Chapter 1.
1. 「俺は諦めきれないです」
結局仕事にはいまいち身が入らず、なんとか一区切りついたところで喫煙所へ逃げるようにして駆け込む。壁はタールで黄ばんでおり、窓の外からはぼんやりと外の光が差し込んでいた。
いつものようにハイライトの箱を取り出し火をつけようとしたところで、定位置——スラックスの左ポケット——にライターがないことに気づく。
「げっ……」
さてどうしたものか、と思案するも、ライターを持っている人間が来るのを期待して少し待ってみるかという結論にしかならなかった。
「おー、十和じゃん」
と、そこでタイミング良くぎいと立て付けの悪い扉が開く。同期が春風のように爽やかな笑顔を浮かべながら、喫煙所に入ってきた。
「正人。ちょうど良かった、火借りてもいい?」
「おー、ほれ」
「ありがと」
差し出されたライターを借りて、煙草に火をつける。
この爽やかな黒髪イケメンの名前は
正人を見ていると、本物のセールスパーソンとはまさに彼のことだと思う。ほんのひと握りながら、世の中には実在するのだ。顧客利益と自社の利益の双方を満たした提案で、かつ売上も規格外にあげるスーパーセールスが。
「珍しいじゃん。名刺忘れても煙草とライターだけは持ってるのに。胸引っ張ったら火着かんの?」
「ライターの悪魔じゃないって」
「上司はマキマさんくらい美人だろ」
「違いない」
ライターはどこに置いてきただろう、と記憶を探るが、おそらく別れ話をされた時に失意のあまり藤咲課長の家のベランダに落としてそれきりだ。
俺の時間は、先週末から止まっている。このやるせない気持ちはいつの間にか出口を見失って、ぐるぐると換気扇のように回っているような気さえした。
「最近どう?」
センティアのスティックをアイコスに刺した正人は、呼吸でもするみたいに会話を投げかけてきた。
「……まあ、こっちは割と仕事しやすいよ。課長も優しいし」
「そか。良かったよ。こっちはもうじき繁忙期だから恐怖で震えてるわ」
「営業は大変だよね、この時期。そういや、前言ってたデカい案件取れた?」
「当たり前。おかげさまでノルマ達成、もうあとは消化試合」
ぶいっ、と正人はこちらへピースを向けた。年齢に似つかわしくないその幼い仕草と、もう片方の手に持ったiQOSがなんだかひどくミスマッチだ。
「めちゃくちゃデカいじゃん。受注おめでと」
「あざっす」
期末はどこも繁忙期に突入する。それは営業部もそうだし、自分たちの人事課もそうだ。俺や藤咲課長は時期的に夏インターンの対応に追われているが、営業の正人においては既にノルマを達成しているため”上がり”。既存の案件は次年度に注文してもらえるよう商談をコントロールし、受注残の納品に徹するだろう。
デキるセールスというのは、往々にしてサボりも上手いものだ。
「次の飲みは正人さんの奢りですかね」
「それは勘弁してくださいよ。今は同棲に向けて資金貯めてんの」
「あー、夏ボーナス後って言ってたっけ?」
「そ。もう部屋も見つけてるから、あとは引っ越すだけなんだけどな」
幸せが、彼の中で徐々に輪郭を帯びて明瞭になっているのを感じた。
同棲、か。
俺と藤咲課長が同棲とか、まったく考えられないな。あの人、一緒に住んでもベッドは別にしようとか言い出しそうだし。
「……ま、十和が楽しく仕事やれてるなら何よりだわ。いろいろあったしな」
「ほんと、いろいろね」
そう、俺も昨年までは営業部に所属していた。正人ほどではないにしろそれなりにやっていたとは思うが、とある出来事をきっかけに人事部へと異動になったのだ。
「そういや、三森ちゃんが十和に会いたがってたぞ。異動してからろくに顔を合わせてないって」
「……今度、飯にでも誘うよ」
三森ちゃん。フルネームは三森さやかという彼女は自分のひとつ下、いわゆる後輩だ。昨年は自分がメンターをしており、課こそ違えどよく時間を合わせてお昼に行ったりもしていた。
「昼にしとけよ」
「当たり前」
「十和くんは遊んでるからなあ」
「昔の話だよ。あとそんなに遊んでないわ」
お前はどうなのだと問うてやりたいが、正人はこれで真面目なのだ。大学時代に付き合い始めた彼女とは今年で4年目。社会人になって知り合ってから、浮気だのなんだのといった話はまったく聞いたことがない。
「もう昔って言う奴は大体今もやってる。俺の持論だけど」
「偏見エグすぎるって。……てか、アイコスだったっけ? あとなんでライター持ってるの」
「仕事中はこっち。プライベートでは紙だよ。ライター持ってんのは、火忘れる誰かさんに貸すため」
「え、好きになっちゃうじゃん」
「マジな話、上の人たちはよくライター忘れるし、火貸すと喜ばれるからな」
「はは、そりゃそうだ」
