さよなら、私の物語
衞藤萬里
さよなら、私の物語
焚きつけが一気に炎を上げた。だがそれはほんのわずかな間のことで、まだ、か細く不安定な炎だ。少し太い薪を入れていくと、徐々に炎が太くなっていく。
家を建てたとき、妻がぜひにと望んだ薪ストーブだが、本人は服が煙くさくなると、すぐに使わなくなった。かえって私の方が気に入ってしまった。
* * *
最初のきっかけは何だったろうか?
幼いころ夢中になって読んだ『少年探偵団』や『ドリトル先生』がそのような衝動を与えたのだろうか? もう記憶していないが、何かが原因で私は創作を自分の一生の仕事にしたいと決めた。創作者でありたかった。
決めたが、もちろんそれだけでなれるわけではない。当たり前だが、そのための手順が必要だ。
幼少期のあこがれは、少年期の模索の時期へ移る。そのころから私は大学ノートに物語をつづりはじめた。
物語は際限なく頭からあふれだす。シャープペンは魔法をかけられたようにするすると動き、描きだす物語は、信じられないほどの魅力にあふれていた。
私は確信をした。自分の描く物語は、間違いなく傑作であり、多くの人々を魅了するだろうと。
そのころから投稿をはじめた。その時代、インターネットなんて夢の話だったから、手書きの原稿用紙の束を郵便で送る。本当にそういう時代だった。ラジオの洋楽をテープに録音して聞いていた、多分最後の世代だ。
自分の物語がたちまち反響を呼ぶ、高校生作家の華麗なデビュー――私はその後の、自分が作家として活動するスタイルにまで思いをはせていた――そう信じて疑わなかった投稿作品は、しかし一次審査すら通らなかった。つまり鼻もひっかけられなかったのだ。
不思議だった。この私の物語のよさを、誰も理解できなかったのか? そのときは本当に、送った原稿が何かの手違いで編集部に届いていないのではと疑った。
気を取りなおして、新しい物語を次々と創造し、それをまた送った。何作も。
一日に何時間も机にかじりつき、高校生の夏休み、冬休みは部屋にこもっていた記憶しかない。
創作ノートは増えていく。
そのころは、良質なものは必ず評価されると信じていた。だから、私の物語はいつか、もののわかる誰かに眼にとまり、正当な評価を受けるはずだった。
だが、送った物語は、ただの一作も一次審査すら通らなかった。
成人してからも、それは変わらなかった。
相変わらず創作ノートは増えていく。
膨大な時間を費やし、私は投稿用の物語をつづる。
さまざまな賞に送る。
何度も何度も。今度の作品こそ、必ずものになると信じて。書きあげるたびに、これこそが自分の最高傑作であり、世の中に名を成すその第一歩となると信じて。
が――何の反応もない。
私のものでない、何者かの作品が入れ替わり立ち替わり脚光を浴びていく。
私の物語に誰も価値を見出してくれなかった。
煩悶した。苦悶した。
どうして私の物語を、正当に評価しないんだ!
愚かで見る眼がない世の出版社に怒り、絶望し、怨嗟し、それでも懇願するように物語を送りつづけ――その煩悶、苦悶がルーチンと化すころになって、ようやく理解しだした。
私は創作者になど、なれないのだ。費やした十代と二十代は、まったく無駄な時間だったのだ。
夢が覚めるときがきた。
私の創作ノートはそれ以上増えなくなった。
ときは流れた。
現実は優しい。あきらめを忘れさせてくれる。
創作ノートはしまいこまれ、長いこと触ることもない。
机の前でアイデアと文章校正に頭を悩ます創作活動ではなく、今は決まった時間に家を出て、誰かの指示に従うことで生計をたてていた。
以前は心の底で見下していた、非芸術的で平凡な大人に私はなっていた。
だが、私はその生活に充足していたと思う。平凡だが、多くの他の者と同様、自分を大事に想ってくれる者がそばにいる。多分、私は幸せだった。
それでも、誰かと結婚の約束をしたあの日、娘が産まれたあの朝、小さいながらも新築の家のベッドで初めて眠ったあの夜、私の心のどこかから、はらりとはがれ落ちる何かがあった。いや、何かを一枚余分に羽織ったのかもしれない。
煩悶する夜に悩まされなくなり久しかった。
それでも時々、不意に身震いするような感覚にとらわれることがあった。
世界中には何万もの物語があふれるのに、どうして私の物語は誰にも読まれることなく、消えていったのか?
何百何千の物語の創造主がいるのに、どうしてその中に私の名がない?
突如、身体の内側を焦がすような、閃光のように激しい苦しさだった。
インターネットに、誰でも気軽に創作物を掲載できるサービスがある――初めてその存在を知ったのは、ちょうど四十歳のことだった。
評価の高い作品は、入賞などの過程を経なくても書籍化の可能性もある。文学賞でみとめられるなど、わずらわしい段階を経る必要もない。
パソコンやスマホを活用するから手間もいらない。自分の使える時間を最大限利用することができる。
これは使える!
