眺めた雄二は、酷い困惑と負い目を感じさせる表情で、視線を置いた本に逃がす。


「その、俺でいいのか?」


 ついに出たのはそんな疑問だったから、七海は眉根を寄せた。


「いや、そりゃ。身近なプロだし……」


 忌憚のない意見を返すと、雄二は首を軽く横に振った。


「ああ、いや。そうじゃなくて――その」


 いかに七海といえども、そこまで馬鹿で愚かで思考を停止している訳ではない。そこまで言われたら、雄二が言葉に窮している理由も、その中身も理解できるというものだった。


 分かっていたことだ。七海だけではない。雄二もまた、七海に負い目を抱いていた。


 彼が酒に口を滑らせた時、幼い七海は物事の判断ができず、安易に雄二の仕事を吹聴した。彼が悪い訳でも、七海が悪い訳でもなく、ただ、少し巡り合わせが悪かった。


 いつまでも燻っていてはいけない。七海は燃え盛る胸の中の炎を内燃機関の燃料に、熱を吐き出すべく深呼吸を挟んだ。そして、椅子を引いてその場に立ち上がる。「七海?」と怪訝そうな顔をする雄二に、頭を下げた。深く――七十度の角度で。




「ごめんなさい」




 今度は頭を上げない。先ほどと同様に雄二からの返答はなかったが、息を呑む音が聞こえた。七海は、熱いのにどこか冷静な部分もある思考で、謝辞を紡ぎ上げる。


「今まで、父さんにどこか苦手意識を持ってた。父さんの仕事を学校で話して――そのせいで馬鹿にされてから、映画監督になるのが嫌になった。あんな仕事をしているせいで、なんて思ってしまったこともある。歳を重ねて考えを改めたけど、でも、苦手意識は拭えなくて……私は今まで、父さんや、その仕事に携わっている人達に失礼なことをしてた」


 深い呼吸の音が聞こえる。微かに湿った、乱れのある呼吸だった。


「頼りたいって時に謝って、都合が良いと思われるかもしれない」

「……いや、それは」


 まだ頭は上げない。雄二の声が少し震えているような気がした。


「でも、それは切っ掛けであって、理由じゃないんだ。信じてほしい」


 普段から会話している相手であれば省くような些細な一言も、七海は決して省略せずに丁寧に言葉にする。言葉が何かを壊すこともあれば、言葉がなければ伝わらないこともある。


 映像と、音。全部大事なことだと知っているから、全てを尽くして詫びる。


「最近、色々あって、夢を追うことについて考えたんだ」

「……ああ」


 くぐもった相槌に、七海は双眸が微かな熱を帯びるのを知覚する。


「父さんが……仕事のこと、もっとしっかり話してくれたり、或いは小学生の私には早いって断ってくれていたら、きっと同級生に笑われることはなかった。そうしてくれなかったから、私は夢から目を背けることになった。――そう、自分に言い訳をし続けていた」

「……七海」

「違ったんだ。胸を張れなかったのは私が臆病だからで、立ち直らなかったのは私が弱かったから。そういうの全てから目を背けて父さんのせいにしている間は、自分を許せた」


 自分の吐いた言葉に、七海は自分自身で納得を示す。


「そうなんだ。今までの私は、自分を許せてたんだよ」


 それは何故か。簡単な話だ。


「嫌なことから逃げ出して、それを咎められて無理に向き合ってたら、私はたぶん、折れていたと思う。映画が好きだって気持ちも消えていたかもしれない。私の癇癪を父さんが許してくれたから……私の好きなものを父さんが守ってくれたから。また、立てた」


