ダウナー美人上司を全力で落とします!
雨水ユキ
Prologue.
0. 「別れよう、私たち」と彼女は言った
日付が変わるくらいの時間帯に、ベランダで夜風に吹かれながら吸うハイライトは格別の美味さだ。
梅雨のシーズンにしては冷たく、湿度のない風だった。
「……腰が重いや」
彼女は疲れを感じさせる足取りで使い古されたパイプ椅子に腰掛け、愛飲のピースライトとZIPPOを取り出した。蓋を開ける際に鳴る、きぃんという小気味良い金属音は静かな夜へのささやかな叛逆のようだ。
熟練の職人が手がけたかのような黒髪がゆらゆらと風に揺れる度、シャンプーと煙草の香りが代わる代わる鼻腔をくすぐった。
「すみません、周さん」
「ううん、大丈夫」
彼女は俺の上司で、そして恋人でもある。紆余曲折というにはまったく曲がりも折れもしていない、詩にすらなりきれないただの散文みたいに平凡な片思いを経て今に至る。
仕事中の押しも押されぬ泰然自若な様子、行為の最中だけワントーン上がる声、事後に煙草を吸う物憂げな横顔。インスタのストーリーに載らないような一瞬でさえ、俺をたまらなくさせた。
「……もうこんな時間なんだ」
「本当だ。そろそろ日付変わりますね」
彼女の言葉に釣られて、スマホのディスプレイを点灯させる。二十三時五十九分。
GUのセール通知、LINENEWSの号外、ウェザーニュースの速報。次々に飛び込んでくる意味を持たない文字の羅列を消して、紫煙とため息を混ぜ込んで吐き出した。
新作がセールになっても、政治家が収支報告を誤魔化していても、記録史上初の大雨が降っても、世の中は変わらない。今日もどこかの誰かが真実を探して、いや、真実を作り出そうと躍起になっている。きっと事の真偽なんてどうでも良くて、手頃なサンドバッグを殴って鬱憤を晴らすことさえできればいいのだろう。大抵の人間の真実はベッドの上にしかないというのに。
「早いね、時間が経つのは」
「そうですね」
「本当に……本当に、早いね」
仕事が終わって、周さんと駅前の鎌倉パスタに行き、彼女の家についたのが二十時半。それからコーヒーブレイクをして、シャワーを浴びて、そして呼吸でもするように肌を重ねたのだった。
「十和くん」
「はい?」
藤咲課長が、感情の読めない視線をこちらへ向けてくる。夜風が突然止み、煙草が燃えるちりちりという音だけが鼓膜を揺らした。
「別れよう、私たち」
白い煙が、ふたりの間で揺れて――そして、溶けて消えた。
§
事の発端は三ヶ月前。冬の終わりを告げるかのように雪はすっかり姿を潜め、空気には新芽の香りが混じり始めていた。
その日、俺と藤咲課長はマイナビ主催の合同採用説明会を終え、ささやかながら打ち上げをしようとくたくたの体と荷物を引きずって馴染みのバーに入ったのだった。
「お仕事お疲れ様です。乾杯」
「うん、乾杯」
彼女は疲れた表情を浮かべながらも、やわらかな微笑みを浮かべて言った。自分のグラスを藤咲課長のそれに合わせれば、氷がからんと音を立てる。
「大変だったけど、蓮池くんもよく頑張ってくれたね」
「ありがとうございます。でも、段取りしてくれたのは全部藤咲課長ですし」
「私は大したことしてないよ。むしろ、蓮池くんがビラ配りとか率先してやってくれて本当に助かった」
藤咲課長はそう言って、オペレーターに口をつけた。
彼女は冷静で、いつだって物怖じしない。他部署の人からは怖いと思われているのも知っている。だからこそ、彼女の褒め言葉は心からのものだとわかる。今まで人の顔色を伺いながら生きてきた自分にとっては、飾らない彼女のことがとても眩しく見える。彼女の率直さは、まるで自分を照らす灯台のようだった。
そしてそんな彼女の聡明さを前にして、自分の気持ちが意図せずするりと理性の檻を抜け出して口に出てしまったのだ。
「藤咲課長」
「うん?」
「俺、藤咲課長のこと好きです」
ああ、言ってしまった、と。反射でそう思った。
永劫告げるつもりのなかった気持ちが、言葉となって彼女に向かって流れ出てしまったのだ。
一瞬遅れて、迷惑をかけて申し訳ないという罪悪感と、彼女は俺のことをどう思っているのだろうという好奇心が同居し始めた。
「えっと……うん、ありがとう……?」
「あ、えっと、恋愛的な意味で、なんですけど」
彼女の目が一瞬広がって、それから失語症にでも陥ったかのように俺の顔と自身の持つグラスとを何度か交互に見た。
「……付き合いたいの? 私と」
「は、はい」
喜びや悲しみ、あるいは拒絶というような反応ではない。彼女の声には温度がなく、まるでロボットが発したかのような抑揚のなさだった。むしろSiriの方が人間味に溢れているのではないかと思うほどだ。
なぜ私のことを好きなのか、と。そう問われているようだった。