忘れていた欲望が、もう一度湧きあがってきた。これが最後のチャンスかもしれないと思った。
いや待て。そこで少し冷静になった。もう四十歳だ。仕事でも私生活でも、今は多忙だ。今さらそんなことに挑戦するなんて、ばかげている。
だからけじめをつけてやらなくては。だらだらとつづけてもきっと駄目だ。惰性で書いては駄目だ。自分のすべてを賭けて、この勝負に挑まなければならない。
自分に誓約を課した。
――あと十年、すなわち五十歳までにデビューできなかったら、きっぱりとあきらめる!
言い訳はしない。すべてを賭ける。何が何でもこの最後のチャンスをものにする!
退路を断ったつもりだった。
ネット小説、いくつか読んだが、何でこんな話が高い評価を受けるんだろうと思った。書籍化されたものも同じだ。陳腐でご都合主義で、似たりよったりの作品ばかりだ。
自分の物語の方が何倍も優れている。こんな連中の中で、抜きんでることなど簡単だ。これはいける。
それにしても、こいつら、ずるい。かつて苦労して投稿した私の物語よりはるかに劣ったつまらない作品で簡単にデビューして、文筆業なんて名乗れるのだから。
人生は不公平だ。もう二十年遅く生まれていたら、きっとこの波に簡単に乗れていただろう。結局、私にはつきがなかったんだ。
多分みんな、私よりもずっと若い人たちだろう。こんなやつらに敗けてたまるかと、敵愾心に燃えた。
その日から私は、ネットの中に自分の居場所を求めた。
これが最後のチャンスだ。若い日の執念が再び、猛然と燃えさかった。
書いた。
必死になって、すべてを賭けて私は書いた。
ネットの中で、あきれるほどの駄作がランキングの上位を占めるのを軽蔑の眼で見つつ。
それらがたやすく、次々と出版されていくのを羨望の眼で見つつ。
マンガ化され、ときにはアニメにまでなるのを、嫉妬の眼で見つつ。
私を置き去りにして、私がなりたかったものになっていった。彼らはこれから、私が苦悩した時間などとは無縁の、創作者としての満たされた人生を送るのだろう。
不公平だ。
書きつづけた。
だけど、私の物語はどこにも到達しなかった。
それなりの評価はあった。
――おもしろかったです。
――すごい作品だ。
――読まないと損。
――意外な展開、すばらしい人物描写。
コメントをのこしてくれる人は何人もいた。だが同じサービスを利用している連中だ。お世辞半分だろうし、自分への評価ほしさに、片っ端からコメントをのこしているやつだっているに違いない。
素人レベルの誉めあいなんか、ほしくない。私がほしかったのは、あなたの作品を書籍化しませんかというリアルな提案だけだった。
このころ、文章のルールが守られていないもの――たとえば文頭一字下げや、感嘆符の後は一字空けるなど――は事務局で端からはじかれるが、守られてさえいれば文学賞は基本的に一次審査ぐらいは通る、というネット上の噂話を聞いた。
愕然とした。私の創作物は、そのあたりきちんと守っていたはずだ。私が若いころに送ったものは、文章のルールすら守られていないものと、同じレベルで扱われていたのか? 価値がわかる人の眼にきっととまると信じていた私の物語は、審査員の手元にすら届かず、事務局のくず箱――比喩的な意味だ――に突っこまれていたのか?
もちろん、本当かどうかはわからない。うそだと思いたかった。
一年、二年――形だけの評価、上っ面だけの評価。
それが三年つづき、四年つづき、四十代半ばを過ぎても何も変わらなかった。
タイムリミットは目前まで迫っていた。のこりの方が少なくなった私の時間。焦る。苦しい。息がつまりそうだった。
ランキングすらも伸びなかった。
それでも萎えそうな気力を必死でつなぎとめて、ネットの世界に自分の物語をさらけ出しつづけた。
だがときは残酷だ。
髪は薄くなり、腹は無惨にだぶつき、顔中にみっしりとしわがはしり、手の甲にしみがうかび。ある朝突然、鏡の中のくたびれた中年が自分だと知り、愕然とする。
老いが迫り、ある日ついに私の背中をそっと叩いた。
先日、私は五十歳となった。
このゲームセットを、私は呆然と迎えた。疲れはてて振りかえっても、自分が歩いてきた跡に何もなかったことを改めて知った。もうすべてをしぼりつくしていた。
呆然とした後、私は悶絶した
五十年、五十年だ! 半世紀だ、信じられない! そんな時間を私は生きてしまった。そのうち半分以上を、私は創作者を目指して生きてきた。
しかし、何も私はこの世界に生きた証をのこしていない。
こんなに、こんなに、こんなに苦しんだのに。
悔しい、虚しい――いや、私が費やしたこの時間を、そんなありきたりの言葉などで表現できない。自分の人生そのものを、世界中から否定されたような気分だ。
……
……
……
……いや。
本当はきっと、ずっと前からわかっていた。
みとめたくなかっただけだ。私は私が望んだ何者にも、決してなれないだろう。なれるのなら、もうとっくになっている。
一度あきらめたが、再び立ちあがった。
若かったあのころとは違う。人生経験も積み、自分には厚みがあって、それを物語に反映することができるはずだ。あのころは手に届かなかったものが、今ならつかめるのではないかと、もう一度奮いたった。。
だが十年という制限をつけたときから、本当はわかっていたに違いない。
みとめたくなかったんだ、きっと。みとめてしまったら、もっと取り返しのつかない後悔にさいなまされてしまうからだ。だから挑んでいるふりをした。惰性だったのかもしれない。
五十歳までにだめだったら、六十歳までがんばればいいのでは? それがだめでも、もう十年。本気だったらできたはずだが――無理だ!
