シュガーライフ

鍵崎佐吉

スイートデイズ

 佐藤優香、なんてありふれた名前が嫌いだった。


 まったくの同姓同名に直接出会ったことはなかったけど、佐藤さんも優香ちゃんも必ずどこかにいて、いつも私は「地味な方の佐藤さん」とか「目立たない方の優香ちゃん」だった。私自身が地味で目立たなかったとしても、例えば名前が鬼龍院美姫とかだったら少なくともその名前くらいは人に覚えてもらえただろう。

 時折そんなことを考えながら地味で目立たない人生を送っていた私の前に、本当に鬼龍院美姫が現れたのだった。


「人の子らよ! 我こそが魔界の竜王、鬼龍院美姫であるぞ!」


 ある日突然「おすすめの動画」に現れた彼女に私は心を奪われた。その手の界隈ではこういう派手な名前は珍しくないのだけど、彼女は明るくて愛嬌があって、私が思い描いていた「鬼龍院美姫」のイメージにぴったりだった。動画や配信を見るたびに惹かれていって、一か月も経つ頃には彼女は完全に私の推しになっていた。


「まあ我も今はこの世界で暮らしておるわけだから、世を忍ぶ仮の名はあるぞ。結構ありがちな名ゆえ、活動をする上ではむしろ好都合なのだ」


 彼女がそう言っているのを聞いて、私はどこか救われたような心地がした。私のこのありふれた名前も、もしかしたら誰かの隠れ蓑になっているかもしれない。そう考えることでずっと嫌いだったこの名前も、少しだけ愛せるような気がしたのだ。

 彼女の活動も徐々に軌道に乗り、気づけば私も古参リスナーの一人になっていた。彼女の輝きが私の人生に鮮やかな彩りを与えてくれる。私にとってこの出会いはもはや運命といっても過言ではなかった。


 そんな中、鬼龍院美姫は炎上した。


 彼女が所属している事務所内で演者同士のいじめがあり、彼女もそれに加担しているという告発がなされたのだ。ネット上では瞬く間に真偽不明の噂や憶測が飛び交い、もはや収集がつかなくなった頃に鬼龍院美姫のだとされる人物の個人情報が私のタイムラインにも流れてきた。


 佐藤優香、それが彼女の名前だった。


 しばらくはろくに食事もとれないような日々が続いた。彼女はもう私の人生の一部になっていて、失ってしまったものは自分でも驚くくらい大きかった。日々の営みに追われながら心は亡霊のようにさまよい、次第に自分という存在が薄れて消えてしまうような恐怖と焦燥に駆られた。


 あれから何日経っただろうか。ふと気づけば私のSNSにいくつも通知が溜まっていた。その量はちょっと異常なほど多くて、私は一瞬何かの不具合や誤作動を疑う。だけどそれらはすべて画面の向こうの誰かが投げつけた剥き出しの悪意だった。

 いったいどこから漏れ伝わったのかはわからないが、このアカウントが佐藤優香という名前の女のものであることが知れ渡っており、おまけに私が鬼龍院美姫を擁護するような投稿を複数していたため、これが彼女の裏アカではないかという憶測が飛び交っていた。確かに客観的事実だけを見ればそういう捉え方をしても不思議ではないし、それを否定できるものは私の手元には何一つない。私は佐藤優香だし、例え何があったとしても鬼龍院美姫の味方だ。


 そこで私はふと思ったのだ。私が彼女のために何かできることがあるとすれば、それは彼女の隠れ蓑になることだと。今もこの世界のどこかで息を潜めて、身勝手な正義の暴風雨に耐えている「佐藤優香」を、私なら助けることができるかもしれない。

 別に何を失ってもよかった。ただ彼女だけが私の思いに気づいてくれればそれでいい。それだけで私は、きっと幸福でいられるだろうから。


 私は明滅する画面の向こう、そこで吹き荒れる嵐へとこの身を晒した。

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