2. 「良いところですよ」

「あ、蓮池さん!」


 喫煙所を出たところで、見知った顔に声をかけられる。

 彼女はこちらを目ざとく見つけて、とたとたと駆け寄ってきた。


「三森さん、お疲れ様です」


「お疲れ様ですっ」


「……あ、煙草臭かったらすみません。吸ったばかりで」


 彼女とほんの少しの距離を置く。

 いつもは胸ポケットに携帯用の消臭ミストを入れているのだが、何分喫煙所から出てすぐだったためつけられていない。

 臭わないといいが。


「え、全然大丈夫ですよ! 蓮池さん、いつも良い匂いですし!」


「そうですかね……。ありがとうございます」


 そう言って明るく笑う彼女は、三森さやかという。先程の喫煙所でも話題に上った女性だ。営業部に所属しており、去年の年末までは俺も彼女と一緒に仕事をしていた。社内の人間からも、客からも可愛がられる愛嬌の持ち主だ。

 今日は茶色のブレザーと、シンプルな白いフリルを着ており、肩まで届く茶髪は、ジャケットのカラーと相まって柔らかな印象を与える。


「そうだ。午後からの件、よろしくお願いします」


「はい!」


 ふんす、と気合いを入れるように三森は応えた。

 午後からの件とは、彼女にお願いしていた営業同行のことを指す。4月に入社した新入社員は、配属問わず一律で本社――つまりはここ――で半年間の集合研修を受けるのだが、その中で数日各部署の先輩社員と同行するプログラムがあり、今日の分は三森にお願いしていた。

 午前中はビジネスマナーやら商材やらの座学、午後から同行。これを一ヶ月ほど繰り返すのだ。


「それじゃあ、僕は仕事に戻りますね」


「あ、えー……っと、その」


 背中を向けようとすると、三森は何か言いたげな、それでいて誘われたげな曖昧な態度を浮かべた。


「……どうかしましたか?」


 俺の言葉に、彼女はぱくぱくと空気を求める魚のように何度か口を開閉した。

 少しの逡巡の後、三森は意を決したのか言葉を紡ぐ。


「蓮池さん、お昼はお時間ありますか?」


「ええ、大丈夫ですよ」


 頭の中のスケジュール帳をぱらぱらとめくる。特に午後に予定はない。暇だというほどでもないが、昼食に行ったとて特に進行に支障が出るほど余裕がないわけでもない――要するに、典型的な閑散期の社会人のそれだった。