予想外の反応に、思わずこちらも固まる。
「……そっか」
「すみません、迷惑でした……よね。忘れてく――」
「いいよ、付き合おう」
「えっ」
藤咲課長のあっさりとした回答に、思わず耳を疑う。それからその言葉の意味を咀嚼して消化しきる頃には、バーのざわめきなどとうに遠のいていた。
「ほ、本当ですか?」
「うん。でも、三ヶ月だけ。それでよければ」
「……三ヶ月、ですか」
「蓮池くんは気づいていると思うけど、私は他人にまったく興味がないんだ。だから、きっときみを悲しませることになると思う」
反駁しかできない俺に、藤咲課長は優しく諭すように言った。
それは彼女の口癖だった。
部下も、上司も、取引先も。彼女は人間に興味が持てないのだという。だから自分の気持ちはどこにでも転がっているような片思いでしかないこともわかっていたし、誠実な彼女はきっと告白を断るだろうと思っていた。
それでも構わないから伝えたかった、というのは間違いなくエゴだが。
「俺は……!」
「だから、三ヶ月だけ。きみにとって、気の迷いだったって片付けられる期間」
「……はい、わかりました」
まだアルコールが回りきっていなかった自分の頭には、終わらせたくないから始めない、という選択肢も確かにあったのだ。それでも、彼女と付き合うことができるという事実を前にして、思考回路が単純な構造になってしまっていたのだと思う。
ピースライトを咥える藤咲課長の口元にライターを近づけ、火をつけた。
彼女もZIPPOを取り出して、こちらを見る。ハイライトを咥えてみれば、同じようにそうしてくれた。
オイルライターで着火したからか、丸一日吸えていなかったからか、あるいは彼女に初めてそうしてもらったことの嬉しさか。一口目は格別に美味かった。
「……ふたりきりの時、周さんって呼んでもいいですか」
「うん。それじゃあ、私も名前で呼ぼうかな。……三ヶ月間よろしくね、十和くん」
§
こうして、俺と藤咲課長は付き合い始めた。
仕事終わりの雑談はやがて待ち合わせに変わり、金曜日の夜は特別な時間となった。食事に行って、そのまま彼女の家に泊まるのが自然とルーティーンになった。手を繋ぐのも、ハグも、キスも。それ以上だって拒まないでいてくれた。
朝、陽光が彼女の顔を照らす度に心はあたたかさで満たされたが、それが消え去る日の恐怖で同時に胸を締め付けられる思いをした。恐怖とが綯い交ぜになって、時折ひどく焦燥を覚えることもあった。
けれど、自惚れでなければ自分といた時の彼女は楽しそうにしてくれていたように見えたのだ。だから、三ヶ月で別れるという話もいつの間にか忘れているのではないか、と都合の良い方に捉えていた。
「……おはようございます」
「おはよう」
挨拶しながら自席に着くと、藤咲課長は既に出勤しておりメールチェックをしていた。いつだって彼女はパソコンから目を離して、こちらを見てしっかりと挨拶を返してくれる。そんな律儀なところも好きだった。この人が俺より遅く来ているのは、一日だって見たことがない。
持ち運ぶにはやや重いDELLのノートPCを起動してメーラーを開いてみれば、怒涛の新着メール。付き合いで登録している取引先のメルマガ、人材派遣会社の営業メール、社内の連絡メール。
おまけに、怒涛の夏インターンの申し込み。
月曜の朝イチだというのに、皆一体いつから働いているんだ、と思う。忙しない世間に取り残されているような感覚を味わいながら、ひとつひとつ業務を処理することにした。
「蓮池くん」
「は、はいっ」
まさか向こうから話しかけられるとは思っておらず、少し声が上擦る。
「有給、あんまり取ってないみたいだから計画的に取ってね。全日が難しければ、半休でちょっとずつでもいいから消化すること。新人だからって遠慮しなくていいから」
「……わかりました、ありがとうございます」
彼女は自身のモニターに写っているのだろう課員の有給の残日数と、俺の顔とを交互に見ながらなんでもないことのように言った。いや、きっと彼女にとってはなんでもないことなのだろう。
先週までであれば、たったこれだけのことでも周囲のざわめきが遠のき、彼女の存在だけがたしかなものになった。しかしその鮮明さが、今は遠い昔のように感じられる。
それに、今は忙しい方が気が紛れる。ひとりでいると、彼女の不在が冷たい風のように心を通り抜けるからだ。今は仕事の忙しさが唯一の慰めだった。
「あー……クソ」
先週までと同じ席、同じ仕事。藤崎課長だって先週と何ひとつ変わっていない。同じじゃないのは、関係性だけ。
彼女のほうを見ないようにしながら、俺は黙々とモニタを見つめた。
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