挑む気力は、もうないのに気がついていた。
いくつもの小さい峰を、死に物狂いになって越えたら、眼前にもっと険しい岸壁がそびえていた。見上げても果ても見えず、装備も技術も体力もなく、岩壁は触れれば鋭く私を傷つけた。私にはもう、挑みようがなかった。
正直に云おう。
私はもう、あきらめたかった。楽になりたかった。
* * *
自分の部屋から十七冊の大学ノートを持ちだした。十七冊、素数だ。一番古いもので三十年以上前のものだ。表紙はすっかり色あせている。
ストーブの焚口を開ける。揺れる炎が顔を炙る。
私は一冊を取りあげる。一番新しいものだ。ぱらぱらとめくる。これを書いたとき、どんなことがあったか、うっすらと記憶がある。
不思議なことに、ここ十年、開いたことはなかった。昔つづった物語は、ネットでは公開しなかった。
どういう心境だったのだろう? デビューしたとき、ストックとしてとっておきたかったんだろうか?
だがこうして読みかえしてみると、その理由がわかったような気がした。
創意に満ちていると思った物語たちの平凡さ。粗く雑な物語。この程度のものだったのか。他人から評価を受けるはずなかった。改めて読むと、やっとはっきりわかった。
こんなものに、長い間心を捉えらえれていた。もっと早くに気がつけば、あんなに膨大な無駄な時間をすごさなくてすんだのに。
ノートを閉じた。これ以上眼を通していたら、決心がにぶりそうだった。
焚口に投げこむ。ばさりと火の粉が舞い、変色した表紙が抵抗するように反りかえり、あっけなく炎に包まれた。
私は二冊目を取りあげる。二番目に新しいノートだ。また眼を通し、投げ入れる。三冊目も、四冊目も同様に、儀式のように中を確認し、一冊ずつ灰にしていった。
私が創造した物語が、名前が、地名が、世界が消失していく。やがて私の命が絶えてしまえば、永遠に消失するだろう。
最後の一冊、一番古いその一冊はもっとも表紙が色あせていた。表紙をめくると、一番最初のページに日付が入っていた。創作ノートをつづりはじめた日だ。もっと何か、すごく恥ずかしいことを書いていたような気もしていたが、記憶違いだったようだ。何もなかった。ただその日付は、ノートに書かれていたすべての言葉よりはるかに強く硬いものに見えた。
私はもうそれ以上中を見ることができず、最後の一冊を手放した。原初の物語は、ひときわ大きく鮮やかな炎をあげた。
十七冊の創作ノートがすべて灰になるのに、長い時間がかかった。私は眼を離すことができなかった。
あの創作ノートを顧みた瞬間、私は敗者の記録だと思った。
だが違った。かつての物語を読みすすめると、そこにはこれまでの私がいた。若い日の自分がすべて詰めこまれていた。どうしようもなく自分だった。
誰からもみとめてもらえなかた。
苦しかった。悔しかった。虚しかった。
だけど……だけど、その中でほんの何箇所か……わずかな云いまわし、わずかな一節、まばゆい箇所があった。
あぁ……わかった。
そのまばゆい、わずかな言語が、三十年以上という私の挑戦を支えてくれたんだ。
誰にも評価されることはなかった。誰からも求められることもなかった。
私が創造したのは、その程度のものだったのだ。
だがそれは、まぎれもない自分だった。若い日の自分の物語だった。
できがよかろうが、悪かろうが、あのころの自分にしか表現できないものだった。
今私は、自分を燃やしたのだ。
後悔もある。失意もある。無駄な時間をすごしたという苦い想いもある。
すべてはあの創作ノートからはじまった勘違いだと思う。
その一方で、私を縛りつけていたものが消えたような感覚もあったが、それは少し後ろめたかった。
すべてを灰にして、私はもう本当にあきらめることができた気がした。
だからこれでいい。もうこれでいいんだ。
さよなら、私の物語。
これでやっと解放される。不思議な安堵があった。
ただ、三十年前の私に、わずかにまばゆさを感じた自分の物語に、もう出会うことができない、そのことがとてもさびしかった。
(了)
さよなら、私の物語 衞藤萬里 @ethoubannri
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