営業において大事なことのひとつに、社内営業がある。
日頃から仲良くしていると、多少無茶な納期でも通してくれたり、優先してくれたりと融通を効かせてくれることが多い。
「久々会ったら話尽きないな。週末飲みでも行くか」
「ああ、週末は――」
予定があるから、と反射で口にしそうになるが、いやと思い留まる。
もう金曜日に藤咲課長と飲みに行くことも、土曜日に彼女とデートに行くこともないのだ。時間はいくらでもある。
胸に湧き上がった虚しさを煙と一緒に吐き出し、笑いかける。
「ん、なんか予定あったか?」
「……いや、何もない。行けるよ」
「よし。んじゃ、あと何人か誘っとくわ」
「助かる。よろしく」
正人はそう言って、iQOSからスティックを抜いて捨てた後ひらひらと手を振りながら出ていった。
慣性で閉まりかかったドアがまたしてもぎいと開き、入れ替わりで入ってきたのは。
「お疲れ様」
「……藤咲課長」
まさかの想い人本人だった。
彼女から離れたくて喫煙所に来たのに、まさかここでも会おうとは。
「これ、忘れてたよ」
「あ、ああ……ありがとうございます」
黒のBICライターを受け取る。
彼女の細くて白い指が手のひらに触れて、それだけでも心臓が高鳴った。まるで中学生の初恋みたいだと思う。
今だって彼女の艶やかな黒髪と、煙草を取り出すその仕草に目が惹かれてしまっている。もう昔のことだと割り切ってしまいたいのに、恋の記憶はずっと鮮明なままだ。
「……藤咲課長」
気づいた時には、心の奥底に抱えていた気持ちが理性の檻をするりと抜け出して表層に現れていた。
もうとっくに、彼女のいない世界への戻り方がわからなくなってしまっている。
「うん?」
「なんで……なんで、僕と別れたんですか。なにか、悪いところとかありましたか」
「ううん、それは違うよ。私は人の善し悪しを判断できるほどできた人間じゃあないけれど……でも、少なくともきみと付き合っていて不満を感じたことはなかったよ」
顔色も声音も、なにひとつ揺るがないまま彼女は言う。
じゃあ、なんで。
不満なんかないなら別れなければいい。ずっと一緒にいればいいだけじゃないんですか。
「……付き合う前にも伝えていたけど。私は、結局付き合うっていうことに興味とか関心が持てなかった」
こちらへ体を向けて、彼女は壁でも貫くみたいにまっすぐな言葉をこちらへ放つ。喫煙所には絶えず換気扇の音が響いているのに、その声だけはやけにはっきりと聞こえた。
「……そう、ですよね。たしかに、藤咲課長はそう言っていました」
三ヶ月という期限を設けるのはそれが理由なのだ、と。藤咲課長へ思いを告げた時、彼女は戒めのようにそう言った。
ああ、そうか。彼女にとっては、ただ誠実に俺との約束を果たしただけなのだ。
「そんな状態で、きみと付き合い続けるのは不誠実だし……。なにより、未来がない。与えてもらっても返せるものがないから」
「それは」
咄嗟の反駁が口をついて飛び出しそうになって、ぐっと飲み込んだ。
俺はなにかを与えて欲しいだなんて思ってない。彼女といられればそれだけで良かった。感情の総量が増えるだけのことが、どれほど幸福だったか。
「こんな人間、好きになっちゃだめだよ。君にはもっといい人がいると思う。私のことは忘れて、幸せになってね」
藤咲課長がかすかに笑った。諦めたようなニュアンスを含んだそれが、ひどく脳裏に焼き付く。
幸せ。しあわせ。口の中でその言葉を転がす。なんだか呪いのようだと思った。俺の幸せは、あなたと一緒にいることでしかないのに。
「……わかりました」
俺の返事を聞いた彼女は、ふうと紫煙を吐き出した。すべては伝えたと言わんばかりに。
「でも、だとしたら。俺は諦めきれないです。もう少しだけ、好きでいさせてもらえませんか」
「それは構わないけど……」
「ありがとうございます。自分がどうしたいのか、もう少し考えてみたいんです」
「……そっか」
諦めた笑みに、諦めの悪い言葉で返す。そんなどうしようもないほどに子どもじみた反抗を、藤咲課長は了承した。
たったそれだけのことで、自分の奥底、原初の階層から熱いなにかがせり上がってくるような気さえした。
俺をこんなふうにさせるのは、きっと彼女だけだ。
「お先に失礼します」
「――うん」
これまでの迷いを払うように火種を消して、喫煙所を出る。
足取りが軽いのは、心もまた軽くなったからだ。藤咲課長への想いは変わらない。けれども、どの方向に進んでいいかわからないままの自分もたしかにいた。
彼女のことを想うことが許される、それだけのことでほんの少しだけ視界が開けたような気がした。
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