キャラメリゼ

 佐藤優香、なんてありふれた名前でよかったと思った。


 オーディションに受かって活動を始めてから徐々にファンも増えていったけど、それに比例するように厄介な連中も目に付くようになった。ただの嫌味や悪口なら勝手に言わせておけばいいが、生身の私について詮索してくる輩には生理的な嫌悪と恐怖を感じずにはいられなかった。そういった思いをするたびに私は自分の名を心の中で唱える。

 佐藤優香。実にありふれた、日本に数千人は存在していそうな名前。いちいち同姓の人間との呼び分けを考えないといけない煩わしさを感じたことはあったが、素性を隠す必要が生まれた今となってはむしろ好都合だ。私は群れを作るシマウマのようにその中に隠れ潜んで、インターネットで竜の姫を気取っていた。


 だけど本当の敵は画面の向こうではなく私の背後にいた。


 突如として沸き上がった身に覚えのない告発はあっというまにアンチたちの元へ広まり、弁解の余地もないままに私の依代は燃え上がった。すぐに事務所から連絡が来て事実確認だのヒアリングだのと段取りを練っているうちに、追い打ちのように私たちの個人情報が流出していることが判明した。そこで私は確信したのだ。これがただの炎上ではなく、身内の誰かによる裏切りなのだと。犯人が誰でその原因が何だったのか今となっては判然としないが、とにかく一度燃え上がった炎は築き上げたものを全て焼き焦がして、私は活動休止を宣言し事実上の引退に追い込まれた。

 それからの日々は正直気が気でなかった。既に本名と声は世界中に知れ渡ってしまっているのだ。いつ誰に勘付かれるか、そうなった時どう対処すればいいのか、そんなことばかりを考えてメンタルがどんどん擦り減っていく。


 そんな耐え難い不安と苦しみに喘ぐ私の前に「佐藤優香」が現れたのだった。


 濁流のような罵詈雑言にもみくちゃにされるそのアカウントは間違いなく私のものではない。あらぬ疑いをかけられた彼女は、しかし何故か一言も否定も弁解もしようとはせず、ただ鬼龍院美姫を賛美し続けた。その狂ったような有様がアンチに受けたのか、しばらくネットの玩具にされた後に跡形もなく消えてしまった。それに付随して佐藤優香のものだとされる個人情報もいくつか流れてきたが、そのいずれも私とは別人のものだった。

 それは偶然や勘違いで済ませるにはあまりにも不可解で、そして出来過ぎていた。同じ名を持った彼女が何故そんな奇行に走ったのか、その理由はわからない。そもそも世間的に見れば彼女こそが件の「佐藤優香」で、それが誤りであることは本人である私にしかわからない。そのおかげで周囲の疑いの目を逸らすことに成功し、生身の私の方は今までと変わりない生活を送ることができている。結果的には私は彼女に救われたことになるのだ。そこまで考えて、私は一つの可能性に行きついた。


 彼女は私の身代わりになったのではないか、と。




 何か用事があれば最近は少し足を延ばして駅前のコンビニまで行くようにしている。レジを横目で見ながらタイミングを見計らって、私は彼女の前に商品を差し出す。「さとう ゆうか」の名札を下げた彼女は特に何を言うわけでもなく、黙々と決められた作業をこなしていく。眼鏡の奥のその瞳はいつも伏し目がちで今まで一度も目があったことはない。おそらくは手書きであろう名札の文字は線が細くどこか控えめな印象を受ける。そのたった六文字の繋がりさえなければ、五分後にはこの人のことなんて忘れてしまっていただろう。だけど私はもう半年近くこの店舗に通っている。

 佐藤優香なんてありふれた名前だ。こんな風にどこかで偶然出会うこともあるだろう。だから私たちがこれ以上触れ合うことなんてないし、目の前の彼女が私の名前を知ることもない。それでも私はきっとここにまた足を運ぶのだろう。この密やかな祈りが私たちの明日に届くその日まで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

シュガーライフ 鍵崎佐吉 @gizagiza

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