 熱くなった眼差しが何かを滴らせた。木目で雫が弾け、七海は不鮮明な目で机を眺める。


「恨むべきじゃなかったんだ。感謝を……するべきだった。ずっと」


 唇を噛んで涙を堪えようとしたが、涙が消える気配はなかった。嗚咽が出そうになるのを不安定な呼吸で押し止め、言葉を締め括る。


「ごめんなさい。見守ってくれて、ありがとうございました」


 涙に濡れた情けない顔を上げると、目の前にはもっと情けない父の顔があった。


 彼は濡れた瞳を伏せ、一生懸命に涙を止めようと顔を歪めているが、頬を伝うそれは止まる気配を見せない。やがて、雄二は己の顔を手で覆って俯いた。罪悪感が頬を伝って落ちる。


「……ごめんな、七海。本当に、ごめんな」


 溜め込んでいたものをようやく吐き出す。雄二は荷物を下ろすように、謝罪を言葉にする。


 ――父さんは悪くない。そう言おうとした口を閉ざす。吐き出して、受け入れられて、初めて昇華できるものがこの世に存在することを、もう知っていた。


「なんで、父さんが泣いてんのさ」


 七海が自身の目尻を拭って笑うと、雄二も、少し吹き出すように頬を緩めた。


 湿った空気のまま謝り合って和解など、お互いの性に合っていないだろう。七海は濡れた頬が乾くのを待つこともせず、性急に、改めて己の用件を明かした。


「また、映画を撮りたい。胸を張って撮れるように、知恵と力を貸してほしい」


 雄二は感情を整えるべく深呼吸をした後、徐に頷いて見せた。




 数分後、軽い経緯の説明を済ませた七海は、雄二に自らのスマートフォンを差し出して、恵奈が提出した最終版の動画を確かめてもらった。それに目を通す時の父親の表情は、初めて見る『映像作品の監督』の顔だった。それがほんの少しだけ、七海には誇らしかった。


 七海が緊張の面持ちをして待つこと三分。何度か繰り返して見た雄二は顎に手を添える。


「これも、七海が撮ったのか?」

「あ、うん。その――照明とか、構図とかを提言した程度だけど」

「……なるほど。勉強したんだな。凄く見やすいよ」


 微かに頬を緩める雄二に、七海は安堵と喜色を含んだ笑みを返す。だが、雄二は一転して職人の顔つきをすると、スマートフォンをそっとテーブルの中央に置く。


「さて、通して見たところの所感を答えようか」

「お願いします」

「まず、これは一般的な芸能オーディションへ応募する動画としては合格基準を上回っているように見える。つまるところ、大きな減点は無い。加えて、周藤ちゃんの――生々しい言い方をしてしまうが、所謂容姿も、事務所次第では平身低頭で招いてもおかしくないレベルだ。養成所に通ってるんだろう? 恐らくだが、そこを経営している事務所や、他にも繋がりのある事務所からスカウトが来てるんじゃないか?」

「あ、うん。何か所か打診があったとは言ってた」


 流石と言うべきか。彼自身の顔の広さも遠因だろうが、畑違いにも拘わらず鋭い見地だ。


「なるほど。ちなみに、オーディションはどこの事務所のものだ?」

「エクレールプロモーション、って名前。知ってる?」

「名前はそりゃ知ってるが、内部事情はとんと詳しくないよ。さて――」


 雄二は腕を組んで勘案した後、解き、話を続ける。


「――要求水準は満たしているように見えるが、まあ、事務所によっては、この動画だけでこの子を採ろうとはしないかもしれないな。採用担当次第だが」


 どうやら核心の部分に気付いたらしい。


 七海は驚嘆して言葉を失い、真偽を探るように雄二の顔を見る。だが、彼に嘘や見栄の類は見えない。誰かを撮る作品の『品質を保証する責任者』としての顔だ。


「事務所にも特色がある。エクレールプロモーションに所属している現役のタレントたちを見れば、その事務所がどういう押し出し方をしているのか、誰を求めているのかが分かる」


 七海は長く暗いトンネルの奥に光が見え始めたような気分だった。


 急いで卓上のスマートフォンを取って事務所の所属タレントたちを確かめるが、彼の言うところは上手く掴めない。一分近く睨み合って悩むも答えを出せず、プライドを踏み躙った。


