3. 「そういう人だから」

 喫煙所での藤咲課長との邂逅から数日。

 決意こそ新たになったものの、かといって具体的な行動は何一つできていないままずるずると失恋を引きずっていた。

 そんな中でも時間はあっという間に過ぎ、正人と約束した飲みの日になったのだった。定時でなんとか仕事を切り上げて、パソコンの電源を落とした。


「藤咲課長、僕は先に上がります」


「うん、お疲れ様」


 しっかりとこちらを向いて挨拶を返してくれる。こういう律儀なところは別れても変わらないらしい。


「まだ残りますか?」


「私はもう少しやることがあるから……。定時だし、蓮池くんは上がって」


「……わかりました。お疲れ様でした」


 モニターに映るExcelの表と、営業のスケジュールを見ながら何やら思案している様子だ。

 おそらくインターンシップの際に行う営業同行のスケジュールを決めているのだろう。

――ああ、横顔綺麗だな。なんて、もうそんなことを思う資格もないけれど。


 §


「それではー、なんかよくわからんけどみんな生きててえらい! かんぱーい!」


「乾杯」


 音頭に合わせ、四人でジョッキを合わせる。ぐいっと黄金色の液体をあおると、強い刺激が喉を過ぎてゆく。――相変わらずまずいな。

 正人と俺に加え、同期の瀬良せら結夏ゆいか逢坂あいさか冬子ふゆこ――新卒時代の研修で仲良くなり、定期的に飲みに行く中だったが、それでも最近はお互い忙しくなってきたこともありご無沙汰になっていたのだった。


「久しぶりだな、こうやって集まんの」


「誰かさんが営業で忙しいからなー」


「はは、悪かったよ」


 正人のしみじみとした言葉を瀬良がいじる。

 テーブルには、脂の乗った新鮮な刺身やタレが艶やかに輝く焼き鳥、からりと揚がった唐揚げ、色鮮やかなサラダが並んでいた。

 お腹が空いていたのもあり、ジョッキを置いて料理に箸を伸ばす。


「はーあ、あたしを拾ってくれるハイスペ王子様はいないもんかなー」


「マッチングアプリは? 最近流行ってるし」


 程よくお酒も回ってきた頃、瀬良の拗ねたような言葉に正人が返す。

 同期が集まると、話題になるのは決まって結婚や恋愛についてだった。まあ、二十代半ばの人間にとって一番の話題はと問われれば、そうなるのも仕方ない気はするが。


「マッチングアプリこそ格差社会じゃん? 顔良くないとまず恋愛対象にすら入らないって。やっぱ社内恋愛しかないかー」


「ハードル高いよ、社内恋愛は」


 逢坂がばっさりと切り捨てた。

 ちなみに彼女は今年の四月に結婚しており、夫婦の意向で結婚式こそしなかったものの友人や同期を呼んで小さなパーティーを行った。


「葉月か蓮池、友達紹介してよー」


「俺の友達はほとんど県外なんだよな」


 ため息をつきながら正人が答えた。

 彼は元々県外出身であることから、こちらに友達はいないと度々漏らしている。

 長期休暇の際は、基本的に地元へ帰っているようだ。


「んじゃ蓮池は?」


「俺もそんなに友達は多くないしね……。ていうか皆彼女持ち」


「終わったー!」


 大袈裟に崩れ落ちる。

 俺にも少ないながら高校、大学時代の友人はいるものの、ほとんど彼女がいる。


「そういや、蓮池は彼女と順調? なんか前、ずっと好きだった人と付き合えたって言ってたから」


 そういえば、藤咲課長と付き合うことになった後、相談に乗ってもらっていた分報告も兼ねて瀬良とは飲みに行ったのだったな。

 社内恋愛がバレたらいろいろと面倒なので、さすがに個人名は出していないが。


「あー……別れたよ。フラれた」


「え!? マジ!?」


「可哀想に。飲みな」


「ありがと」


 瀬良が子どものように大袈裟に泣きまねをし、逢坂がいたたまれない視線を向けてくる。

 ジョッキを片付けて、タブレットで梅酒を頼む。最初の一杯は生ビールでとりあえず合わせているが、元々あまり味が好きではない。


「まあ、俺は言うほどダメージ受けてないから。それよか瀬良でしょ」


 掘り返されるのも辛いので、瀬良には悪いが矛先を変えさせてもらう。

 正人には気づかれていたようだったが、あえて乗ってくれたようだ。


「ま、恋愛って難しいよな。もう四年今の彼女と付き合ってるけど、未だに女の子の気持ちはわかんないわ」


「わからなくて当然じゃないかな。私も旦那の気持ちとかわからないしさ。そんな中でお互いに歩み寄っていくことが大事なんだとおもう」


 逢坂がクールに答え、ぐいっとジョッキをあおった。


「ぐぬー、葉月も冬子も大人! こなれてる感増し増しだあ、助けて蓮池ぇ」


「まあ、俺も別に恋愛経験が多い方じゃないし……。っていうか、商品企画課って一番出会い多いところじゃない?」


 瀬良が所属している商品企画部は、男女の比率はほぼ同じくらいだったはず。年齢層も比較的若い。正直、社内においてはここか営業で出会いがなければあとは難しいだろう。

 なお、逢坂は情シスだ。


「うーん……まあ、ちょっといいなって思う人はいるんだけど。でも、なんかもうあたしらもうそんな歳でもないじゃん」


「この歳になると、いわゆる”運命の人”っていないって気がついてさー。いやまあそんなもんいないのはとっくに気づいてたけど、実感として湧いてくるというか、なんとゆーか。折り合いをつけるっていうのが前提になってくる……ってゆーか」


