ちょっと茶色い黒歴史

@5nke

ちょっと茶色い黒歴史

 目の前が真っ暗になった。僕はドラゴンクエストで力尽きた時に表示されるこのフレーズを現実世界で体験することになるなんて思ってもみなかった。そんな僕の、学生時代のちょっと茶色い黒歴史。

 僕は中学生時代、毎日電車に乗って中学に通っていた。その学校は、新宿西口から出ているバスに乗って15分程度のところにあるため、実家のある東村山から新宿まで、西武新宿線の急行電車に乗って通学していた。この西武新宿線の一部区間が、学生時代の僕にとっては、とても厄介な存在だった。上り線だと終わりのほうにある、鷺宮から高田馬場までの区間。通学時間の中の一部でしかないが、急行が通過する駅が間に6駅あるため、しばらく電車の中に閉じ込められることになる。たいしたことはないと思う人もいるかもしれないが、僕は昔から、朝にお腹が痛くなるという、とてつもなく人間らしい身体を持った生命体であった。そんな僕にとって、この朝の急行電車の、鷺宮・高田馬場間の通過時間は、まさに魔の時間だった。

 長い学生生活の中のある1日、鷺宮駅に着く少し前あたりで、急にお腹が「ぎゅるぎゅる」言いだした。朝に飲んだ、賞味期限を1日過ぎたグレープフルーツジュースが原因かもしれない。今日は大丈夫だろう、そんな重い病気の早期発見を逃しがちなサラリーマンが言いそうなセリフを心の中で唱え、そのまま電車に乗り続けた。ドアが「シュー」と大きなため息を吐きながら閉まっていった。急行電車は、重い腰を上げるかのようにゆっくりと出発していった。

 ドアが閉まると、あと10分以上、このお腹の「ぎゅるぎゅる」に耐えないといけないというストレスのせいか、急にお腹の調子が悪くなってきた。通過駅1つ目、2つ目の都立家政駅・野方駅間くらいで、急にやつら(便)が、尻の一番下のほうまで押し寄せてきた。お腹痛い人がよく体験する、開門待ちのダムのような状態である。早く外に出たくてうずうずしている彼ら(便)を、大人としての責任をしっかり全うして、しっかりせき止めなければならない。そして通過駅3つ目の沼袋駅を少し過ぎたあたりで、ついに1回目の限界がきた。お腹が弱い生命体である僕の経験上、2回目の限界まではなんとか耐えられるが、3回目はもう人間が耐えられるレベルではないほどの圧力がお尻にかかり、それに耐えられるのは、人間界では室伏広治だけだと聞いている。6つの通過駅のうち3つ目を過ぎた段階で、もうすでに1回目の限界が来てしまった。非常にまずい事態である。

 そして電車は、都会にあるにも関わらず渓谷の中の洞窟のような雰囲気の駅、中井駅までたどり着いた。大江戸線に乗り換えができるという、西武新宿線の駅の中で圧倒的な強みを持つにも関わらず、急行電車に通過されるという、ネタは面白いのになぜか売れない芸人のような、なんとも不遇な5つ目の通過駅。その哀愁に心が和み、少し自分を取り戻したが、突如、2回目の限界が僕のお腹を襲ってきた。2回目の限界を迎えると、僕の経験では、とんでもない量の冷や汗が出てくる。そんな芯から冷え切った状態で、下落合という、半年は誰も降りていないのではないかと、僕が勝手に偏見で思っている最後の通過駅を過ぎていく。冷汗で制服がにじんできた。あと一駅。あと一駅だけ持ってくれ。そんなジャンプ漫画の主人公が覚醒モードになってもラスボスを倒せず、あともう1回覚醒モードになれればラスボスを倒せるかもしれないという状況で言いたくなるフレーズを、自分のうんこと戦っている状況の僕が心の中で言うのだった。

 そして、高田馬場駅に近づくと現れる、最後の急カーブ。ゴールにして最大の難関。何度ここで曲がらない西武新宿線を夢みたことか。新宿を終点にするために巨人がその腕の力で曲げたのではないか。または、新宿を終点にするために権力を持ったある業界団体が西武鉄道に対して線路を曲げるように強要したのではないか。そうでなければ説明できないようなあの急カーブ。車体が曲がると同時に僕のお腹が思い切りよじれた。そして予期せず、3回目のお腹の限界が来た。この世界の何事にも言えることだが、「その時」は突然訪れるのである。冷や汗が止まらず、目の前が真っ白になっていった。死ぬかもしれない。目の前が真っ白になった僕は、自分の体を制御できなくなり、ついにダムが開門した。外に出たくてうずうずしていた受刑者たちが、我先にと他人を押しのけ塀の外に逃げ出した。そして、改めて外界の美しさを知り、大粒の涙を流した。それよりはるかに汚い液体のせいで、僕のズボンの中は生温かくなっていた。そして、目の前が真っ暗になった。ドラゴンクエストで命が尽きるときは、こういう気分なのかもしれない。

 社会を生きる人間としての死。森に住む動物たちと同じことをしたという自覚。自分の外の世界から取り入れたものを外の世界に戻した。ただそれだけのことなのに、僕は人間として死んだような気分になった。人間が支配するこの世界でも、人間が動物たちに負けていることはたくさんあるのかもしれない。それが、この排出の自由なのかもしれない。この排出の自由と引き換えに、人間は豊かさを手にいれたのである。それなら僕は、動物でいたいと思った。だが今、現実の僕がいるのは、人間界の高田馬場駅である。僕の偏見によると、早稲田に住む汚い人間たちが自分勝手に這いずりまわるおぞましい駅である。僕は、自分の置かれた状況をようやく悟った。そんな僕をあざ笑うかのように、隣の山手線のホームでは、鉄腕アトムのテーマソングの発射メロディーが高らかに流れていた。

 トイレでズボンを拭いた僕は、下り線の各駅停車で東村山に向かっていた。ほとんど人がいない一両目の車両で、席に座らずに立ったまま窓の外を見ていた。気持ちがよくなる青空であった。こんなにいい天気の日は外に出て散歩をして、カフェで本でも読みたくなる。ただ、今の僕は、ズボンが湿っていて、ちょっとした異臭を放っている。こんなに気分の悪いことはない。中井駅で女子高生がたくさん乗ってきた。まずい事態である。ただ僕は、もうどうにでもなれと思った。女子校生たちが、異臭についてお互いにいろいろ言い始めた。ごく普通の見た目の僕は、周りのにおいをかいでいるふりをして同調する素振りをした。次の駅で女子高生たちが電車下りて行った。学校の休み時間に電車が臭かったとか騒ぐのだろうか。覚えていろよ、と思った。大人になって、金を稼いで、いい匂いの洗剤で洗濯したズボン履いて、お前らの前を格好よく通り過ぎてやるからな。誰も望んでない小さな決意を胸に電車に揺られ自宅に帰った。それ以来、その女子高生たちに会ったことはない。いや、もしかしたらどこかで会っているのかもしれない。僕の黒歴史に関わった貴重な一人として、元気で過ごしていてほしい。楽しい人生を送っていてほしい。そう思った。

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