「その――詳しい話を聞いてもいいかな」


 雄二は、矜持も何も無く、我武者羅に目標を目指す七海を誇らしそうに見た。


「もちろん」


 雄二は唇を湿らせると、腕ごと置くようにテーブルに片肘を突いて身を乗り出す。


「じゃあ一つ聞かせてもらおうか、七海。周藤ちゃんの魅力ってなんだ?」


 聞かれた七海は鼻白むも、うなじに手を置きながら答えを探す。普段はそこまで意識をしていないため、改めて他者の魅力を訊かれると即座に出てこない。だが、恵奈ほど分かりやすく魅力に溢れた人間であれば、数秒も考えるとすらすら長所が出てくる。


「ええと、顔。あと身体。それから……声と性格が良い」


 パッと思いつく表面的なものを列挙した後、それがあまりにも俗物過ぎて補足する。


「あとは凄い努力家だと思う。夜な夜な養成所に通ってレッスンに励んでいるし、様々な工夫を凝らしてオーディションを突破しようという意気込みもあるかな」


 数と質は充分だろう。「これくらいかな?」と思考を打ち切って雄二を見ると、彼は「なるほど」と納得をしたように頷く。


「じゃあ、同じ魅力を持った子が同じオーディションを受けた時、どっちを選ぶ?」


 唐突に、脳が錆びついたのではないかと錯覚するほど思考が鈍った。


 そう難しい質問ではないはずなのに、答えがでない。「それは」と呼び水とするべく中身を伴わない呟きをするが、返答は出てこない。本音を言えば、周藤恵奈を選ぶに決まっている。だがそれは、周藤恵奈という人間を親しい相手だと認識しているからこその選択だ。


 そして、気付く。『これでいいだろう』と導きだした解に足りないものを。


「七海」


 そう言ってこちらを見る雄二の顔は、父親のそれではなく、数多の女性を撮ってきた映像作品の最高責任者の顔だった。


「この動画には、『周藤ちゃんでなければいけない理由』が無いんだ」


 容姿に優れている。努力家。ダンスや演技の技術を持っている。


 それだけの魅力を持っている人間が、果たしてどれだけ居るか。


 大勢、居るのだ。この世に特別なんてそうそう存在しない。七海はそれを、再認識した。


「或いは、『周藤ちゃんを選びたい』と採用担当に思わせるだけの理由でもいい。技術や容姿の良し悪しなんて単純な指標じゃなく、もっと複雑に、もっと掘り下げて、もっと深く――周藤恵奈という少女がどういう人間であるかを示し、採用担当に『この人と仕事をしたい』と思わせなければいけない」


 そこまで聞いて、ふと一つの疑問が浮かぶ。


「でも、待って。それは……どうだろう。この世の大体の人間は、替えが利くと思う。実際、キャストだって複数ある選択肢の中から一人を選定する訳で、『その人でないといけない』って場面は、無いと思うけど……」


 先輩に反論をするのは気が引けたが、参考書を前に、感じた疑問を持ち帰るのは阿呆だ。


 今、目の前で、語る人生の先輩が居るのなら。頼るべきだろう。


 雄二は七海の疑問に、素早く答えを用意した。


「俺は『テルマエ・ロマエ』のルシウス役に阿部寛を抜擢したのは完璧な回答だと思うんだ。日本人でああまで彫りの深い顔立ちをしている人はそうそう居ない。その中で、知名度があって実力の伴う人間がどれだけ居るだろう。探せば一人二人は居ても、じゃあ他の人間を探そうと思うだろうか? もしキャストオーディションの場に居て、同じ力量、同じくらい端正な顔立ちの人間が居ても、俺はその場に阿部寛が居れば、選ぶぞ」


 七海だって、選んだだろう。その例えは狡いのではなかろうか。


「外見の特徴も俳優にとっては立派な武器だ。美醜だけの物差しじゃなく、例えば幼く見える、老けて見える、間抜けな印象を与える、強面――他にも、声。例えば濁声、元歌手で声量の怪物。ギャンブル依存症ならメソッド演技に役立つかもな。――と、一から百の物差しを用意するのは別に構わない。でも、その数は一つじゃ駄目なんだ。人間は物差しの目盛りの一つじゃなくて、複数の物差しの交点だからだ」