「ま、付き合うってなったらイコール結婚も見えてくるからね」


「そ。だから、ふわふわ浮いててミステリアスな人より、"この人なら大丈夫"っていう確信とか、安心させてくれる人がいいのかなって。つって、あたしもそんなわがまま言えるほど人間できてないけどさ」


 安心、か。俺は藤咲課長をそうさせられていただろうか。いや、きっとできていない。

 ふとした瞬間に彼女が見せる表情には、いつだって凍てついた氷のように固い壁があった。そしてそれでいて、近づく人間を煙に巻いてしまうような曖昧さも。

 本当は彼女も安心したかったのだろうか。そうだとして、俺は彼女にそう思ってもらえるほどの人間だろうか。

 またしても思考は悪い方向へ転がり、そこから抜け出せずにいる。


「蓮池?」


「っ、ああ。ごめん。正人が二年目で先輩の売上抜いた話?」


「いや違うわ。まだイジられんのかよ、その話もう味しないだろ」


「あんたは規格外すぎんだって」


「情シスでも葉月の噂はよく聞く」


 二年目にして先輩の売上を抜く。

 正人のスーパーセールスっぷりを証明する逸話だ。同じ営業だった時は、彼のすごさに嫉妬すら覚えたものだ。

――もう誰も俺が営業だった頃の話を持ち出さないあたり、本当に人間ができている友人たちだと思う。


 §


「んじゃ、あたしこっちだからー。おつかれー」


「私は旦那が迎えに来てくれるから、待ってる」


「ん、気をつけてな瀬良。お疲れっす」


「お疲れ様」


 瀬良、逢坂と別れ、駅まで歩く。終電にはまだ少し余裕があったはずだ。


「……夜は意外と冷えるな」


「そうだね」


 誰ともなく呟いた正人の言葉に頷く。

 もうジャケットを着て出社するシーズンではないが、それでも日が落ちると肌寒さはある。お酒を飲んで出来上がっていた体も、冷気に当てられて湯冷めのような感覚がした。


「……なあ、十和。フラれたって話、あれマジ?」


 いやに真剣な表情で、正人がこちらを見つめた。視線に物理的な貫通力があったとしたら、今頃俺の顔には穴が空いているだろう。そう思わされるほどだった。


「マジだよ。付き合って三ヶ月、四ヶ月目になる前日でフラれた」


「そりゃキツいな」


「うん。まあでも、そういう人だから。元々、三ヶ月しか付き合えないとは言われてたんだ。人に興味が持てないからって。……でも、俺、なんていうか……期待しちゃってたんだよな」


 約束なんか忘れてるんじゃないかって。俺のことを好きになってくれたんじゃないかって。でも、だめだったんだ。

 藤咲課長も俺のように弱くなれば、お互いだけに頼りながらずっと一緒にいるのではないか、と。

 これまで蓋をして見ないようにしてきた黒くて澱んだ思いが、ふつふつと沸騰して心の縁から溢れ出すようだった。


「……もう綺麗さっぱり別れたのか?」


「いや。向こうはどう思ってるかわからないけど――俺はまだ好きだから、好きでいさせてくれ、ってお願いだけしてる。それは断られなかったから」


「そんなのお前が報われねえよ。都合がいいだけじゃねえか」


「いいんだ。俺、その人のことめちゃくちゃ好きだから」


「……お前なあ」


 正人が呆れ果てた表情でこちらを見ている。

 きっと、俺も同じ立場ならば同じようにしているだろう。けれど、それでも好きだったのだ。藤咲周の欠乏さえ愛していた。彼女への愛が時に俺を殺したが、それでも人生の目的になった。

 愛という言葉を都合よく扱って彼女を傷つけないかいつも考えて、努力していた。


「マジでしんどい時は相談しろよ。人に話すだけでも楽になんだろ」


「うん。ありがと」


「んじゃな。気をつけて帰れよ」


「正人もね」


 手を振って、正人と別れる。

 彼の背中を見送りながら、星すら見えないほど曇った夜道でひとりぽつんと立ち尽くす。街灯がぼんやりと道を照らし、その光で俺の影が長く伸びている。

 現実をミュートにしてしまったみたいに静かで、時折風の音が耳に届くだけだった。頬を一縷の涙が伝った。


「……あー」


 かろうじてそれだけを絞り出す。かすれて震えていた。

 藤咲課長の顔を思い浮かべる。瞳を閉じる度、最後の別れの瞬間がフラッシュバックしてうまく笑えなくなる。

 もう一度だけと願っても、ただ虚しいだけだ。

 地面に落ちていた空き缶が、からからと転がった。大学生くらいのカップルが、コンビニの買い物袋を下げて楽しげに会話しながら俺の横を通り過ぎていく。

 深く息を吸い込み、そしてゆっくりと息を吐いた。涙は止まらない。


「藤咲課長、俺は」


 失恋は時間が解決してくれる、なんて言葉を聞いたことがある。

 けれどきっとあれは嘘だ。時が経てば経つほど、彼女と過ごした幸せだった頃の記憶の輪郭は明瞭になり、確かな形を携えて俺の感情の一部に居座る。彼女が変えてくれた俺の世界は、彼女によって再び色彩を奪われてしまった。


「……帰ろう」


 足取りは重い。それでも歩き出さなければ、と。ただそう思った。

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ダウナー美人上司を全力で落とします! 雨水ユキ @amamizu_yuki

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