「あ、あのっ! えっと、近くにお洒落なカフェができたらしくて……! そこのランチに行ってみたいです! あ、蓮池さんがお忙しくなければ、で……」


 少しだけ上ずって震えている声。緊張しているのが手に取るようにわかる。

 きっと、年上の社長ならば一発で注文書にサインてしまいそうな上目遣いだ。

 それにしても、ランチか。いつまでも藤咲課長のことで塞ぎ込んでいるわけにもいかないし、気分転換も兼ねて行くのもいいかもしれない。


「いいですね、行きましょう。新人の子も連れて行きましょうか?」


「あ、新人の子はお昼持ってきてるみたいで……」


「わかりました。それじゃあ、昼休みに玄関で待ち合わせしましょうか」


 当社は大きな倉庫などを抱えている関係上、郊外にある。近くには一応コンビニがあるが、外食したければ遠出する他ないのだ。


「は、はいっ! 楽しみにしてます……!」


「こちらこそ、お誘いありがとうございます。では、後ほど」


 §


 その後、三森と待ち合わせし会社を出た。

 車で五分、新しくできたカフェは木のぬくもりを感じる内装が特徴的で、壁一面の大きな窓からは春のやわらかい日差しが差し込んでいた。


「わあ……! 写真撮っちゃお」


 目を輝かせた三森は、スマホでランチプレートを撮る。きっと彼女のインスタのストーリーに上がるのだろう。

 そういえば、藤咲課長はインスタとかやってるんだろうか――と、余計なところまで思考が及んでしまった。


「すみません、わたしの希望聞いてもらっちゃって。それに運転まで……」


「ああ、いえいえ。こういう機会でもないと運転しないですし」


 しかし、三森は目の前の食事に手をつけずこちらをちらちらと見ているようだった。


「どうかしましたか?」


「ひゃわあ!? すっ、すみません」


 俺の質問に、三森は慌ててフォークを手に取りサラダを口に運び始めた。しかしその仕草はどこか作り物めいていて、まるでただの作業のようだった。


「三森さん、そう緊張しないでください」


 つんと自分の右頬を指さす。

 それが意味するところを理解したのか、三森はスマホのインカメで自分の頬をチェックした。

 顔を真っ赤にしながらドレッシングをナプキンで拭う様子は可愛らしい。


「しっ、失礼しました……うう、せっかくの食事なのに、格好悪いところを見せてしまって」


「ははっ、気にしてませんよ。先輩だと言ってもひとつしか変わらないですし、気を遣わないでくださいね」


「……うー、えっと……そうじゃなくて……」


 なにやらもごもごと口を動かしているが、それ以上はあえて耳を傾けないことにした。

 食事をしながら、仕事の愚痴、悩み、嬉しかったこと、悲しかったことを三森は滔々と話す。

 彼女はそれらすべてを自身の成長として捉えているようで、素直にすごいなと思った。去年の俺がこんなふうに仕事をしていただろうか。いや、仕事なんて一秒たりともしたくないと思っていたし、いかにして効率的にサボるかだけを考えていた気がする。担当エリアが会社から遠かったため、サボる場所には事欠かないのもそれを手伝っていた。


「……蓮池さん、人事課はどうですか?」


「良いところですよ。営業だけしてたら知らない世界だったと思います」


「そうなんですね」


「はい。学生と関わるのはエネルギーをもらえますしね」


 セクハラとパワハラばかりの部署で、ノルマに追われながら特に必要のない付加価値をつけて、客にメリットがあるんだかないんだかわからないような商売をしていたあの頃に比べれば、今の採用として学生をはじめ求職者と関わる仕事はそれなりに楽しいと思う。彼ら彼女らは可能性に満ちている。

 要するに、トマトを買いたいと言っている客に、むりやりスイカを売りつけるようなスタンスには疲れたのだ。


「そういえば、今は藤咲課長の下ですよね? 仕事もできるし綺麗だし、すごいですよね。わたしはちょっと怖いですけど……」


「そうですね。三森さんの言う通りだと思います。それに、会社では怖がられているみたいですが、良い人だと思いますよ」


 藤咲課長に対する社内での印象は、ほとんどが三森が言ったものと相違ないだろう。

 とはいえ、三森も可愛らしいルックスの持ち主であり、密かに社内では人気があるのだが。


「蓮池さんは営業に戻りたいなって思ったりしないですか?」


「……どうでしょう。戻る気は、今のところはないです」


 三森の伺いを立てるような視線に、すっと顔を逸らして答える。

 声に諦めと怒りが滲んでいなかったかどうか、それだけが懸念点だ。


「そう、ですか」


「はい。それに、営業には新人も配属されますからね。僕が戻る枠もないですよ」


 これも事実。

 その裏に隠した本心まで言う必要はないはずだ。


「それに、他の部署から頑張っている皆さんを見るのも楽しいですよ。勇気づけられます」


「そうなんですか?」


「はい。例えば三森さん、先日大きい受注をしていましたよね。そういうのを見るのは楽しみです」


「……っ、ぁ、ありがとう、ございます」


 三森が所属する第二グループは、うちの商品を仕入れて売る地場の代理店への営業をしている。基本的な部分は販売店側でヒヤリングした上で見積依頼が来るから、必然的に反響営業がメインになる。となれば、商いにおける罪悪感は比較的少ない。

 その代わり第一グループ――正人などの直販の人間は全員第一グループ所属になる――と比べると、売上は販売店次第なのでノルマの達成は厳しい傾向にあるが。


「わたしはっ」


 ぐっと身を乗り出すようにして、三森が詰め寄ってくる。


「はい?」


「わたしは、蓮池さんには営業に戻ってきて欲しいです。蓮池さんがいた頃は、もっと営業部が生き生きしてました」


 まるでセリフだけ聞けば追放モノみたいだ、と思う。

 別に無能スキルがいきなりチートスキルに覚醒するわけでもなければ、実は最強の異能持ちでもないし、いきなりハーレムになったりもしない。


「ありがとうございます。そう言ってもらえるのは素直に嬉しいです。ただ、今の立ち位置も結構気に入っているので……」


「でも――」


「三森さんは頑張ってますから。期待していますよ」


 彼女の反芻を遮るようにして言葉を重ねる。

 期待。期待か。それは諦めから出る言葉だ。自分には成し遂げられないから、できそうな人間に縋る。

 自分がどれだけ弱い人間なのかをまざまざと見せつけられているようだ。


「……いえ。わたし、まだまだですから。頑張ります」


「困った時はいつでも相談してください。仕事のことでも、なんでも」


 そう言って、話を締めくくった。

 困った時は相談してください、か。本当に困っているのはどちらなのだろうな。

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