 段々と自らに足りなかったもの、そしてあの動画に足りなかったものが見えてきたような気がした。七海は大切に抱えてきた炎が盛り、自らの血液が滾るのを感じる。


「ゲームじゃない。魅力は数値じゃ表せない。だから、俺達が居る」


 その一人称が複数形であることに、七海は言い得ぬ誇らしさと責任を感じ取った。


 監督の責任とは。作品の品質を保証すること。それはつまり、脚本と、それを演じる者達を狙い通り、最大限魅力的に映し出すこと。そして、その魅力とは単一の物差しで測るものではなく、幾つもの秤と物差しと、そして言葉で理解するもの。


「算数のできない数学教師が居ないのと同じように、自分が表現するものの魅力を知らない表現者は居ない。監督は作品の魅力を誰よりも知って、誰よりも理解して――そして、それを噛み砕いて、ただ『鑑賞』するだけの人々の心に分かりやすく注ぎ込む」


 それが、自らの目指す先だ。そして、そこに立つ目の前の男は笑う。


「まずは分析だ。そして、宣伝プロパガンダ。その子の魅力を、お前が芸能事務所に叩きつけてやれ」


 ふわふわと靄のようだった目的がはっきりと形を得て目の前に表れた。そんな感覚。浮いていた足が地面に付き、足の裏が大地を感じ取る。やるべきことを理解した。


 七海は天井を仰ぎ、小さく溜息を一つ。顎を引いて父を見た。


「父さんに、頼ってよかった」


 雄二は誇らしそうにしつつ、軽く釘を刺す。


「期待に応えられたなら幸いだ。ただ、あくまでも俺の知識や技術はAVの撮影過程で培われたものだ。本格的な映像知識や技術なんかは本職に聞いてくれ」


 周藤恵奈の魅力は何かと訊かれた時、外見の美醜や努力家であるか否か、その程度の表層的な部分しか語れなかった自分を恥じる。確かに、人と人がコミュニケーションを取る場合において、七海が挙げた長所は魅力になるだろう。だが、カメラの中で、果たしてそれがどう輝く。


 ――周藤恵奈を、自分の撮る映像の中で世界一輝かせると約束した。


 ならば、そのやり方を知らないなんて馬鹿げてる。


「……父さんは、撮る相手の――その、女優さんの魅力をどう分析してる?」


 分野は違えども、女性を魅力的に撮るという点では同じだ。


 七海が尋ねると、雄二は「ふむ」と腕を組んで時計を一瞥した。


「色々とやり方や考え方はあるが、話すと長くなるかもな」


 雄二の、明日の仕事は夕方からだ。雄二としては一向に構わないが、七海には学校がある。明日でも構わないぞ、という意思を含んだ雄二の言葉だったが、言われた七海はむっと口を噤むと、徐に椅子を立って自室へ戻っていった。


 もしや返答が期待外れだっただろうか、と雄二が肩を落とす間もなく、七海は部屋からノートパソコンとノート、そして筆記用具とマグカップを抱えて戻ってくる。


 面食らう雄二の前でそれらを雑多に置いていき、七海は据わった目を向けた。


「どれだけ時間が掛かってもいい。聞きたい」


 雄二は苦笑し、長い夜になりそうだと腰を上げた。


「……父さんも、珈琲淹れていいか?」

「もちろん。あ、私がやるよ。受講料はそれで勘弁して」


 それから、二人は沈黙してきた時間を取り戻すように弁舌を交わし合い、その議論が幕を下ろしたのは、雄二の肉体が限界を訴えて根負けを切り出した頃。日付が変わった二時間後の真夜中だった。


 時折トイレに起きてきた妙子や綾香は、驚きつつも微笑ましそうに二人を眺めていた。


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